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誘惑する文化人類学|馬場紀衣の読書の森 vol.41

悪魔への誘い、物品への誘い……「誘惑」という言葉には、甘美な響きがある。でもそれだけじゃない。誘惑という言葉には、危険なニュアンスもある。

世界は誘惑に充ちている。未知の世界に誘われるままに、人は旅をして新たな知識を得ていく。未知の世界は無限に広がっていて、わたしたちの旅に終わりはない。それは、わたしたち自身の成長の過程である。他方でわたしたちは、誘惑という言葉にどこか胡散臭さも感じている。誘惑とは、誘い惑わせるという字義通り、わたしたちを成長させるだけでなく、破滅へも導く。

人は自分の身体を安定したものとみなしがちだけれど、内外的な影響を受けて簡単に形を変えてしまえる身体の在り様というものは、不完全で不安定ともいえる。わたしと他者とを結びつけることを可能にするこの身体が、誘惑が、破滅を招くほど危険なのは、それが身体的な行為であるためだ。誘惑は、人をエロスの世界へ誘う。

誘惑者は、ときにまなざしで、ときに声で相手の身体を愛撫する。誘惑は、いかに相手を落とそうかと思いをかけめぐらしながら、論理的に納得させる戦術などではないのだ。そこに声を含む『身体』が介在することで、わたしたちは自分の意に反して、他者を誘惑し、また誘惑に身体を拓くのである。


田中雅一『誘惑する文化人類学 コンタクト・ゾーンの世界へ』世界思想社、2018年。


たとえば舌や口や指を道具にして相手の体を愛撫するとき、身体の一部がたんなる道具であることを超えて、感覚器にでもなったような錯覚を引き起こすことがある。あるいはパートナーと息をぴったり合わせて踊ることができたとき。自分の身体と相手の身体が融けあうような、心地よい気持ちに包まれる、あの一種のめまいにも似た感覚。同時に、すこし困惑もしている。自分が相手になってしまったような、はたまた相手が自分であるかのような。わたしなのか、あなたなのか、わたしの身体なのか、あなたの身体なのか。いったい、誘惑者とは誰なのだろう。そんな問いに著者はこう答える。「こうした問いかけに簡単に答えられない偶発性こそが誘惑なのだ」。

誘惑というコミュニケーションの様態はオーラルな交渉である、というのも興味深い。それは言葉で行うものではなく、身体とその延長である声で行われるものであり、誘惑における声とは分節可能なメッセージ(言葉)の媒体ではない、という指摘は誘惑がきわめて身体的な行為であることを物語っている。

さらに面白いのは、拓かれた身体というのは、他者だけでなく自然一般とも結びつくような絆の感覚を喚起するということ。誘惑とは「自己が主体的に他者に働きかけながら、他者を能動化し自己を受動化するという奇妙な遂行的(パフォーマティブな)行為」であり、それは〈呼びかけ〉や〈告白〉のような一方的なコミュニケーションではないというのだ。文化人類学が探求する「誘惑」という主題に、身体の可能性が拓かれていくようで心も踊る。でも、著者の誘惑にまんまと引っかかってしまったみたいですこし悔しい。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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