愛着は「母子限定の絆」じゃない!あなたもきっと子供にとって大切な大人。
子どものために全ての大人ができること
「子ども」
この言葉を聞いて、あなたの頭に浮かぶのは誰でしょうか。もし、あなたが親であるなら、自分の子どもの顔でしょう。子どもに関わる仕事をしている方なら、クラスや園や学校にいる子どもたちでしょう。これから生まれる子どもの姿を想像した方も、あるいは社会に生きるたくさんの子どもたちを思い浮かべた方もいるかもしれません。
この本は、心理学を専門としている筆者が、どんな形であれ子どもと関わり、子どもに関心を寄せている方に向けて、子どもをテーマに書いたものです。けれども、子どもの心理や育ちの特徴についてではなく、また、子育てのためのハウツーを示すのでもなく、「子ども」と「大人」の間に生じる心理的な関係にスポットをあてるものとしました。
「子どもと大人との関係」の「子ども」の部分には、先ほどあなたが思い浮かべた具体的な子どもの顔をあてはめてみてください。「大人」の部分には、あなた自身をあてはめてみてください。あなたがその子どもと関わるとき、あなたの心に何が起こるでしょうか。あなたには何が求められ、あなたには何ができるのでしょうか。そして、あなたとの間に築いた関係は、その子どもに何を伝えていくのでしょうか。
この本は、子どもを客観的に遠くから矯めつ眇めつするのではなくて、子どもと一緒にいるときに湧き起こる大人の心の動きに着目します。つまり、子どもについての本だけれども、大人であるあなた自身の価値に関わる内容でもあります。ですから、自分事であると思いながら、ページをめくっていただきたいと願っています。
子どもの「幸せ」を考える
なぜ本書が「子どもと大人との関係」に着目するかというと、子どもが生まれてから出会う様々な相手との間に築く関係の「質」を考えていくことが、子どもの幸せな人生につながると思うからです。子どもとつながる大人が、知恵を持ち工夫をして、子どもとの関係を「いつでも、ここから」つくり、続けていくよう励むことは、子どもが幸せに生きていくちからを育むことにつながると考えるからです。
本当のところ、筆者は、「幸せ」なんて大きな言葉を使うのはどうにも苦手です。苦手の背景にからめて少し自己紹介をしましょう。私は心理学、中でも特に発達心理学の研究をしています。心理学は心の理にせまる学問です。私たちの心は、いろいろなものに反応します。その反応の仕方や、反応の仕組み、何に反応するかなどを探求するのが心理学の醍醐味です。
発達心理学には、生涯における発達段階ごとの特徴、例えば、乳児や幼児、成人、高齢者、それぞれにおける心の反応の違いを研究するという面白さがあります。私は特に「人間は心を持って生まれてくるのか」「心は生まれてからどう育っていくのか」といったことに関心があり、乳児や幼児の心理的発達を研究してきました。
さて、件の「幸せ」ですが、これはそれぞれの心が感じ取るものだと思います。また、同じ人であっても、子どもの頃の幸せと、大人になったときの幸せは違うかもしれません。十人十色の幸せは語るに難しく、ですから「幸せ」なんて言葉はこれまでそうそう使うこともありませんでした。また、考えてみることもなかったように思います。
ところが、自分が親になって子どもとの生活が始まると、俄然、子どもの幸せについて考えるようになりました。「這えば立て、立てば歩めの親心」とは言いますが、生来のんびりしている私の性格によるのか、親が願うより子どもの変化はまぁ早く、「もう立ったの⁉」「もう歩くの⁉」「もうし
ゃべるの⁉」と驚くことばかり。子どもの軽やかで伸びやかな変化は、親の心を強力に惹きつけるものでした。
「あなたはどんな大人になるのかしら」「どんな仕事をするのかしら」「どんな生活をするのかしら」。そんな想像をしては、子どもの人生が幸せなものであることを願わずにはおれません。幸せという言葉に得体のしれない難しさを感じていた私も、子どもについては真剣に、堂々と、幸せを願うに至っています。
子どものためにできること
