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#10_地方に「都市」をもたらし、世界を開く場所としての書店のこと|小松理虔

見直すことと思考すること

 自分がいま住んでいる地域の見え方の解像度を上げるのにもっとも手っ取り早い方法は、自分が好きなもの、自分が生業としているもの、自分が日々関わらざるを得ないものなどを通じて地域を見直していくことだ。酒が好きなら酒、道が好きなら道、子育てでも釣りでもキャンプでもいいし、日々食べずにはいられない食材でもいい。それらを掘り下げていくうちに地域との接点ができ、思考がいろいろな方向へと飛んで、あらたな発見、あらたなつながりが生まれ、風景の見え方が変わり、そこでの暮らしが前よりも刺激的になるのだとぼくは思う。

 そうしたものを通じてなら、心理的なハードルも下がるし、その取り組みは日常的・持続的なものになる。この連載でも、自分の好きなものとか関わらずにはいられないものを通じて、自分なりの「地域」を自分で作っていくことがおもしろいんだよねということを時間をかけて書いてきた。

  今回が連載最後の投稿になる。なぜ今回が最後になるかというと、もともと「10回」でという話だったんだけれど、ついに10回になってしまった。正直なところ、明確な執筆プランもあるようでなかったし、事前のテーマ設定もゆるいものだったので10回も(しかも毎回1万字近く)書けるのか不安だった。「地方について」というのは新規性のあるテーマではないし、日々の暮らしのなかから、「あれ? これも書けそうだな」というものを選んで書いてきたに過ぎない。けれど、だからこそ書けてしまったのだと思う。

 自分が好きなもの、生業としているもの、日々関わらざるを得ないものについてなら、ぼくにでも書くことができた。週末に山に登ったから山について考えたとか、サッカーを見に行ったからスポーツについて考えたとか、万事そんな調子。地方と都市の「あいだ」をぶらぶらとほっつき歩いて、そのとき目に入ったものとか、そのとき関心のあったものから思考をつなげて書いてきただけである。でも、改めて感じることもある。ぼくたちの暮らしのなかには、本が1冊書けるほどのなにかが転がっているということだ。それは、もちろんあなたの暮らしのなかもある。いままで感じなかっただけで、見えなかっただけで、そこにあったのだと思う。

 そんな「地方」をめぐる思考の旅もいよいよ最終回。ぼくの壮大な「地域の哲学」を書くべきかな、などと考えたけれど、いつもの調子で書くべきだろう。じゃあなにについて書こうかなと考えていて思いついたのが「書店」である。この連載が「本」になるなら、最後は「地方と書店」について書いてみるのがおもしろいかもと考えた。最後までこの調子で申し訳ないけれど、そのときどきにぼくの身にふりかかってきたものを通じてあれこれ考えるのが、ぼくのやり方なのだ。

マンションの一角にある居場所

 月に数度、静岡県浜松市を訪れている。前の連載でも書いたことがあるけれど、ぼくは、浜松市に拠点を構えるクリエイティブサポートレッツというNPOの活動に参画している。そのレッツが主催するイベントで、先日、ある書店の店長さんと知り合った。浜松市浜北区にある「フェイヴァリットブックスL」という書店の店長、髙林幸寛さんである。あるイベントに偶然髙林さんが出張販売をしていて、そこで出会ったのだ。

 そのときに、髙林さんからこんな話を聞いた。「普段は浜北ってところで営業してて、マンションの一室にお店があるんですよ」と。その時は「へぇ〜、そうなんですねえ」なんて気の抜けた返事しかできなかったのだけど、改めて考えると、Amazon全盛のこの時代に、地方で、書店を、しかもマンションの一室で営むなんてちょっと尋常ではない(おもしろいという意味)。それで、いつかそのマンション書店に行かねばと思っていたのだ。

 JR浜松駅から遠州鉄道に乗り換え、2両編成の電車に揺られて20分ほど。「遠州小松駅」という住宅地の駅に降り立った。Google マップで調べてみると、店までは歩いて5分くらい。目的地には、ごくごく普通のマンションっぽい名前が記されている。6月の爽やかな風を感じつつ、歩いて5、6分。ぼくは、まさに「普通のマンション」の前にたどり着いた。

