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#07_「リモート」の対義語が「ローカル」だと気づいたとき、メディアについて分かったこと|小松理虔

ぼくの肩書き 

 こんなぼくにも年に2、3度、講演の仕事が舞い込んでくる。「まちづくり」や「地域活動」というような大きな文脈で呼んでいただくことがほとんどで、先日も地元いわき市の図書館で「まちづくり」をテーマに講演が開かれたところだ。毎回、まちづくり、地域づくりってデカすぎるテーマだよなあと思いつつ、これまでの活動を振り返り、プレゼンの資料をつくる。

 ぼくは「ローカル・アクティビスト」を自称している。日本語なら「地域活動家」だ。地域でなんらかのアクション、活動を起こすことで、自分や家族、周囲の暮らしを面白おかしく、そしておいしくバージョンアップしつつ、そのついでに稼ぎも得ようじゃないかという仕事である。これまでの連載でも紹介してきたけれど、さまざまな仕事に関わってきたので、一言で明確に「オレの仕事はこれ」と説明するのが難しい。それで、いつも自己紹介の説明に悩んでしまう。なにか得意とする専門領域があるわけではなく、むしろ専門領域を持たず、ジャンルの異なるさまざまな領域の人たちとチームを組むことが多かった。

 ただ、それでも過去の仕事を俯瞰しながら講演の資料をつくっていると、ぼくは一貫して「ローカルなメディア」に関わってきたということに気づかされた。大学卒業後に就職したのは地元福島のテレビ局だったし、移住した上海でも日本人向けの情報誌をつくった。日本に帰って来てからは自分でウェブマガジンを運営して編集長を名乗っていたし、独立してからも、フリーペーパーやパンフレット、リーフレットなどをつくる仕事を引き受けている。

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 もうひとつ気がついた。ぼくは自分たちで立ち上げたメディアを、なにかのアクションを起こすのに合わせて活用してきたようだ。メディアをつくることだけが切り離されて存在しているわけではなく、つねに具体的なアクションと発信がセットになっていたのだ。メディアの発行に合わせてイベントなども開催してきた。それらイベントも、「なにかの課題をみんなで考える場」「地域の魅力を分かち合う場」という意味ではメディアと言えるかもしれない。こうして過去のキャリアを紐解いてみると、おお、やはり、ぼくはこの20年、ずっとローカルなメディアに関わってきたんだな。そして、ぼくにとって発信とはつねに活動と共にあったのだ……と気づかされた。

 記者時代のぼくは、メディアの仕事というのはあくまで第三者として関わるものだと考えてきた。だから、当事者になってはいけない、少し離れた立ち位置から取り上げないとダメだ。そう心がけてきた。それなのに、いまは立ち位置がガラリと変わってしまっている。やっていることは、この20年ずっと「ローカルメディアの制作」なのに、ぼくは前にも増して、なにかの場に直接的に関わるようになってきているのだ。言い換えると、この20年間で、「第三者的に関わるメディア」から「直接的に関わるメディア」へと変化してきたということかもしれない。

 この変化に、メディアの役割や立ち位置を考えるうえでとても重要な論点が隠されているような気がする。なぜぼくは、第三者的な距離感をぎゅっと縮め、より直接的なメディアをつくるようになったのか。この変化を見ていくことで、ローカルメディアとはなにか、ローカルメディアの役割とはなにか、なんてことも見えてくるかもしれない。

 というわけで、本稿では自分がこれまでに関わってきたメディアなども取り上げながら、ぼくの思うがままにローカルメディアについて考えていく。地方に暮らすことのそのものにも関係ある話なので、いまはメディア制作者ではない人も、きっと最後まで読んでいただけるはずだ。本稿を読んだ結果、自分もなにかやってみたい、メディアだって自分たちでつくれるんじゃないか、やっちまえ、そう思ってもらえたらうれしい。

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「自分ごと化」するローカルメディア

 ローカルメディアと聞いてまず思い浮かべるのは、地域の魅力を発信するメディアだ。ある特定の地域の魅力、旅、食や暮らし、ライフスタイル……などを紹介するウェブマガジンや雑誌を、おそらくだれもが一度くらいは見たことがあるだろう。最近では、移住を促すものや、福祉や医療、はたまた就職など細かくカテゴライズされたメディアも数多く登場しているから、まさに百花繚乱といった感じだろうか。あなたの地域にも、ウェブにせよ、紙にせよ、なにかしら看板になるようなローカルメディアがあると思う。