私に限らず、きっと多くの大人が、子どもの幸せのために何でもしようと思っていることでしょう。できることなら、幸せにつながるどんな要素もかき集めておいて、子どもの将来の節目節目に「幸せ詰め合わせパック」の発送を予約しておきたいくらいです。問題になるのは、そんなタイムマシン予約サービスがないということより、何が子ども本人の幸せかを予測するのが難しい、ということです。親が今思いつく幸せは、将来の子ども自身にとっての幸せであるかどうか、現時点では全く分かりません。
それならばせめて、子どもの人生につらいことや大変なことが起こらないように、親が困難を防いだり逃げ道を示したりすることはできないものでしょうか。ところがどうして「困難」もまた、予測が難しいものです。子どもに大変なことやつらいことが何も起きない人生を用意することはやっぱりできません。けれども、「何かあっても何とかなる」という心持ちを育てるサポートならば、私たち親に、大人に、できることがあるのではないかと思うの
です。
メンタライジング──心で心を思うこと
私は「心は生まれてからどう育っていくのか」ということに関心があります。親になるという経験を通して、子どもの心は日々関わっている人との「関係の中」で育つのだということを示すたくさんの研究が、より一層の重みを持つようになりました。
近年、心理学の領域では「心で心を思うこと」を意味するメンタライジングという言葉がよく取り上げられます。筆者の仮説、そして興味は「大人のメンタライジングが、子どものメンタライジングを育むのではないか」と表現できます。子どもが自分の心で、自分の心や相手の心について思うことは、最初からできることではありません。
子どもはあっという間に大きくなるけれど、一人で全自動式に大人に変身していくのではないのです。その育ちの過程には、その子どもの心を思ってくれた大人の存在があると思うのです。「何かがあっても何とかなる」という心持ちも、子どもが誰かと共に出来事を経験し、心の動きを支えてもらって何とかなったという体感を経て、育まれていくのです。
子どもが体験を共にする、つまり関係を築く相手には多くの大人がいます。「子どもの幸せ」というゴールに直結する「黄金の道」は作れないかもしれませんが、「子どもと関係を築くために」「その関係をよりよいものにするために」というゴールを目標とするならば、心理学の研究に基づいて、私たち大人ができること、知っておいたほうがいいこと、何より大人にとっても子どもとの関係が楽しく感じられるようになることを、具体的に示すことが
できると考えました。
大人と子どもの関係を考える視点は多様にありますが、本書では、心理学の中で人間関係を扱う主要な理論の一つである、アタッチメント理論に注目したいと思います。そして、アタッチメント関係の中で、大人が子どもの心を思うことや、子どもが心を扱えるようになっていく姿を描いていきます。
アタッチメントは母子のもの!?
日本語では「愛着」と訳されるアタッチメントは、とても大きなテーマで、これまでにも多くの書物で取り上げられてきました。読者の中にも知っているという方が多くいらっしゃるでしょう。私自身は、基礎研究の分野でアタッチメントに関する知見に触れてきましたが、もともと心理臨床の領域で興り、発展してきた理論ですから、自分の子育てにおいても、それらの知識がとても大きな支えになりました。ですから、アタッチメントは子どもの育ちを考える際に知っておく価値のある大切なことだと考えています。けれども、子どもの育ちを支える様々な現場において、アタッチメントは今、複雑な立ち位置にあるかもしれません。
というのも、アタッチメントに関連して、あるいは関連させるようにして、筆者には疑問や不安が胸の中に広がる表現に出会うことが時折あるからです。「母子のアタッチメントは何よりも大切だ」「母子関係さえうまくいけば子どもの育ちは万事うまくいく」、あるいは「子どもが問題を抱えることになるのは親との、特に母親との関係が問題だから」といったものです。
このようなメッセージは、親、ことさら母親に重い責任を感じさせ、不安や恐怖感を抱かせ、苦しめる可能性があります。少なくとも、私自身はとても重苦しく感じます。親子支援に長く関わってこられた先生が「母親が頑張らないと大変なことになりますよ、なんていう愛着の話に、親の側も、親子を支援しようと奮闘している側も、ほとほと疲れきっている」と話しておられたのが、印象に残っています。