 なんの変哲もないマンションだ。「ここにほんとに書店なんてあんの?」と思いつつ階段を上ると、フロアの一番奥に看板が出ていた。「こんにちは〜」と声をかけ、扉を開けて店内に入る。ワンルームの部屋なので普通の店舗より玄関は狭い。ただ、中はまさに「書店」だった。6帖ほどの和室と洋室に書架が置かれ、びっしりと本が並んでいる。ダイニングキッチンは店長の事務スペース、簡単な調理場としても使われている。レジ台があるから、そこでお会計もするようだ。隣の和室にはちゃぶ台も置かれていて、すごく居心地がよさそう。実際、ぼくが店に着いたときに、髙林さんと男性のお客さんが座布団に座って談笑中であった。2LDKの間取りだけれど、これは……たしかに書店だ! 

 本のセレクトも実にいい。洋室の書架には話題の新刊から定番の名作までバランスよく置かれているし、店長と趣味が合うのか、「ああそうそう、これ読みたかったんだよ!」という本が高確率で見つかった。和室には子ども向けの絵本コーナーがあったり、ちゃぶ台のそばにそこはかとなく料理本が置いてあったりして、空間の使い方も巧みだ。ぼくはちゃぶ台のそばに置かれていたウー・ウェンさんの料理本『料理の意味とその手立て』を思わず買ってしまった。CDの販売もしていて、その選曲に髙林さんのこだわりが見え隠れする。

 そのあと2時間くらいだろうか、髙林さんとじっくりおしゃべりをした。和室の畳とちゃぶ台の雰囲気もあって、すごく居心地がよかった。飲み物の注文もできるので、なんというか本好きの先輩の家に遊びにきてジンジャーエール飲んでしゃべってたら2時間経ってた、というような感じなのだ。「店主と2時間おしゃべりできる書店」という時点でなにか時空が歪んでいる気もする。もちろん、そのあたりのことを髙林さんも意識しているようで、「書店でありながら、だれかの居場所として使ってもらえるように心がけている」と教えてくれた。

書店は居場所。そんなふうに考えたことは正直あまりなかった。

 書店に行く。もちろん「本を買いに行く」わけだけれど、考えてみれば、書店に行ったとしても、どの本を買うかは決まっていないことが多い。しかも、その「買う」という行為は、書店で行う行為の最後の数十秒に過ぎない。つまり書店には、本を買いに行くのではなく「本を探しに行く」わけだ。いや、実は本を探してすらいないかもしれない。ぼくたちは、本ではなく、なにかの答えとか、アイデアとかヒントみたいなものを探しに、あるいはただ時間つぶしのためだけに書店に行くときもある。ただ単に膨大な本がある場所に身を置く。そこにいる、ただそれだけ。そう考えると、なるほど書店の「居場所性」はとても高いし、ぼくたちはすでに書店を居場所として使っていると言えるのかもしれない。

 フェイヴァリットブックスLにも、いろいろな人がやってくる。本を買いに来る人はもちろんのこと、本を買わずにコーヒーだけ飲んでいく人もいれば、ただ、なにかのアイデアを開陳しにくる人、自分の悩みとか葛藤みたいなものを話にくる人もいるという。

 髙林さんは店主だから、そういうお客にもちゃんと対応する。「どうしても1対1になっちゃうから、おしゃべりしないわけにいかないんですよ。最近妻の対応が冷たいとか、就活がうまくいかないとか、なんとなく自分の悩みを吐き出していく方もいます。いろいろな人と話す機会がありました。でも、だからこそ、そのお客さんの人間性もわかるんです」。