 本稿でも、そうした魅力ある各地のローカルメディアを紹介すべきかもしれない。けれどもぼくがここで考えたいのは、面白いローカルメディアの作り方ではなく、そもそもローカルメディアとは自分にとっていかなるものだったか、そしてそれは、ぼくたちの人生に、暮らしに、どのような作用をもたらしてきたのか、またもたらし得るのか、ということだ。

 皆さんに紹介したいローカルメディアがある。ぼくが地元でこの数年関わっている「いごく」というメディアだ。いわき市地域包括ケア推進課が発行するメディアで、基本はウェブマガジンの形式をとっているが、年に数回、特定のテーマを掲げて特集を組み、タブロイドサイズの紙メディアとしても発行されている。制作は、ぼくを含む複数の民間人が編集チームを組んで担当している。

 地域包括ケアとは、だれもが自分で希望する場所で暮らせるよう、医療や福祉の担い手だけでなく地域のみんなで地域の高齢者の暮らしを支えようという取り組みを指す。だからこの「いごく」でも、高齢者福祉の取り組みや、終活、看取り、認知症など重いテーマを取り扱ってきた。ただ、それだけだと重くなってしまうので、地域の面白いお父さんやお母さんを取り上げながら、生老病死そのものを脱線しつつ取り上げてきた。過激なタイトルや尖った特集が評価されたのか、2019年のグッドデザイン賞では金賞を受賞し、なんと、グランプリを決める最終プレゼンまで残った(結果は6位)。

 編集チームは、「いわきに暮らし、親の介護などに直面するであろう四十代、五十代あたりの人たち」を読者ターゲットに据えた。これには理由がある。そもそも編集チームの全員が「いわきに暮らし、親の介護などに直面するであろう四十代、五十代」だったからだ。架空の読者を想定するのではなく、自分たちが感じる課題や悩み、面白みを率直に伝えれば、それはそのまま想定する読者に届くはずだし、編集チームも読者も、他人ごとではなく「自分ごと」として、地域の課題を捉えられるかもしれないと考えたわけだ。
 
 ぼくたちは、取材での体験を、これから親の介護に直面する「当事者」の目線で書くことにした。主語を「ぼくたち」にし、取材を通じて出てきた感想や思い、学び、課題感などを率直に誌面に出した。いわきの人たちが読む媒体なので大事なところは方言を使う。いわきの人にしかわからないであろう固有名詞も頻出させ、地域性を強く意識した。
 
 すると不思議なことに、「地域の問題」が「わたしの問題」だと思えてきた。どこぞの集会所に集まる母ちゃんたちの愚痴が自分の母親の愚痴に聞こえた。どこぞの父ちゃんたちの語る思い出は、地域の歴史そのものに思えた。そして、自分の親は、人生の最期をどこで迎えたいんだろう。どんなふうに暮らしていきたいんだろう。どんなふうに、この地域で暮らしてきたんだろう。そこにはどんな景色が広がっていたんだろう。地域に暮らす人たちの、まさに「生き様」を取材することを通じて想像力が膨らみ、地域の課題も魅力も、読者に届けられる前に自分ごとになるような感覚があった。だから、その「自分ごとになったプロセス」そのものを誌面で表現するだけでよかった。

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 先ほども書いたけれど、ぼくには、テレビ局の記者をしていた時代がある。そのころのぼくは取材対象者と距離を取るばかりで、彼らと個人的な関係になることなんてほとんどなかった。けれどいまは、人との距離感がまるで違う。取材後も集会所に通うようになったし、取材で出会った父ちゃん母ちゃんの自宅に遊びに行ったりすることもある。まったく別なイベントの炊き出しで手伝ってもらったり、逆に、その地域のお祭りの準備に駆り出されることもあった。フェイスブックでもコメントをつけ合う。そうして地域の皆さんとのリアルな関わりが生まれ、楽しいことが増え、前にも増して地域の文化や歴史が分かってきた。その結果として、ぼくのいわきでの暮らしもまた、ちょっとだけに豊かになった気がする。

 テレビ局の時代の自分に、「取材を通じて地域の課題が自分ごとになる」とか、「取材を通じて出会った人たちと仲良くなって自分の暮らしも豊かになる」なんてアドバイスしても、たぶんピンとこなかっただろう。
 
