第7回 賞味期限の切れない、若島正の文学講義|三宅香帆
自分との距離をなにより感じる本
本を開いては、「はあ」とため息をつくしかない本は存在する。
憧れ、という言葉には、離れる――古語で「かる」という意味が入り込んでいるのだが、開くたびその言葉の意味を思い知らされる。憧れの存在は、遠いからこそ憧れなのだ。自分との距離がずいぶん離れているからこそ、憧れになり得る。
つまりは私は憧れている。この本に。でもその距離の遠さに、ときどき、ぞっとする。
若島正という「先生」の名前をはじめて知ったのは、大学に入ってすぐだったように思う。
小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』をはじめて読んだときだった。謝辞にその名前が載っていたのだ。その後、自分の所属する大学の文学部の先生の名だと知るのに時間はかからなかった。著作のなかで出会うことのほうが多いのに、私にとって若島先生はいつまでも「先生」だった。
若島先生の著作をはじめてきちんと読んだのは、本作だったと思う。『乱視読者の英米短篇講義』。自分にとって、遠くて、佇まいが美しくて、距離が埋まらない本でもある。
本ってこわいなあと思うのは、基本的に言葉は古びないものだからである。
もちろん文体は古くなる。夏目漱石の文章を読むと少し昔っぽくて難しいと感じることもあるし、源氏物語まで遡れば辞書や注釈書を片手に読まないと意味がわからないだろう。しかし一方で、それでも言葉の賞味期限はかなり長いほうだと思う。「絵」や「動画」に比べれば。
動画だったら、10年前のドラマさえも、映像の画質は「少し古いドラマ」に感じられるのではないか。あるいは映画だったとしても、50年前の映画はすでにかなり画質が粗く見える。もちろん白黒映画を「古い」と呼ぶのは抵抗があるかもしれないが(もはや「古典」と呼ぶべきなのでは!? と思うだろう)、それでも技術の進歩が、表現としての新しさを更新し続けている。
絵はもうすこし進化が遅く感じられるかもしれない。ゴッホの絵を見て「古い」という人はいないだろう。しかし一方で、漫画をひらけば、やはり少し昔っぽい絵と今っぽい絵は存在するような気がしてしまう。
が、文章は、たぶん絵より動画より、賞味期限が長い、と私は睨んでいる。言葉は、シンプルだからこそ、変わらない。流行語はあるけれど、それでも通用する期間が長い。――この企画だって、だからこそ通用するのだ。「絶版になるくらい少し昔に出版された本だけど、今読んでもやっぱり面白い」なんて言えるのは、そもそも本の賞味期限が長いからだ。本は意外といつまでも現役であることが多い。
とすると、最初の話に戻るのだが、こわいのはむしろ今本を書いているほうである。本の賞味期限は長い。それはもちろん嬉しいことだ。長く読んでもらえる可能性が高い。しかし同時にそれは、たとえば30年前に出版された名著と、今出版される自分の本が、並んで「どっちが面白いかな」とふるいにかけられる可能性が高い、ということでもある。あるいは、自分の書いたものもまた、思想としては古くなっているつまりは時代に合っていないのに、うっかり文章というメディアの賞味期限が長いがゆえに長く読まれてしまう、ということもあるだろう。
どちらにせよ、本はこわい。言葉というシンプルな道具でできているからこそ、長く読まれる可能性がある。それが良さでもあるのだが。「古くならない本」は存在するしかしたまに、言葉という道具そのものの賞味期限を飛び越えて、「きっとこの本は未来永劫いつまでも『古くならない』のだろうな」と感じる本に出会う。本当に、そんな本は、稀なのだが。ごく稀に、存在する。
私にとって本書は、きっといつまでも古くならないと思える本の一冊である。
ただ立っている本。どこにも拠らないし、だれとも群れないから、だから古くならない。
若島正の思考の軌跡を追う講義
本書はタイトル通り、英米文学の短篇小説の読みかたを「講義」するエッセイである。
たとえば、本書が扱っている短篇小説の一部は、以下の通り。
ジョン・アップダイク「屋根裏部屋の巨人」、コンラッド・エイキン「夢の船」、ジョン・チーヴァー「裸女と天使」、ウィリアム・トレヴァー「反物屋としての芸術家の肖像」、A.E.コッパード「『ツネッテ
』の謎」、H.G.ウェルズ「卵形の狂気」、ヴァージニア・ウルフ「渦巻に呑まれて」、グレアム・グリーン「見知らぬ女性」……。
