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おさらい。試験に出るWeb2.0―『Web3とは何か』by岡嶋裕史 prologue3

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おさらい。試験に出るWeb2.0―『Web3とは何か』by岡嶋裕史 prologue3

覚えていますか? Web2.0―Webの理解とその歴史②

そのあと、Web2.0のムーブメントが来る。

このときのキーフレーズは、「Webの果実を一般利用者に」である。

ここは注意してほしい。いま起こりつつあるWeb3と同じことを言っているのである。Wed3を説明する文脈では、おそらくこうなる。

「Web2.0はビッグテックにより支配されるネットワークでした。Web3はこれを解き放ち、一般利用者が情報を自由にコントロールし、情報が生み出す収益もその手にできるのです」

実はこれは新しくないのである。というか、ずっとそう言われてきた。たいていの技術は、人を困難から解放して自由にする目的で作られるし、特にインターネットではそれが顕著だった。カリフォルニアイデオロギーというやつである。だから、インターネットは単に技術規格であるはずなのに、なんとなく「無償公開が素晴らしい」、「みんなでシェアするべき」といった価値観を含んでいる。

Web1.0はテレビやラジオ、新聞、出版が独占してきた情報の発信権を、誰でも持てるようにした革新的な技術だった。でも、実際にそれを行った個人は少数だったのである。HTMLを理解して、自在に使えるようになるにはそれ相応の習熟が必要である。わざわざWebページを作るのは仕事でやっている人か、技術オタクか、よほど自己主張の激しい人に限定された。Webサイトのほとんどは大企業、大資本の手によるものだった。

Web2.0ではHTMLなどを意識せずにつらつらと文章を書くだけで情報発信ができるブログや、ブログ同士を結び付けるトラックバックなどの技術が現れ、急速に一般利用者を獲得した。簡単にやれるのであれば、情報発信をしたい人は多かったのだ。

Web2.0の要諦に動的なWebページ(Google Mapみたいなやつ)やSNSを入れる人もいるけれど、Web2.0の中核は「誰でもできる情報発信」で、「個人が力を手にする」だった。

プロプライエタリと呼ばれるような、情報や権利を独占する企業ではなく、それらを公開する企業や組織が賞賛された。グーグルもマイクロソフトも深くインターネットにコミットしているが、マイクロソフトがこの後何年もの間、「インターネット的な企業ではない」という評判に苦しんだのは、このときプロプライエタリ側に立っていたことが大きく作用している。

本質はキラキラな空気感

もっと身も蓋もなく言ってしまえば、Web2.0の本質はその言葉がまとうキラキラな空気感だったのかもしれない。

たとえば、日本でWeb2.0がバズるきっかけになった書籍『ウェブ進化論』の梅田望夫は、Web2.0を「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて、積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」と説明している。

ここにはグーグルやアマゾンや各種ブログサービスが入ってくるわけだが、まるまる説明にあてはまる2ちゃんねる(ひろゆきが開設した巨大匿名掲示板)は、その後のWeb2.0ムーブメントにおいて仲間に入れてもらえなかった(まあ、2ちゃんねる側はべつに仲間に入れて欲しくなかったはずだが)。
Web2.0側は色々言っていたが、2ちゃんねるが今のツイッターの悪い部分を煮染めたような、キラキラから遠い存在だったのが主たる理由だと思う。ニコニコ動画がWeb2.0に分類されないのも、同じ理由である。そのくらいふわっとした感覚だった。

Web2.0の言い出しっぺが技術出版大手オライリーを率いるティム・オライリーであったことも記憶にとどめておきたい。キラキラなWebの未来を描けば自分の本業にプラスになるポジションにいる人だ。

Web2.0が最初の盛り上がりを見せていたころ、ツイッターはまだ準備中で、NFTで3億円の値がついたジャック・ドーシー(ツイッター創設者)の最初のツイートはまだ発信されていなかった。

そんな中で、「大企業に広告と地域支配力で負け、埋もれていた小規模企業、個人事業主の商品がブログでの紹介で脚光浴びる」、「個人の時代」とぶち上げるメディアが後を絶たなかった。アマゾンのロングテール現象がやや誇張を伴って強調され、「ニッチな商品でも、誰かかならず欲しがる人がいる、そこへWebでリーチできる」と説明された。

ウィキペディアが2001年に、ミクシィが2003年、フェイスブック(現メタプラットフォームズ)が2004年、ユーチューブが2005年、ユーストリームとニコニコ動画が2007年にサービスを開始すると、みんなこぞってコンテンツをアップした。

自分の書いたもの、撮ったものが世界中で閲覧される(少なくともその可能性がある)ことに興奮したのだ。これらはCGM(Consumer Generated Media:利用者がコンテンツを生成するメディア)、UGC(User Generated Contents:利用者が創造したコンテンツ)として賞賛された。

結局、力を持ったのはプラットフォーマー

では、今度こそ個人が力を得たのかと言えば、それは違った。

力を持ったのは、プラットフォームを擁するプラットフォーマーだった。

Googleやフェイスブック、アマゾンである。プラットフォーマーにとって数は力である。動画を見せるのならば、動画の数は多ければ多いほどいい。記事を読ませるのであれば、記事の数も多ければ多いほどいい。商品を売るのであれば、出品者の数が重要だ。どれだけ数を増やせるかの動員ゲームなのである。これはシビアだ。現実の世界と違って、Web上では「もう展示しきれない」、「もう客を入れられない」制限はかからない。

