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小川洋子のつくり方|馬場紀衣の読書の森 vol.54

小川洋子の作家活動を最初から追いかけるには遅れての出発になってしまったけれど、これまで出版された全小説をすべて読むのに間に合ったことは、幸運だと思う。一読者として新しい小説を待つ楽しみと、くりかえし読むという喜びの、両方を味わうことができるのだから。

本書は、その小川洋子の作品と創作が語りつくされた一冊。なにせ海燕新人賞を受賞した「揚羽蝶が壊れる時」にはじまり、そして本来ならデビュー作になるはずだった「完璧な病室」から「掌に眠る舞台」にいたるまで、ほぼすべての小説についての解題までついている。これは読むほうにも覚悟がいる。小川作品は心を強くして読まなくてはいけない。でないと、ゆらゆらと小舟にゆられて流されていってしまうから。ひどく頼りない心もちで、でもその無力な感じが心地よくて、ときどきさざなみ立つ水音に陶然したり、息を詰めたりする。私はそういうふうにこれらの小説を読んできた。そうして思うのは、どの作品も愛の物語だな、ということ。

どこにあるのか忘れ去られた、でもどこかにあることは確かな場所で、たとえば原因不明の食欲にとり憑かれた女や寄生虫になって恋人の目玉をくり抜きたいと願う人や脅迫障害症の恋人だとかが、時間が止まったような雰囲気を漂わせながら生きている。執着とか、やるせなさとか、もの思いとか。それはもう、私から言わせれば愛がかたちをかえただけで、そういう形式でしか繋がることができないという意味で、まぎれなく愛の物語なのだ。

解題で言及されているように、「世の中では、まるで正常なもの、健康的なものが標準的であるかのように扱われているが、すべてにおいて満たされたものなどほとんど存在せず、みな何らかの形で欠落や過剰を抱え、病と隣り合わせの位置で生きている」のが小川作品なのである。そうした日常生活にあふれた病的なものを、作家は敏感に捉えてガラス細工のような作品に仕立ててしまう。登場人物たちが作者に愛されている、という意味でも小川作品は愛の物語だと思う。

本書では、世界が小川作品をどのように受容したかについても取りあげられていて興味深い。小川洋子の文学は先んじてフランス語圏で紹介された。たとえば海外のジャーナリストは小川作品を「とくに庭を描くとき、小川洋子のふしぎな筆致は冴え渡っている」と話し、これは「浮世の儚さとでもいうものを包み込むように丁寧に捉えるのに長けた日本文化のあらわれなのだろう」と説明している。でも、この本はいわば小川洋子の途中経過にすぎない。

ところで私はこの本のタイトルと、表紙のデザインがとても好き。深い森に分け入っていくみたいだ。

田畑書店編集部編小川洋子のつくり方田畑書店、2021年。


紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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