 髙林さんが語る「居場所」は、先ほどぼくが書いたのとはちょっと違って、どこか福祉的な響きを感じる。なぜだろう。客が「ただ、そこにいられる」というだけでなく、そこに店長である髙林さんもいるからだ。つまり、フェイヴァリットブックスLにおいて、客は「ひとりでいる」わけではない。だれか(多くの場合は髙林さんが)が「一緒にいる」ということなのだ。「ひとりでいる」のと「一緒にいる」は、どちらも「いる」のは変わらないけれど、後者のほうが圧倒的に安心感がある。だれかが一緒にいる。それが大きい。辛口のジンジャーエールを飲みながら、なるほどこういう小さな書店だからこそ「一緒にいる居場所」になるのだなあと思えた。

 お客さん同士が話をし始めたりとか、お客さん同士で新しい企画が始まったりすることもあるそうだ。つまり、そこにコミュニティが立ち上がる。髙林さんはいう。「ここに来る人って、ウチがこういう書店だからこそ通ってくれてるのかなって思います。ぼくもそうですが、お客さん同士も『ここに来るってことは、なんかあるのかも』って心を寄せてくれて、声を気軽に掛け合ってくれるんです。安直に『コミュニティ』って言葉は使いたくないけど、そういうものができてきてるなって感覚はありますね」。

 ぼくがお店を訪れたとき、ちょうど若い男性客が来ていた、とさっき書いた。その男性と髙林さんは、自分たちで企画する「古本市」について熱心に話をしていたところだった。男性にとっても、書店とは大事な「居場所」になっているのだろうと思う。

 いい光景だなあと思ってふたりの話を聞いていると、この古本市の話が意外にもおもしろい。この古本市、過去に4回ほど浜松市内で開催されていて、直近だと、今年の5月に浜松市中心部の鴨江アートセンターを会場に開かれたそうだ。来場者は300人ほど。コロナ禍にもかかわらず想像以上に大好評だったという。

 この古本市のアイデアが生まれたのが、髙林さんが企画している「Lの広場」という、ゆるいおしゃべりの場だ。毎週金曜日、お店を1時間早く閉めて、集まった客同士で、こんなことがしたいとか、あれをこうしたらどうかとか、自由にアイデアを話し合える場を作っているのだそうだ。その場には、浜北エリア内外に暮らすいろいろな人が集まってきたという。本が好きな人ばかりではない。なにかやりたいというモヤモヤを持つ人、新しいチャレンジがしたい人、人に話を聞いてもらいたい人、なにかの技術や才能を有する人……そういう多様な人たちのコミュニティから古本市のアイデアが生まれた。開店当初から、髙林さんは居場所づくりをしてきたのだ。

減少する地方書店

 ただ、髙林さんご本人は、大成功にも思える古本市に対して「浜松市の人口が80万人ですから。もっとたくさん人たちに書店にきてもらえるはずですよね」という。さらに、「書店で本を買おうと考えている人だけに本を届けていたらダメだと思うんです。もっといろいろな人たちにアプローチしないと」と危機感も口にした。

 その危機感の背景にあるのが、地方書店の経営の厳しさだ。ネットを調べてみれば、全国にある書店の数の減少を伝えるニュースが数多く引っかかる。たとえばガベージニュースというウェブサイトには、2020年度の日本の総書店数として8789店舗という数字が紹介されている。2006年の時点では14555店とあるから、この15年で相当な数の書店が姿を消したことになる。その一方で、大型のショッピングセンターやロードサイドには全国チェーンの大型書店ができたという。これは全国的なトレンドで、書店の数自体は減少傾向なのに1店舗当たりの坪数は大きくなっているのだそうだ。つまり「町の小さな本屋」がなくなっているということのようだ。

 ぼくの地元でも、小さな書店は姿を消している。小学生の頃、週に1度マンガ雑誌を買っていたあの書店も、高校生時代、参考書やら「青春書」やらでお世話になったあの書店も、今はもうない。思えば書店とは、ぼくと世界をつなげる空港のような場所だったように思う。本屋に行けば、まだ見ぬ世界への入り口が開いていた。ぼくたちは本を通じて、本を探すということを通じて、まさに書店を通じて、「今ここ」を飛び出し、広々とした世界を旅することができたのだ。しかし、その「空港」は、じわじわと地域から姿を消しつつある。

