面白くない人生であることは、あなたの責任ではない―僕という心理実験17 妹尾武治
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第2章 日本社会と決定論⑨―人間は存在そのものが「こぶ」
弱く無い者なんていないし、“くだらない悩み”なんてものも無い。弱音を吐かずに人は生きていかれない。だからこそ、マジョリティ側にいつつも、軽めのテンションで弱音が吐ける、ちょっとした「こぶ」の自称がもてはやされている。
昨今HSP(High Sensitive Person:人一倍敏感で鋭敏な感性を持っていることを自称する人)のような医療的な病名ではなく、ポップに心の特性を示すような言葉が巷でもてはやされていたり、「自称サイコパス」、「私、発達障害っぽいところがある」などの言説が巷に増えているように見えるのは、こういった事情から来るものだろう。
人間は自分の主観にしかアクセス出来ない。一人一人孤独であり、存在そのものが「こぶ」なのだ。だから普通だと思っている人こそ(そんな人は一人もいないし、「普通」という状態はこの世界には無いはずなのだが)、時々で良いので心理学的決定論の引き出しを開けて「逃避」するべきだ。
いつの頃からか、人生が嫌になってしまった人。どこでそうなったのかすら思い出せなくなった人。進学、就職、結婚。自由意志で、自分で選択して決めたはずだった。それなのに、その突端としての「今」がなんだかおもしろくない。しかし自分で決めてきたのだから、自己責任で仕方がない。自由意志の呪縛。
情熱的に生きたいのに、何も頑張ってもやり遂げられない。本当は夕日や星が綺麗だと思う自分の心に気づいていても、そんなことを思う自分をどこかで馬鹿にし、強制的にダサく感じるように仕向けている。そんな自分になんて価値がない。自己卑下と自己嫌悪の無限ループ。
「でも人生なんて誰しもそんなものでしょ。」
自己欺瞞すれば、かりそめの安定が得られる。一旦ここから、離れよう。世界は全て事前に決まっている。あなたの意志など存在しない。であれば、今面白くない人生であることは、あなたの責任ではない。神の責任だ。しかしそれを受け入れて「だとすれば、そのうち人生は好転し、何か楽しいことが起こるはずだ」と思ってみても良いのではないだろうか。逆にもっと悪くなるなら「神よ、どこまで俺を弄ぶのだ」という俯瞰した視点で、半笑いで人生を生きたって良いじゃないか。
社会は発展し続け、人類は成長し続けて来たように見える。従来の宗教の力は衰え、成長という価値観を感じられなくなってきた日本などの先進諸国では、科学という新しい信仰が蔓延している。時代はさらに進み、今後数年から数十年の間には決定論が流行りだすだろう。
決定論は受動的ニヒリズムと薄皮一枚で繋がった不安定な思想だと思われがちだ。しかし実際には、この思想は個人の成長を是とする従来の価値観を「新しい形・より無理の無い形」で中に組み込むことができる。決められた未来に一生懸命に走っていくという考え方だ。
未来で待っている恋人、愛する家族、素晴らしい仕事、楽しい時間、幸せな感情、そこに向かってあなたは一生懸命に今を走れば良い。その全力疾走の楽しさこそが決定論の魅力だと私は思う。
決められた演技・台詞だとしても、役者が精一杯演じる時、その舞台は他者だけでなく自分の涙さえ引き起こす。
かつて坂口安吾は『堕落論』で、「人間に戻れ、自分の内側に向き合え。知識層の上から目線の言葉に縛られるな。純情一途で本当のことを言え。」という主旨の言葉を世間に投げかけた。しかし多くの人はいまだに本文を読まず、『堕落論』というタイトルだけに惹かれて彼の真意を誤解している。
『心理学的決定論』というタイトルもまたその道を進みかねないが、私の言いたいことは広く一般的に思われている「決定論のイメージ」と真逆のことであり、『堕落論』で伝えたかったメッセージとほぼ同義だ。この点はどうか理解してもらいたい。それは『ふしぎの海のナディア』のオープニングで歌われるメッセージ。そしてネモ船長が命を懸けて、娘ナディアに託した最期の言葉と同じものでもある。今、内藤礼『うつしあう創造』の中の言葉を借りながら、手紙として、私の想いを大切な存在になりうる”あなた”に贈る。
(続く)
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