 けれどいまは思う。ローカルメディアの面白さとは、まさにそれなのだと。その土地に暮らす人たちとゼロ距離で関わっていくと、自分と地域の接点が増え、相互のフィードバックが生まれる。他者との関わりを通じて「こんな面白い人がいるのか」「こんな人生があったんだなあ」「この風景がたまらないなあ」と心動かされるうち、自分の暮らしもまた面白くなり、地域に対する理解も深まる。さらに、そのプロセスをシンプルに開示することで記事がいいものになり、制作物も評価され、さらに読者へと広がる。記事が読まれた分だけ課題や魅力が伝わり、そこでようやく、「いごく」というメディアに期待されていた役割をちょっとだけ果たすことができるようになる。すごく素敵な循環が生まれるのだ。

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ただ、そこにいる「半取材」

 いごくは、取材のやり方にも特徴がある。取材の多くは、ライターやカメラマンだけで行くのだが、これはヤバそうだという情報が入っている場合は、編集部員全員で行くようにしていた。でもほとんど取材はしない。やることといえば、ただ、そこにいる、それだけである。

 山間部のある地区に90歳を超えるヨガの先生がいると聞いた時には、編集メンバー全員でヨガ体操クラブにお邪魔し、地域の高齢者と一緒に体操をし、童謡を歌い、お茶やお菓子を楽しんだ。旧炭鉱町の集会所で謎の飲み会が行われていると聞けば、メンバー全員でそこに通い、父ちゃん母ちゃんたちと酒を飲みまくった。また別の集会所に料理が異常に上手な母ちゃんがいて、その料理が地域の独り暮らしの高齢者たちに振舞われているという噂を聞けば、腹を空腹にして全員で押しかけ、メンバー全員が、それぞれ2キロほどのカレーライスを食わされ返り討ちにあったこともある。
 
 ぼくたちは、そうしてただそこにいて、父ちゃん母ちゃんたちと腹を抱えて笑ったり、美味い料理に舌鼓を打ったり、たまに怒られたりしながら、目の前の状況を、事態を、面白がっていただけなのだ。これはまったく取材とは言えない。けれども、面白い言葉や面白い状況にだけはアンテナを張っておき、必要なら写真も撮ったし、どれほど酔っていても、これは忘れたらダメだなという言葉は命がけでメモしておいた。だから、取材していないとも言えないのだった。ぼくたちは市内のあちこちで、いうなれば「半取材」のような時間を過ごしてきた。

 結果として、そこにはいい時間が残る。いい時間を過ごせた結果として、いい写真が残り、いい映像も残る。気づくと地域の人たちとの距離が縮まっていて、本当に「結果として」、記事がアウトプットされるだけなのだ。あるとき、集会所で酒を飲んだ母ちゃんが、ぼくが書いたウェブ記事をわざわざプリンターで印刷して回覧板に貼り付け、地域の住民に回してくれていたことがあった。現物を見て泣きそうになった。ああ、こんなふうに自分たちの記事を読んでくれたのかとうれしくなったし、自分の地元で、世代を超えてこんなふうに人間関係をつくることができるのかと驚かされた。自分の地元を見直すきっかけになったし、そんな地域の人たちが、ぼくの誇りになった気さえする。

 思えばこの「半取材」は、記者時代とはまったく違う手法だ。記者時代は、あくまで最初に取材テーマを決め、その取材テーマに合致する人を探すところから始めた。いわば最初から「当事者」を探していたわけだ。何らかの社会課題課題に苦しんでいる人、課題に直面する人をあらかじめ探し、然るべきコメントをもらえればそれでよかった。ぼくが欲しいのは当事者のコメントであり、リアルな人間関係ではなかった。そこに暮らす人たちは、あくまで「取材対象者」だったわけだ。もちろん、力のある記者は限られた時間でも確実にコメントを取ってくるわけで、そうした取材がうまくいかなかったのは、ぼくの力が足りなかっただけかもしれない。