 フェイヴァリットブックスLも例外ではない。じつは、髙林さんの書店は、もともとはマンションの一室ではなく、同じ浜北地区内の別のテナントで営業されていたそうだ。その時の店の名前は「フェイヴァリットブックス」。2007年にオープンした個人書店だった。今と同じように書店の枠にとらわれない活動を行っていたものの、本の売り上げの減少などもあり2016年に閉店。その2ヶ月後に、ファンたちの根強い声に後押しされ、ここに移ってきた再開したのだが、一度は閉店していたのだ。

 だからこそ、髙林さんの意識は、より「書店の外」に、「地域」にも向けられている。髙林さんは以前にも増して、精力的に書店イベントを開催するだけでなく、さまざまな場所に出ていくようになった。髙林さんが目指すのは、客を待つ書店ではなく、まちに出ていく書店だ。「書店のことだけじゃなくって、もっと地域のことを考えなくちゃいけないと思うようになったんです。ちょうどこの前も、地元の古着屋さんのカリスマ店長を呼んでトークイベントをやったところですし、いずれは『市長と語る会』みたいなのにも参加したいと思ってます」。

 いやあ、でも店長、本にあんまり関係ない人を呼んでも仕方ないんじゃない? と一瞬思った。なぜなら、書店で扱う本がどれだけ多様だとしても、「本を日常的に読む人」と「本を日常的に読まない人」との間には大きな隔たりがあるからだ。

 いや、でもそうじゃないな、とすぐに思い直した。「本にあんまり関係ない人」などいないからだ。古着屋屋さんの店長を呼んだら、古着やファッションの本に当然つながる。古着を流通の問題とかSGDsの観点から語ることだって可能だろう。呼べるものなら語る会で出会った浜松市長を呼んで、行政や地域づくりに関する本を並べながら地域について語ってもいい。書籍がダメなら雑誌があり、雑誌がダメでもCDならある。そうして一旦、本から、書店からも離れ、髙林さんは新しい人たちと出会おうとしている。そして、そこで出会った人たちを、再び書店に引っ張り込んで、さまざまなものをぶつけ合わせ、新しい価値を作り出そうとしている。そういうことなんじゃないか。

 そうなのだ。書は無限。世の中の森羅万象、あらゆる領域の本が書かれている。本そのものと関わりはないかもしれないけれど、本で書かれている内容に無関係な人はいない。ぼくたちは本を読むと読まざるとにかかわらず、本が作りだす巨大な知の営みに、すでに巻き込まれているわけだ。だから、社会問題について関心のある人と、和食について関心のある人が書店では同居してしまう。おまけに、フェイヴァリットブックスLは狭い。年齢も職業もバックボーンもさまざまな人たちが一緒になってしまうのだ。そればかりか、髙林さんは、書店の外に出向いて、本を日常的には読まない人も排除しない場を作ろうともしてきた。

 髙林さんの活動を端的に言えば、「狭い書店」と「広い活動」、この二つに集約される。これを「閉鎖性」と「開放性」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。

 書店は大事な居場所である。だれからも命を脅かされることなく、安心してそこにいてもらうには、ある程度の閉鎖性が必要だ。その空間に閉鎖的なところがあるからこそ、やってくる人たちは安心して、共通する趣味や興味を通じて交友関係を育むことができる。

 けれど、書店とは本来、多様な人たちが集まる場所である。そこには開放性も求められる。だから髙林さんは余計に書店の外にも出て、書店に縁のない人にもアクセスし、書店の多様性を守ろうとしているのではないか。つまり髙林さんは、浜松市浜北区という地方都市で、閉鎖性と開放性、両方にベクトルを向けた書店運営をしていると説明できそうだ。

 そう考えてきて、ハッと思い出したのが、この連載でたびたび紹介している、京都大学・こころの未来研究センター教授、広井良典さんの「農村型コミュ二ティ」と「都市型コミュニティ」というコミュニティ論だ。この連載でも、「居場所について考える回ですでに引用しているが、ここで役に立ちそうである。ちょっと回り道してみよう。

