虐待親に向けられる「子供の献身的な愛」―僕という心理実験29 妹尾武治
過去の連載はこちら。
第3章 愛について③――愛を測った心理実験
人間の共感力
2011年に心理学最高峰の学術雑誌サイコロジカル・サイエンスに「なぜ拷問は生まれるのか?」という論文が刊行された。ヒント無しで「冷凍庫の中に入るのはどの程度辛いか?」と考える場合、その辛さは実際に入った時に感じる辛さの主観値に比べ、過小評価されたものになる。
この質問の前に氷の入った冷水に手をつけさせて、それがかなり痛いことを体験させる。すると予想における過小評価の傾向は緩和される。具体的な体験は、痛みの感覚のヒントになるのだ。
人が時に他者に度を超えた酷いことをしてしまうのは、辛さを適切に予測するための情報が足りていないのだろう。例えば誰かを殴る時、その痛みがどの程度かは、プロボクサーなど限られた人にしか正確には予想できない。コブラツイストの痛みもかけられた人にしかわからない。私自身後悔の日々だ。
人の残酷さはこの限られた推察力を考慮すると、仕方がないことなのかもしれない。情報弱者は社会的弱者になりがちだが、多視点的に情報を求める態度は、他者との共存においてこそ大事なことだろう。
一方で、相手の気持ちを推し量る能力は僅か1歳半の幼児にさえ見ることが出来る。カリフォルニア大学バークレー校の研究で1997年にデベロップメンタル・サイコロジー(発達心理学)誌上に報告された論文を紹介したい。
14ヶ月の幼児の目の前で、実験者がブロッコリーをめちゃくちゃ喜びながら食べる様子を見せる。その後で、その子にクラッカーとブロッコリーのどちらかをその実験者に手渡せる状況を作る。すると14ヶ月児では、どんなに美味しそうにブロッコリーを食べても自分自身の基準で、「ブロッコリーはまずいはずだ」と考えてしまう。そのため、ほとんどの子供がクラッカーをプレゼントしてしまう。
しかしわずか4ヶ月後の18ヶ月児では、多くの子が「この人にとってはブロッコリーの方が嬉しいのかな?」という推察が可能になり、ブロッコリーを手渡す確率が上がる。1歳半の幼児でさえ、相手の気持ちに寄り添う気持ちの萌芽を見せるのだ。共感能力とその限界。我々の社会(ないしはあなたの心)には希望と絶望の両方がある。
(心理実験の再現性問題を見るに、これらは大丈夫かと疑問に思う人も多いだろう。忘れないで欲しい。私はトンデモ系ペテン師だ。この連載は似非科学読み物〈科学風宗教書〉でしかない。だが自負もある。「あなたにとっては、科学よりもずっと大切なことを書いている」と。)
愛を測った心理実験
1905年生まれのアメリカ人心理学者、ハリー・フレデリック・ハーロウは、世界で初めて「愛を数値化した」人物だと言われている。1930年25歳という若さでウィスコンシン大学マディソン校の教授に就任しており、事実類い稀な天才だったという。
当時は “内面の不思議さ”は問わず、“目に見える行動”のみを数値化するという行動主義(SR主義: Stimulus Response主義)が時代を席巻していた。目に見えない心の中身を問いただしても科学的にはならないし、心理学は学問として深まらない。そのような主義主張から、生物に刺激を与えその刺激への反応、つまり行動の変容を客観的に記録するという心理学のアプローチ法が流行していた。
多くの場合、倫理問題で人間を被験体にすることが出来なかったから、行動主義心理学の実験対象には動物が用いられた。ハーロウは当時動物実験の被験体として主流だった「ラット」のような小さな動物ではなく、より人間に近い動物である「サル」を被験体に据えた。このことが心理学界で“高く”評価された(されてしまった)。
サルを大学内で飼育する際、感染症予防の観点から生後12時間で子ザルは母から離された。子ザルには母の代わりに毛布が与えられたのだが、ある程度経ってからこの毛布を取り上げると、子ザルたちは泣き叫んで嫌がった。この様子からハーロウは、母親から生後すぐに切り離されたとしても、彼らはなんらかの愛を知っており、毛布に対してのなんらかの愛着の形成があったのではないかとハーロウは思った。命は愛を知っているという直感だった。
ハーロウは、針金で出来た母親に模した人形を二体並べて配置した。一方のみの母に、針金の上から毛布で出来た皮膚を与えた。そしてこの代理母のいずれか一方に哺乳瓶を取り付けて、そこからミルクを飲めるようにした。
ミルクが飲める哺乳瓶が毛布ありの母に装着されている時、子ザルは大半の時間を毛布ありの代理母にしがみついて過ごした。これは当然だと思われる。驚いたのは、ミルクの哺乳瓶を毛布なしの代理母に装着しても、子ザルは依然として毛布あり(だがミルクは無い)母にしがみついて過ごしたのである。子ザルはお腹が空いた時だけ、毛布なしの母からミルクを飲んだが、それ以外の時間は毛布ありの母にしがみついていた。
毛布の心地よい柔らかさ、ある種のスキンシップこそが子ザルが求めたものであり、栄養と空腹からの回避以上に大事なものだったのである。
ハーロウはさらに「モンスターマザー」という残酷な実験も行なっている。抱きついた子ザルを強制的に引き離すため、毛布代理母が激しく揺れたり、圧縮空気を噴射したり、突然スパイクで突くというプログラムを組んだのである。
子ザルはどうなったか? ご推察の通り、彼らはそれでも代理母にしがみついた。何度突き飛ばされても子ザルは戻り、泣き叫んで抱きついた。危害を加えられても、子は“親”に愛を求め続ける。
人間に当てはまるだろうか? 虐待親に向けられる「子供の献身的な愛」。子供にとって親は正義であり、どのような親にも違和感を覚えづらい。だから親子関係は恐ろしい。そんな意見も耳にする。
親子に限らない。DV被害者は逃げて行けないことが知られている。ハラスメント被害者も同様だ。僕には科学的な正しさはよくわからないが、体験的にハーロウの実験が人に当てはまることを知っている。加害者として。
どのような形であれ「愛」である以上、それは真実の法であり「神」である。だから人間が作った法など超えてしまう。そんな場所から逃げて欲しい。人は神よりも美しくあろうとせねばならない。神と闘え。
(続く)