集合意識が暴走する社会―僕という心理実験14 妹尾武治
過去の連載はこちら。
第2章 日本社会と決定論⑥―集合意識が暴走する社会
集合意識と共同幻想
社会や集団には、個人個人の意識を超えた集団としての意識が宿る。それが集合意識である。例えばコロナ禍において、もっと世界が混乱したら面白いのにと内心で思う部分があり、その意識が集合することで社会全体が混乱を深める方向に進むようなことはありうる。
ダイヤモンドプリンセス号からの中継に内心ワクワクしていた人達、第4、 5波の広がりに無自覚にワクワクしてしまう人。社会が無意識のうちに悪い方向に舵を切っていることがある。一人一人はさほどあの有名人を憎んでいないのに、ネット社会全体では恐ろしいほどの憎悪が渦巻いてしまうのも集合意識の怖さなのかもしれない。
この集合意識は、吉本隆明の共同幻想の概念に近いのかもしれない。臨床心理学の巨星、京都大学名誉教授の河合隼雄も日本人の精神性の源泉、つまり共同幻想の源泉であり、集合意識の基礎として、古事記などの日本の神話に辿り着いている。神と集団というものを考えることが、自己や自由意志と密接に関係している。
太平洋戦争を回避出来なかったのは何故だろう? 当時の日本には狂った人間しかいなかったのか? 全くそんなことはない。戦前の会議文献を見れば、当時の政府の中にも反戦論者は多数いた。あまつさえ勝てるはずがない国力差を、きちんと指摘する人物が数多くいたことが記録資料として残っている。
同様に、今の某国を「狂った人たちの狂った国」と思うのも全くの間違いだ。かの国々にも、日本人と変わらない数の理知的な賢人たちがいるはずだ。彼らは我々と同じだけ優しい。ないしは日本人は彼らと等しく寂しく哀しい。それなのに社会全体として見たときに、どうもおかしなことが起こる。
これは、吉本隆明の「共同幻想」の暴走、集合意識の暴走だと私は思っている。個々人の意志、意識、思考は集団のそれに巻き込まれる。
政治に辟易しているはずなのに、選挙に行って政治を変えることは集団として選択されない。戦前の精神論に依拠した日本社会のまずい部分が露呈し始め、このままでは日本はどうにもならないと思っていても、個々人の意志では社会を変えることが出来ない。
60年代に学生闘争を経験した世代の方なら、この感覚は嫌と言うほど知っているはずだ。その同じ空虚感を、選挙に行かない今の20代は持っている。同じ虚しさが繰り返し感じられている。
社会の渦は圧倒的に見え、決定論的なものに感じる。それでも、一票を投じることで何かしら自分の意志をそこに反映させられるはずだという希望が持てる人たちも実在する。実際に、自分の意志を他者に比べて大きく反映させられる権力者もいる。
個人としての人間は世界・環境の中ではごく弱い存在、運命に流されるだけの「大河の一滴」である。しかし、世界・環境という圧倒的な決定論的存在に比べると、人間社会・集団はもしかするとある程度、意志の力がはたらく範疇にあるのかもしれない。個人を能動とすれば、環境は受動であり、集団意識とは過去の言語に存在した「中動態」的な存在なのかもしれない。(ベルクソンは、生物は個を維持できないと主張している。であれば、決定論でも自由意志でもない”中動態的あり様”、すなわち「空」が正解なのだろう。これについては、だいぶ後に説明していきたい。)
芥川龍之介と共同幻想
明治・大正・昭和を生きた芥川龍之介は、自立的思考の達人だったと言えるだろう。共同幻想を疑い、自分で全ての物事を考え、価値づけることが出来た人だった。だからこそ、最晩年の『歯車』では自分自身の存在までをも疑い相対化して、ドッペルゲンガーに怯えた。
自立的に考えることは、拠り所を持たない態度を貫くことだ。なにものにも頼らない人間の孤独。“ぼんやりした不安”、芥川が友人の久米正雄に宛てたとされる遺書に書かれた、自殺の理由だ。共同幻想から離れること、拠り所を持たず自力で世界を捉え続けること。そこに不安が生じるのは必然だ。
読者の皆さんは「考えろ!」というメッセージを、この連載から感じられているかもしれない。正直なところを言うと、考え続けることはあまりすすめたくない。自立的思考が自死につながった例は、枚挙にいとまがないからだ。
自死でなかったとして、例えば戦争は正しいという共同幻想に対して、異を唱えることが出来た人物、ルールを破って本当に価値があると信じたことを世に問えた人。「人を殺すことは良くないのではないか?」という考えを持ち続けられた人。彼らは治安維持の名の下に拷問を受け、殺されていった。つまり自立的思考者は自死をせずとも、そのうちに社会の方が殺しにやって来るのだ。それは明示的な武器を手に持った存在ばかりではないだろう。だから、「自分で考えることの価値」を思考停止状態で、世間に訴えることは正直したくないのだ。
余談だが、そんな芥川も共同幻想から完全に自由だったわけではない。彼の恋文にはこんな一節がある。
赤ん坊のような純粋無垢さを持ち続けて欲しいというメッセージを恋人の塚本文子に送っている。
この文面から芥川は、女性が自己実現に全力投球することや、女性が勉学を徹底的に追求することを望んでいなかった可能性が透けて見える。明治最高の思考者であっても、女性の思想や思考、そして自己実現を軽視するという歴史的文脈からは自由になれなかったのだ。(もちろん色々な解釈が可能だろうから、私の意見はもしかすると間違いかもしれないので、注意は必要だ。)
共同幻想や集合意識、それらに従順であることで、我々は思考に関わる労力を節約させることが出来る。行動の責任を他者に転嫁出来る。しかし、バンクシー はこんなことを言っている。
「静聴せよ 静聴 静聴せい」
眼前の人と自分の対等性を狂信的に愛し、貫くことが出来れば、僕たちは共同幻想を忘却し束の間、人を大切に出来るだろう。
"あなたに いて ほしい"
(続く)