 いまはすっかり変わってしまった。なぜかというと、地域に暮らす人たちが、ぼくの「取材目的」や「企画の意図」を簡単に超えてしまうからだ。高齢者を取材しようとするとき、その人となりを知るには少なくとも5、60年分の人生を振り返らなければならない。取材時間は大幅に遅れるし、話の途中で必ずと言っていいほどお茶やら漬物が出てくる。漬物はまず間違いなくうまいので思わず食ってしまい、いつの間にか話題がその漬物の話に脱線したりして、いちいち取材がうまくいかないのだ。

 地元でシルバーリハビリ体操教室を主宰するお父さんを取材したときのことだ。どういう思いで体操教室を始めたのかを知りたかっただけなのに、なぜか、警察官を目指して上京したはずがどうしても巨人戦が見たくなり、試験を受けずに観戦してしまった話や、それがきっかけで実家を出ることになったはいいものの仕事がないので町をブラブラしていたら中華料理屋で下働きすることになり、いつの間にか腕が上がって人気の餃子店を経営するに至った話などを聞かされる羽目になった。そんな話は本来まったく必要ない。けれど、それらがすべて間違いなく面白くて、最後まで聞かざるを得ない。そしてどのエピソードも、そのお父さんを形づくる大事なピースに思えてくるから、もう諦めて全部を聞くしかなくなってしまう。

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 ぼくは、いごくが始まったばかりの頃にこのお父さんを取材し、これまで自分が培ってきた取材手法がまったく通用しないことに愕然とし、その時から取材というものを諦め、いごくの取材は時間がかかると覚悟を決めた。そして、どのじいさんもばあさんも、どの父ちゃんも母ちゃんも、まずはそこにいるしかねえやと割り切った。いや、そもそも考えてみれば、みなさんは、それぞれの人生から切り離された「コンテンツ」としてそこに存在しているわけではない。何十年という人生を積み重ねてきた生身の人間だ。ぼくのような若造の尺度や企画意図に当てはめてしまうこと自体が礼を失するものであり、そんな取材は、そもそも面白くもなんともない。

 そんな「半取材」を続けるうちに、ぼくたち編集チームのなかに、どこにでも面白いものはあり、誰とでも興味深い時間を過ごすことができるという謎の自信が生まれた。地域の父ちゃん母ちゃんたちは、必ずオレたちの想像を超えてくる。だからとにかく、まずはその地域に暮らす人たちとの時間を過ごしてみる。飯を食う。酒を飲む。踊りを踊る。町を歩く。一緒に体操する。歌を歌う。そうして共に何かをして距離を縮め、目の前の状況を面白がって、いい時間を過ごそうとしてみるわけだ。するとそこに、課題や魅力がふっと浮かび上がってくる。そして、その課題や魅力が互いに切り離されて存在しているのではなく、その両方が分け難く、その人らしさやその地域らしさを作っているのだと気づく瞬間がくる。絶対に、いい取材ができるはずだと。

 リケンさん、それは高齢者の取材だからでしょう? と思う人もいるかもしれないけれど、そういうわけでもない。ぼくは、震災と原発事故を経験した福島県に暮らしている。取材するテーマはもちろん「高齢者」だけではなく、深刻な課題を抱える水産業者に話を聞くこともあれば、教育関係者に話を聞くこともある。長く付き合う人の中には、反原発の活動を続ける人もいれば東京電力に勤める人もいる。そうしていろいろな人と関わるうちに『新復興論』という400ページを超える本を書くこともできた。

 もちろん、今までのような「取材」を通じて話を聞く人もいるし、すべての人たちと「半取材」のような関わりができるわけではないけれども、やはり、だれと付き合うにしたって、共に過ごす、ただそこにいるという時間は大事で、そうした時間の先にも結果としていいアウトプットが生まれるのだと思う。少なくともぼくは、そういう体験を何度もしてきた。

 「半取材」は、取材か取材じゃないのかわからない宙ぶらりんな時間だ。その時間をあくまで「取材だ」と捉えれば、半取材の手法は、ローカルメディアを目指す書き手たちの実践的なノウハウになるかもしれないし、またあるいは、記者が取るべき態度のようなものとして参考にできるかもしれない。

 一方で、「半取材」をやはり「取材ではないもの」と考えてもいい。そのとき「半取材」は、「地方暮らしを楽しむ時間の過ごし方」として別の光を放ち始めないだろうか。実際には取材しないのだからだれにでも実践できる。べつに記事に書かなくてもいい。あたかも取材であるかのように過ごすことで、その時間を興味深いもの、面白ものとして捉えるスイッチを入れるのだ。