これらの短篇小説をすべて読んだことがある、という人のほうが少ないだろう。だから、これらの小説についての「講義」を受けても意味が分からないのではないか、と思われるかもしれない。
しかし本書に収められた「講義」は、たとえこれらの小説を読んだことがなくても、なぜか惹き込まれてしまうのだ。もちろん読んだことのある人にとってはたまらないだろうが、どちらかというと、小説本体を読んだことがないのに、その小説についての「講義」が面白くて驚く、という事態をぜひ体験してみてほしい。
これってすごく稀な経験なのだ。たとえば書評にしても、扱っている本を読んだことがないと、面白く読めない書評というものはたくさん存在する。自分の知らない小説についてあれこれ言われても、知らないよ……と興味を失ってしまうのは当然のことかもしれない。
しかし本書は違う。あなたがアップダイクの「屋根裏部屋の巨人」を読んだことがなくても、若島正による「屋根裏部屋の巨人」についての講義エッセイが面白いのだ。というかむしろ、本書に触れることで「屋根裏部屋の巨人」を読んでみたくなる。
なぜそんな講義をすることが可能なのだろう? それはたぶん、本書が、作者がすでに知っていることを上から教えるような講義ではなく、作者自らが今小説のなかに深く入り込みそして迷う軌跡を綴っているような本になっているからだ。誰かに何かを教えたくて書いているわけではなく、あくまで自分が小説という名の森のなかでさまよっている行為そのものの記録、という印象のほうが強いのだ。
端正な文章だなあと、こうして引用していてもほれぼれしてしまう。佇まいがしゃんとしている。変なところで曲がらない。そしてなによりも、書評を書いている人のなかで、「できることならわたしが書いたことにしてしまいたいくらい愛している」と書ける人がどれほどいるだろう? こんなに頭のいい人にこんなにもまっすぐ、素直に、純粋に小説と向き合われては、後世の読者は何も言うことなどない……と書評家の端くれとしてどうしていいか分からなくなってしまう。
その人自身に触れるとき
本書を読んでいると、私は、本書と自分の距離の遠さに呆然としてしまう。いいなあ、こんなふうに文章を書けたらいいなあ、と素直に思うと同時に、でも私が100年何かを書き続けてもこんな文章は書けないのではないか、と絶望に近い震えを感じる。たとえば村上春樹や夏目漱石みたいな、文章のものすごくうまい作家の本を読んでもそんなことは思わないのに。たぶんそれは私が彼らに追いつけると思っているかどうかじゃなくて、少しなりとも頑張れば、彼らと私の距離は短くなる日が来るのではないかという、無謀な思い込みを私が持っているからだ。
でも若島先生の文章は違う。距離が縮まらない気がする。なぜそんなふうに思うのかわからない。そもそも頭の構造が全く違う人――それこそ別人種みたいな――が書いていると感じてしまうからだろうか。
本書を読むたび、私は、文章の無駄のなさ、言葉遣いの精緻さ、そして自分との距離の遠さに愕然とする。自分もまた書評を書いているからこそ、こんなふうに、読者が読んだことのない小説すら面白く解釈を読ませることのできる書評が書けたらいいのにな、と思うのだ。
若島先生の視線の先には、巨大な作家たちがそこにいる。私は彼らを見ている若島先生を見ているのであり、その距離の遠さを嘆いているだけに留まらせない文章でもある。
ナボコフ研究者である若島先生は、ナボコフの小説を読むときのことをこんなふうに表現する。だれかの文章を読んでいるとき、たまに、本当にその人自身に触れたような気がするときがある。それはただの読書体験ではなく、作家自身のなにか大切なものに、まるで静電気に驚くかのようにいきなりぶわっと触れたときのような感覚だ。
私はこれとまったく同じ感覚を、『乱視読者の英米短篇講義』そのものにも見出している。私とこの本との距離は遠いが、しかし一方で、同じものを読み同じものについて考えているというその一点において、書評や批評といった媒体を読む意味――つまりは巨人の肩に乗って、巨人の書くものを眺めることができること――を知るのである。
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著者プロフィール
三宅香帆
みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、ほか多数。最新刊は、自伝的なエッセイ集『それを読むたび思い出す』(青土社)。