したがって、一番手のプラットフォーマーは際限なく強くなるし、二番手以降におこぼれが落ちていかない。

この競争において、本来であればプラットフォーマーは自分たちでコンテンツを整える必要があったのである。でも、CGMではそれをお客が勝手に量産してくれた。

もちろん、タダでコンテンツを量産したくなるしくみを考え、作りこみ、運営するのは生半可なことではないので(多くのフォロワーがGoogleを夢見て散っていった)、それはプラットフォーマーのビジネスデザインを賛美すべきだ。でも、視点を変えれば、主役だったはずの個人はプラットフォーマーに無償で使役される奴隷になっていたと言える。

だって、文章や絵画や写真や音楽が何らかの利潤を生みだしたら、そのいくぶんかは作成者の手元へ還元されるものだったはずだ。ブログや写真サイトには、それがなかった。

ユーチューバーはずいぶん稼いでいると反論する人もいるだろう。児童、生徒のなりたい職業ランキングでもちょくちょく1位を取るほど人気のポジションである。

確かにユーチューブは2007年からユーチューバーへの利益還元を開始しているが、どういう条件で還元しているかは不透明で、規約もころころ変わる。歩合も決して良くはない。投げ銭機能であるスーパーチャットの実装はさらに2017年まで待たねばならなかった。

かなりの大物ユーチューバーでもそれに振り回されて、作るコンテンツを試行錯誤しなければならず、影響力の低いユーチューバーでは言わずもがなである。そもそもほとんどの零細ユーチューバーは収益化条件に達せず、お金を得られていないのだ。

これを見て、ユーチューバーが主でGoogleが従であると判断する人は少ないだろう。コンテンツという、そのサービスにおける主役を生産しているにもかかわらず、個人に決定権などないのである。Web2.0の理想は頓挫した。笑ったのはプラットフォーマーと、プラットフォーマーが作る鉄火場の中で最もよく踊ったごく一握りの強大な個人のみである。

プラットフォーマーはツイ廃に象徴されるような、中毒的にそのコンテンツを生産せずにはおられない環境を構築し、多くの人を無償でコンテンツ生成に従事させている。端的に言ってコンテンツ生産牧場である。利用者は牧場に囲い込まれたのだ。

しかも、プラットフォーマーは責任を負わない。一般的には生成したコンテンツが問題を起こせば、記事を取り下げたり、補償をしたり、謝ったりする。でも、プラットフォーマーはあくまでコンテンツを載せる器を用意しているだけで、実際にコンテンツを生産しているのは一般利用者なので、取り下げるのも、謝るのも一般利用者がやっている。

多くのSNSがフェイクニュースの苗床になっているのは世界中で指摘されているが、プラットフォーマーがそれについて直接謝ることはない。フェイクニュースは悪い利用者が作るもので、プラットフォーマーは迷惑している側という立ち位置を確保しているからだ。

利用者は生成したコンテンツが生み出す利得に対して正当な報酬が得られないばかりか、負の側面ばかり押しつけられているように見える。これがWeb2.0のなれの果てである。

オープンソースの限界

これはソフトウェア開発についても言える。オープンソースがもてはやされ、世界中のみんなが力をあわせて作るソフトウェアは、いずれプロプライエタリな企業が作るソフトウェアを凌駕すると言われていた。

しかし、近年いくつかの事件で矛盾が表面化した。典型的なのがLog4j事件である。

システムの振る舞いを記録する汎用的なソフトウェアをロギングツールと呼ぶ。システムにとって非常に重要だが、誰が書いても同じようになるので、いちいち独自に開発したりせず、ありものを使ってシステムを作る。オープンソースで作られたロギングツールであるLog4jは世界中で使われた。

ところがこのLog4jに瑕疵があり、第三者にシステムを乗っ取られる可能性があることがわかった。そのとき、オープンソースのコミュニティは上手く機能しなかった。みんなの協力で修正版を作るどころか、よってたかって開発者を非難した。善意で協力したはずの開発者は不眠不休での修正に追われ、このツールの恩恵を受けていたビッグテックは傍観を決め込んだ。

みんなで力をあわせて作ったソフトウェアを活用して莫大な収益を上げている巨大企業があるいっぽうで、そのソフトウェアに問題が生じて世界が不利益を被ったときに槍玉に挙げられるのは、無償でプロジェクトに貢献してきたエンジニアだった。

私たちはひょっとすると、本来巨大企業が生産すべきプログラムを、多くの善良なエンジニアがタダで書いてあげる世界的な搾取システムを作ってしまったのかもしれない。

だから、Web3を推進する人たちが、Web2.0を批判すること自体はとてもよく理解できる。批判されて当然の状況がまさに現存している。

でも、Web2.0を批判するときに繰り返し思い出しておきたい。別にWeb2.0はビッグテックの支配を生むために企図された技術やサービスではなかった。Web1.0もWeb2.0も、個人の力を強化・拡張するために考えられ、広まり、歓迎されたのである。

ある技術が普及の過程で、もともとの理念を失うのはよくあることだ。そして、往々にして失ってからのほうがよく普及する。以前にその状況を皮肉って、「Web5.0とか言い出した営業」の小話を書いて怒られたのは2008年のことだった。Web3の言い出しっぺは2014年なので、現実の社会は小話よりずっと良識があったと言える。(続く)


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