 記事には残らない。作品にもならない。いや反対に、記事に残すことも作品にすることもできる。そういう宙ぶらりんな時間のなかで、面白いものに目を光らせながら、ただ、そこにいて、共に時間を過ごす。するとあるとき、そこに暮らす人も、そこにある景色も、これまでとは違った輝きを放ち始める。

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身軽だからこそ生まれるコミュニティ

 ここでもうひとつ、別のテーマからローカルメディアの魅力を考えたい。鍵は、ローカルメディアの「身軽さ」だ。

 ローカルメディアというと、地方の新聞社やテレビ局、タウンマガジンのような雑誌をつくる広告代理店のような会社をイメージする人もいるかもしれないけれども、じつは、ローカルメディアは自分一人でも作れる。自分で気になるテーマがあればそれに限定して記事を書いてもいいし、気になる社会課題を取り上げて運動につなげたっていい。写真が好きなら写真メインでもいいし、気楽にエッセイを綴るのでもいい。ぼくもかつては、自分一人で「tetote onahama」というウェブマガジンを主宰していたくらいだ。

 最近ではオンラインのツールも発達してきていて、たとえば「STUDIO」のようなサービスを使えばだれもがデザイン性の高いウェブメディアを自作できるようになった。ネットを通じたサービスの台頭で、ローカルを志向する業者も増えてきている。たとえば、地方の印刷業者などは、以前にも増して地域のクリエイターの多様なニーズを受け止めてくれるようになっている。

 先ほど紹介した「いごく」の印刷を担当する、いわき市植田町の植田印刷所は、地域のデザイナーやクリエイターの相談所のような場所になっている。代表を務める渡邉陽一さんは、かつて都内の広告代理店でテレビコマーシャルの制作に関わっていて、「いごく」が主催する「いごくフェス」の企画やディレクションも担当するなど、印刷に必ずしもつながらないような相談も熱心に聞いてくれる。こうした領域横断的な業者もまた、ローカルメディアを取り巻く生態系の一部になっているのだ。大変心強い。

 ぼくは前段で、ローカルメディアは「一人でも作れる」と書いたけれど、メディアを出せば読者との関わりが生まれる。誰かを取材しようと思えば当然、その取材対象者との関係もできる。より良い写真を撮るためにカメラマンに依頼しようと思えば、取材は一人ではなく「クルー」になる。デザインを充実させようと思えばデザインやコーディングができる人とつながる必要があるし、作ったものを配本するなら地元のいいカフェを知っておくべきだ。つまり、よりよい運営、よりよいアウトプットを目指せば、その取り組みは自ずと、他者との「協働・共創」の形になっていくということだ。

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 まさに「いごく」がそうだった。取材するのは地域の父ちゃん母ちゃんだけではない。医療や介護に関わるプロフェッショナルたちにも話を伺うし、地域の課題について真剣に議論することもある。イベントを共催すれば読者が来てくれるし、イベントに来てくれた人が読者になってくれることもある。そうして関わりが深まるうちにリアルな「コミュニティ」が生まれるのだ。つまりローカルメディアとは「コミュニティデザイン」の取り組みだと言っていい。「いごく」がグッド「デザイン」賞を受賞できたのも、同じ理由からだと思う。

 ローカルメディアによって浮かび上がった新たなコミュニティには、既存のコミュニティを攪拌していく力が生まれる。地方は人間関係が固定化しやすい。まちづくりは多くの場合、中小企業の経営者の息子世代が関わることが多いはずだ。地方は家族経営の会社が圧倒的で、すでに富を持つ家が、次世代も、その次世代も力を持つことになる。社会階層やコミュニティが攪拌されず、それが地方特有の「閉塞感」になっているとも感じる。

 ローカルメディアが生み出すコミュニティには、既存の社会階層、既存のコミュニティに左右されない身軽さと自由さがある。メディアを通じて新しい担い手たちが発掘され、メディアで紹介されることで彼らの活動が地域社会に伝わり、地域のコミュティが多様になるのだ。既存メディアだけだと地域の有名人ばかりが取り上げられてしまうけれど、ローカルメディアならば作り手の関心や興味から次々に新しい人たちを発掘できる。そして、その新しい地域の担い手たちはそのまま、作り手の新たなビジネスパートナーや友人になる可能性を持つ。
 