地方で「都市」を起動する

 農村型コミュニティとは、地縁的・共同体的な一体意識によって成り立ち、集団の中に個人が埋め込まれるようなコミュニティのことをいう。その同質性ゆえに強固な結束や一体感をもたらすけれど、自分たちの組織を外敵から守ろうとするため、排他性も生まれてしまう。出る杭は打たれがちになるし、ベクトルが内に向くために風通しも悪くなりやすい。地方の中小都市の息苦しさは、おそらくこの「同質性」が作り出しているのではないかとぼくも感じる。

 一方、都市型コミュニティとは、組織や地縁に縛られず、あくまで個人をベースに、個人が先に立つかたちでつながり合うコミュニティだ。自分の趣味や興味関心、あるいはスキルなど、あくまで個人にあるものからつながる。だが、広井先生は、この「都市型コミュニティ」が都市部に根づいているとは言っていない。むしろ都市部にすら「都市型コミュニティ」は多くなく、安心していられる居場所も少ない。にもかかわらず都市部に人口が集中するから、出生率は低下し、人口減少が起きているのではないかと考察している。

 広井先生は、農村型も都市型も「どちらも大事」とした上で、都市にも地方にも、集団を超えて個人と個人がつながるような関係性を育てていくことが必要であり、それが人々の孤独を和らげ、自分にふさわしい居場所を作ることにつながるのだと説く。その話を思い出し、ぼくはこう思った。フェイヴァリットブックスLという書店は、まさにこの農村型、そして都市型両方を併せ持つもの場所だったのだと。家とか学校とか会社とか、それぞれが所属するコミュニティを超えて、個人と個人がつながりあい、本を通じて世界中の知とアクセスでき、なおかつ、安心して過ごすことのできる居場所にもなっている。そんな奇跡的な場所なのだ。

 いや、書店とは、もともとそのような場所だったのかもしれない。ちょっと扉を開けるのに勇気がいるけれど、そこには広い世界が広がっていて、居心地がよくて、そして、いろいろな世代の人たちが、そこにいて、立ち読みしたり、店主とおしゃべりしていたりする。とりわけ、同質性が強く働く地方においては、書店とは「都市」を起動する場だったのかもしれない。

 地方は、やはり同質性が強いとぼくも感じている。自分の居場所といえば、家か会社、学校くらいしかなくなってしまい、それ以外のコミュニティが立ち上がらない。もし、家にも会社にも学校にも居づらくなってしまったら、もうどこにも行けなくなってしまう。それでも自分の命を守るために、自分の思いを隠しながら、つらさや困難を誤魔化しながら、そこに居続けなければいけない。それで、閉塞感を感じたり、風通しの悪さを感じたりするのだと思う。

 それに、地方はコミュニティがあまり混ざらない。大地主はずっと大地主だし、会社を経営する家柄は、やはり何代にもわたって会社を経営する。農家の息子は農家を目指さなければいけなさそうだし、持たざる者は、やはり持たざる者のまま。世界が広がりにくいから、付き合う人も限られ、人間関係にも選択肢がなくなってしまう。それが嫌で東京など大都市に出る人は多いけれど、孤立に追い込まれたり、仕事に打ち込まざるを得なくなったりする人も多い。

 一方で、地方ならではの同質性の強さが、仲間意識や「共助」のような動きとして発露することだってたくさんある。ぼくは、東日本大震災のあと、さまざまな人たちが、傷ついた地元を復興させようと奮闘を続けてきたのを間近で見てきた。あの人たちを突き動かしたのは、まさに「ふるさと」への思いだろう。ぼくにだってそういう思いはある。なんだかんだ、言葉を交わさなくても通じ合えるような同質・同属的なコミュニティは居心地がいいものだ。

