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NFTは暗号資産と同じ轍を踏む?――『Web3とは何か』by岡嶋裕史 第2章 NFT⑨

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第2章 NFT⑨――NFTの懸念点

NFTを巡る状況や、なぜ期待され注目を集めているかの説明は、ここまでで追えたと思う。ここからは、NFTの懸念点を議論していきたい。

唯一性があやしい

まず、唯一であることと、本物であることは違う。

これはデジタル署名などでもよく誤解されることだ。デジタル署名のほうが現実のビジネスに近く理解しやすいと思うので、デジタル署名で説明してみる。

デジタル署名はそのデータを本人が作ったことを証明する技術だった。公開されている公開鍵を使って検証すれば、そのデータがメールであるにしろWordで作った文書であるにしろ、「本人が作ったかどうか」がわかる。でも、それだけなのだ。

その「本人」がビジネスの相手として信頼できるかどうかや、不渡りを起こさないだけの資産状況にあるかどうかはまったくわからない。別の話である。当たり前の話ではあるのだが、「デジタル署名で証明されている」などと言われると両者を混同してしまうことはよくある。

こうしたことは、暗号資産でも起こった。

ICOブームを覚えている人も多いだろう。ビットコインやイーサが成功したので、まるで暗号資産はなんでも値上がりするかのような雰囲気になった一時期があった。そこで新しい暗号資産系のブロックチェーン(いわゆるオルトコイン)が現れると、とにかく先を争って買い、価値が上昇したところで売り抜けて利益を確定させる者が現れた。

オルトコインを提供する側もこの需要があることを知り尽くしていたので、ベンチャーなどがICO(Initial Coin Offering:新規暗号資産公開)で資金をかき集めたのである。IPO(Initial Public Offering:新規株式公開)と同じだ。早期に入手して、公開後の爆上げに乗じて利ざやを確保する。

ICOは金融機関を経由せずに直接やり取りができるため、手数料などを抑えられる可能性がある。その一方で、誰でも公開できる(上場基準などはない)ことから、どんなコインなのか玉石混淆である怖さがある。

実際に利用者にまったく利益を還元する気のない詐欺的なICOや詐欺そのもののICOが多数現れた。ある種のポンジスキームである。最初に出資を募り、還元を謳う。評判を呼んで後続の出資者が現れれば、その資金で最初の出資者には還元できる。出資者は喜び、運営者は成功事例として喧伝することでサイクルが回る。でも、この車輪はいつか破綻する。本業で儲からない限り、無限の出資者を集める必要があるからだ。

また、企画した当人たちは真面目にやっていても(本業で儲けるつもりがあっても)、ビジョンやマネジメントが追いついておらず、結果として発行されたコインが紙くずになったICOもたくさんある。

NFTは暗号資産と同じ轍を踏む?

NFTでも同様のことが起こっていると考える。NFTアートであることは、その作品が唯一であることを証明しはしても、その作品が真物であることは証明しない。

たとえば、作家Aのデジタルアートがあるとしよう。作家Aはそれを特にNFTにする気はなかった。でも、詐欺師Bがそれを入手して(デジタルアートはコピーが容易だ)NFT化して売ってしまう。そのNFTアートはブロックチェーン上で唯一の存在ではあるだろうが、作家Aは偽物だと主張するだろう。

これがリアルの絵画であれば真物が作家の手にあるわけだから、詐欺師がさばいたものは贋作でしかない。しかし、ことはデジタルアートなので、作家の手元にあるもの、詐欺師が売りさばいたものは同一なのである。しかもまずいことに詐欺師のデータだけにトークンが紐付いて唯一性を証明している。このとき、一般利用者は「NFTって本当は何を証明するものだっけ?」と熟考してはくれないだろう。

たいしたことのない文章が活字になると説得力を持ってしまうように、ただ限られた範囲での唯一性を証明する手段でしかないNFTが、作家や鑑定家のお墨付きを得た真贋証明書として受け止められる可能性が高い。