 つまりこういうことだ。ローカルメディアを作り始めると、他者との関わりが生まれ、新しく出会った人たちとのビジネスやコラボレーションが生まれる。彼らと友人になってしまったり、恋人になってしまったりすることもある。やがてそれが集団・コミュニティになり、その活躍の様が発信されることで地域コミュニティに循環・攪拌が生まれ、結果として、自分の暮らしが面白いものになり、そのついでに、地域もまた、じわじわと豊かなものになるということだ。

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ローカルの意味を拡張する

 ここまで、自分とローカルメディアの関わりについて考えてきた。関わってきたどのメディアも、どの取り組みも、ぼく自身の暮らしや交友関係を豊かにしてくれたし、地域を面白がる目を育んでくれた気がする。メディアというと外に向けて発信するイメージがつきまとうけれども、ぼくが関わってきたメディアは、どれも「内側」にも働きかける力があった。もちろん発信はしているから一旦は外側に意識が飛ぶ。けれどもその力が内側に跳ね返ってくる感じ。その結果、自分の足場、地元、足元、まさに「目の前」が豊かになる、そんな力があるような気がする。

 「ローカル」という言葉を辞書で調べてみてハッとした。地域の、地方の、という意味だけでなく「現場の」「目の前の」という意味があったのだ。特にコンピュータの世界では、目の前の端末を「ローカル端末」と呼び、向こう側の端末を「リモート端末」と呼ぶそうだ。なんと。コロナ禍でなんども使ってきた「リモート」の対義語は「ローカル」だった。つまりローカルメディアとは、現場のメディア、足元のメディア、目の前のメディアだということだ。

 なにかの回線やネット環境を通じた「向こう側」ではなく、リアルで手触りのある「こちら側」にローカルメディアは立ち現れる。辞書で意味を調べてみてようやく、ぼくがこの数年ずっと手がけてきたことは、やはり「ローカルメディア」だったのだと改めて再確認できた。

 思えば、ぼくが「いごく」の取材を通じて味わってきた「現場」にも手触りがあった。あの集会所にも、あの公民館にも、多様な人が集い、対話が生まれ、情報が交換された。その結果、地域の見る目が変わったり、新しい事実を知ったり、深くものを考えさせられたりする。まるで一冊の雑誌を読んだり、一本のドキュメント番組を見た後のようにだ。なるほど、ローカルメディアというのは、課題を共有する人たちが集うリアルな「場」にも立ち現れるものなのだ。テレビや新聞、雑誌だけがメディアなのではない。「場」もメディアだということだ。

 テレビ局で働いていたころは、自分は「非当事者」の立場に身を置くばかりで、自分の当事者性を外に置き、完全なヨソモノとして取材をしていた。逆にSNSの世界では、「わたし/当事者」の立場から言葉を発信してきた。そこには「非当事者か当事者か」というふた通りの役割しかない。けれども、いざこうして自分のローカルメディアについて書いてみると、どうもぼくは、ひとりの当事者でありながらも、同時に、発信者であり企画者でもあるという立場でメディアをつくり、発信してきたように思えてくる。外を意識して内をつくり、内を意識して外から関わる。そうして「あいだ」を往復するようにしながら、そのグラデーションのなかで、この20年を生きてきた。そんな気がする。

 メディアとは「媒介」である。なにかとなにかの「あいだ」に入って両者をつないだり、受け取ったなにかの形を変えてだれかに届けるのが媒介・メディアだ。だとするなら、メディアとは、職業や職種、プラットフォームを表す言葉であると同時に、まさに「人のあり方」を示す言葉でもあるのではないか。目の前にあるものを面白がり、内と外を行き来し、なにかとなにかをつなげ、受け取ったなにかを、自分というフィルターを通して変化させ、またべつの誰かに伝える。メディアとは、そういう人のありよう、あり方、役割、スタンスを示す言葉にも思える。その意味で、「人」もまたメディアだ。

 ローカルメディアを作ってもいい。ローカルメディアになってもいい。面白いものは、いつだってあなたの「ローカル」に転がっている。


写真/小松理虔


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著者プロフィール

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小松理虔/こまつりけん 1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。ヘキレキ舎代表。オルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。『新復興論』(ゲンロン叢書)で第45回大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著本に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。

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