 大事なことは、まさにその「農村型」と「都市型」を、あるいは「閉鎖性」と「開放性」の両方を持つ、あるいは、その両方のあいだを行き来することなのではないだろうか。どちらか一方に偏って、反対にあるものを否定するのではなく、両方「いいとこ取り」できたら一番だ。そのためにも、食や観光、スポーツに子育てなど、さまざまな回路を通じて地域を探求し、暮らしを掘り下げ、その過程で仲間をつくり、地方と都市のあいだを往復しながら、自分なりに居心地のいい場所を、しっくりくる「ローカル」を見つられたらいい。それは、この連載がずっとずっと探し求めてきたことだけれど、浜北のマンションの一角で大事なもの見つかったような気がした。

まちの書店をこれ以上消さないために

 いま、日本の各地に、個人が運営する小さな個人書店がオープンしている。小回りの効く運営、店主の個性が輝く選書、あるいは、充実したカフェメニュー、優れた店舗のデザイン。それぞれが、それぞれの強みを活かしながら、経営を続けている。そこにはきっと、新たなコミュニティも生まれているはずだ。地方都市に暮らすひとりして、本当に心強く思う。

 けれど、かつて髙林さんも経験したように閉店という状況に追い込まれる書店も珍しくない。コロナ禍である。精力的にコミュニティを作り出していた書店も、じわじわと活動が制限され、大変な経営状況に陥ってしまっている書店も少なくないはずだ。

 ぼくは、この文章の冒頭で「本を買うという行為は、書店で行う行為の最後の数十秒だけ」と書いた。どれほどいい書店でも、ぼくたちが支払える代金は、「モノ」や「サービス」に対する代償だけである。多くの場合、「本の代金」しか払うことができない。そうではなく、居場所としての価値にも、しっかりとお金で、あるいはなにか具体的な行為で支払いたい。たとえば、サブスクリプションのように年会費を支払う書店があってもいいだろうし、ぼくたちがイベントを企画し、会場使用料などでお返しするのもいいと思う。地域の共有財産として書店を使い倒して、わずかでもお金をリターンできたらいい。

 それともうひとつ。本屋に「いる」という関わりができるはずだ。本を探すだけでも、本のタイトルを見て歩くだけでもいい。店主とおしゃべりするだけでもいい。そうして、書店の持つ「多様性」に貢献するというのもアリなのではないか。あなたがいるだけで、あなたひとり分、書店が多様になる。たまたまそこを訪れた別のお客さんを孤独にさせずに済むし、書店の風景の一部になることだってできる。そこから、なにか新しいコミュニケーションが始まるかもしれない。

 そろそろホテルに戻りますと声をかけ、1冊の本と、フェイヴァリットブックスLのトートバッグを買い、ぼくは店を出た。バッグに、こんな文字がプリントされている。

WILL BE YOUR THIRD PLACE

 あなたのサードプレイスになる。シンプルで、とてもいいメッセージだと思った。リケンさん、いつでも寄ってくださいねという髙林店長からのメッセージのようにも思えた。たまにしか浜松に来ることはできないけれど、そうだ、これまで浜松駅前で探していたホテルを、つぎは浜北駅のそばで探してみてもいい。浜北に泊まるなら、どこかおいしい飲食店も探しておかねば。その辺の情報も、きっと髙林さんなら詳しいに違いない。次に会うのが、楽しみだ。

 そう思って、またハッとした。書店とは、こんなふうに、外からやってくるぼくたちのような人間の「とまり木」のような場所にもなっているのだ。とまり木で羽を休めながら、ぼくはこれからも広い広い世界を旅する。またどこかの書店で、同じように旅を続けるだれかと、あなたと、言葉を交わせなくとも、そこで共に、時を過ごせたらいい。そうしてぼくたちのローカルは、また少し、豊かになるのだから。

写真/小松理虔

「あいまいな地方の私」は今回が最終回です。これまでのご愛読ありがとうございました。この連載を一冊にまとめたものが10月に光文社新書から発売予定です。ご期待ください!

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著者プロフィール

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小松理虔/こまつりけん 1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。ヘキレキ舎代表。オルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。『新復興論』(ゲンロン叢書)で第45回大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著本に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。

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