筆者は、このような、親、特に母親を追い詰めるようなメッセージには大きな疑問を感じます。アタッチメントの研究はどんどん動いていて、進んでいて、広がっています。それらを眺めると、親を不安にさせ、そして子どもを苦しめてしまうようなメッセージをそのまま受け取ることはできません。何よりアタッチメントの根幹のテーマは「安心感」なのです。それが、親や子どもの不安を煽ることになりかねないのは、この領域で研究をしている者と
しては悲しくなります。
まず、アタッチメントは、親子、まして母子に限定されるものでは決してありません。確かに研究が始まった頃、その研究対象は母親でした。しかし、それは当時の研究環境においてそうなっていただけであり、アタッチメントが母親限定に築かれるということを意味しません。子どもには、いろんな人が関わっています。特に今日、子どもの育ちは、親、あるいは家庭だけでなく、幼児教育・保育、学校、地域や社会でみんなが関わっていくものへと変
わってきています。アタッチメントの研究対象も実際に広がっていて、子どもはいろいろな大人との間にアタッチメント関係を持つことが示されています。
もう一つ、これまでに蓄積された研究知見に照らして、アタッチメントは子どものまわりにあるたくさんの事柄や育ちの中の一つであり、万能とも根源とも言えないと考えます。少し乱暴な例ですが、あなたの現在地からある美術館までの経路を地図アプリで検索すると、推奨ルートが提示されるでしょう。その道を進めば美術館にたどり着きますから、「この道は美術館につながる」という理解は正しいでしょう。
でも、現実において、美術館につながる道は何通りとあるはずですし、どこから美術館に向かうかという起点はいくらでもあり、それらの起点から美術館への道を数えれば、何万通りとあるでしょう。美術館を子どもの姿とすると、そこにつながる道も無数にあって、アタッチメントはその中の一つなのです。
そして、アタッチメントは、子どもの育ちや姿を隅から隅まで説明したり、変えてしまったりするようなものでは、全くないと考えます。本書でも、アタッチメントが子どもの姿や育ちと関連する部分を取り上げますが、それは「部分がある」ということであり、子どもの育ちの全体に、なんでもかんでも関連するわけではありません。
アタッチメントが提唱され、世界中で研究が展開されるようになって、
70年以上が過ぎました。近年では、アタッチメントが本当に重要な意味を持ちえるのは育ちのどの部分なのか、あるいは、どのような環境においてなのかを明確にしようとする、いわゆる境界設定という課題が注目されています。
本書の視点
こうした前提のもと、子どもたちが「もし何かがあっても何とかなる」という心持ちでいられるように、そして、何かがあったときには自分の心や相手の心を信頼して一緒にやっていけるようになるために、大人にはどんなサポートができるかを考えるという目的で、本書ではアタッチメント理論や研究を紹介します。また、本書はこうした意識から、手にとって読んでくださる方を親に限定せず、子どもにつながりうる幅広い大人と想定しています。私自身の経験を示す際、それは母親としての体験談となりますが、子どもにつながり、子どもの育ちを支えているのは、決して親だけではないし、親だけがするべきというのも全く違うと考えています。
本書では「大人」という表現を多く用いますが、それぞれの形で、ご自分を「大人」に含めて読んでくださると幸いです。また、ご自身を「子ども」にあてはめて、ご自分のこれまでの育ちの道のりに関わってきた多くの大人たちとの関係を考える契機にしていただくこともできるかと思います。
人は成長の過程でいろんなちからを備えます。乳幼児期の身体の発達などは、目覚ましいものがあります。どうして立つように、しゃべるようになるのか、驚きと不思議に満ちています。大人が赤ちゃんを「立てるよう」「しゃべるよう」にしたわけではありません。