ブロックチェーンが何かを証明してくれるのは、そのチェーンの中だけ

また、こんなケースも考えられる。

作家AがブロックチェーンAとブロックチェーンBに同じ作品をNFTアートとして出品するのだ。本人作の真物である。由来に疑いはない。NFT化もされている。唯一性は証明されているのだ。でも、どの範囲で? そう、そのブロックチェーン内でだ。

ブロックチェーンが何かを証明してくれるのは、そのチェーンの中だけである。ある種の信仰のようなものなのだ。

チェーンのしくみを批判したいわけではない。世の中のしくみはたいていがそうである。私たちは自由や平等が素晴らしいと思っているけれども、それは日本というチェーンや西側世界というチェーンだけで通用する価値観かもしれない。

運転免許証がしっかりした価値を持つ身分証明だと、有り難がって受け取ってもらえるのは、やはり日本というチェーンの中だけかもしれない。海外に行って日本の運転免許証を見せても、身の証はたてられない。多くの価値は「これはいいものなんだ」と、同じ幻想や信仰を共有する者同士のなかでだけ通用する儚いものだ。

だからNFTによって「このアートは世界にただ1つのものだ」と主張するとき、その世界の範囲が「NFTが存在するブロックチェーンのなか」であることは、むしろ必然である。もちろん私たちの生活空間とブロックチェーンの大きさは一致しないから、いくらNFT化されていても「そのアートが地球上にただ1つの存在である」ことを証明はできない。

「NFTに所有を認める」もそうだ。日本の民法では所有の対象は有体物であるとがっつり書いてあるので、無体物であるデジタルデータに所有権はおよばない。「NFTの購入によってアートの著作権を獲得できた」と喜ぶのは、そのNFTを発行したチェーンやコミュニティの中では成立するかもしれないが、別のブロックチェーンや「法律の世界」というチェーン、「日本」というチェーンでは意味を成さない。あくまで、あるチェーンの中での約束事であって、別のチェーンは別の決め事で運営されている。

したがって、作品が1つしかなくても、それをブロックチェーンAでNFT化し、同じ作品をさらにブロックチェーンBでNFT化することはできる。

もちろんそんなことをすれば作家は激しい批判にさらされるだろうし、将来をなくしもするだろう。でも、うまくごまかせたら? ブロックチェーンAとブロックチェーンBの利用者はあまり重複しておらず、誰も気がつかないかもしれない。もしお金にでも困っていれば、試してみる価値はあるかもしれない。

所有して見せびらかそうと思っても、見せびらかす権利があるかどうかも不明である。一般的な美術作品であれば、展示権の規程が整備されていて、概ね作品の所有者は制限なく展示をすることができる。でも、NFTアートにはそもそも所有権がついていないのだ。作家と所有者で話し合うしかない。

仮に話し合いをまとめて展示会を開いたとして、その展示会に人がやってくるかどうかはわからない。所有者は「所有している」と認識していて心地がいいかもしれないが、その寸分違わぬコピーがどこでも見られるとしたら、お客は集まるだろうか。もし集まるのなら、それはアートそのものというよりは作家や所有者に魅力があって、リアルなり仮想空間なりの展示会にアクセスしているのではないだろうか。

また、スマートコントラクトによって、「転売したときは、作家にも10%の転売益が支払われる」と定めておいたとしよう。その定めは、あるチェーンの中で取引が完結するのであれば、護られるだろう。だが、転売者は別のチェーンやリアルの相対取引でNFTアートを売るかもしれない。

そのときは取引の基盤を構成するブロックチェーンが異なるので、スマートコントラクトなど無意味である。それがしくみとして有効なのも、規範として有効なのもそのチェーンだけだ。別のチェーンや、リアルの世界は別の理が支配している。取引を行った者は転売益を作家に還元しないかもしれない。

そして、当たり前のことだが、稀少性と価値はイコールではない。わたしが書いた絵は稀少(絵なんかふだんまったく描かない。恥ずかしいからだ)だが、なんの価値もない。稀少性があるから、価値が出ると考えるのは幻想に過ぎない。(続く)


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