心の発達も、同じようなものです。人間は、みんなで協力したり、だましたりだまされたりしながら、長い年月を生き残ってきました。その過程で社会脳と呼ばれるものが極めて高度に発達し、私たちは、人間関係、あるいはそれが多様に絡み合う大きな社会をつくり、複雑な情報を処理できるようになりました。
この本で中心的に取り上げる「心で心を思うこと」=メンタライジングは、社会的認知能力として考えられるものです。そして、大人ができることは、子どもに社会的認知能力を授けることではなく、子どもが人間として備えたちからを十分に発揮できるよう、せいぜい支えることなのです。
大人が、子どもの心をゼロから創出するのではありません。心の発達と
心の創出はものすごく大きな違いです。大人が子どもを「育てる」と言っても、ゼロから一を生み出すほどのことはできないし、育ちを「支える」と言っても、子どもに絶対的で不可逆的な影響を及ぼすほどのちからはないのです。それができると思うのは、命に対して不遜ではなかろうかと感じます。だから、大人はせいぜい支えることしかできないのだけれども、そのせいぜいのことが、なんとも奥深いのです。そして、そのせいぜいのことを大人たちが工夫して、大人たちも手を取り合って、子どもと一緒にあれこれやってみるのは、やりがいのある、楽しいことだと思うのです。
関係はいつでも、ここから
本書の中心テーマとなるメンタライジングの発達は、その他のあらゆる側面の発達と同様に、一生涯続きます。アタッチメントもまた、「ゆりかごから墓場まで」と言われるように、一生にわたって機能します。こうした生涯発達を大前提として、本書では一生続くその発達の、特に最初の方に焦点をあてます。
それは一つに、私自身の研究関心が乳児期、幼児期にあるためです。この時期の子どもの心と大人の心の様子はまだ対称ではないところに特徴があります。いろいろなことができる大人と、これからできるようになっていく子どもは非対称なのですが、やりとり自体は生まれてすぐに始まっていて、この非対称なやりとりの仕方や特徴が興味深いのです。
二つ目に、筆者は親としても経験が浅く、体験談としてはこの時期の子どもに向き合う経験しか書くことができません。そのため本書の内容は、もっと大きな子ども、児童期、青年期、成人期の人間について理解するには不十分なものです。ただ、誰しもみんな、赤ちゃんから人生が始まります。ですから、乳児期や幼児期という人生早期の姿について知ること、考えることは、誰にとっても、今の姿に連続するものとして大切ではないかと考えています。
それから、お伝えしておきたい大切なことがもう一つ。アタッチメントの研究で繰り返し強調されているのが「関係はいつでも、ここから」ということです。もしあなたが関わっておられる子どもが、乳幼児よりも少し大きかったり、うんと大きかったりしても、本書を通してあなたが大人として子どもに対してやってみようとか、こんな視点で見てみようと感じることが一つでもあれば、ぜひ、今、ここから、試していただきたいと思います。
「人間関係」とは、今、あなたが子どもとの間に作っているものであり、子どもにとっては今、ここであなたとの間に感じられるものが大事なのです。私には、長年アタッチメントを研究してこられた先生の「遅すぎるなんてことはない。だって、あなたがいて、子どもがいるのだから」という言葉が忘れられません。
イベント開催
4月6日、紀伊国屋新宿本店アカデミックラウンジにて、紀伊国屋書店×光文社新書ビジネス講座に本書著者が登壇します。youtube生配信もありますので、ぜひご参加ください。
著者紹介
篠原郁子(しのはらいくこ)
2002年、九州大学教育学部卒業。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(教育学)。専門は発達心理学、教育心理学。国立教育政策研究所生徒指導・進路指導センター、および幼児教育研究センター主任研究官等を経て、2024年度より立命館大学産業社会学部教授。乳幼児期の社会情緒的発達を中心に、親子関係、幼児教育・保育の研究を行っている。著書に『心を紡ぐ心―親による乳児の心の想像と心を理解する子どもの発達』(ナカニシヤ出版)などがある。