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『街角さりげないもの事典』|馬場紀衣の読書の森 vol.10

世界は驚きに満ちている。それは、街角だって例外じゃない。わざわざバスや電車に乗って、大きな荷物をずるずるひきずりながら移動しなくたって、たとえば、洗濯洗剤を買いに行く道のりにも驚きが転がっている。手書きの看板や市の記念碑、電柱、高層ビルにだって新しい発見がある。もし、歩き慣れた通りに閃きを見いだせたなら。そこに隠された人間ドラマに気づけたなら。薬局への道だって、十分な旅行先になるかもしれない。

この本に登場するのは、つまるところ、そういう場所だ。身のまわりに普通に存在する、普通過ぎて見えない、存在には気づいているけれど、見落としている部分。加速度で生まれ変わりを繰りかえす大都市に合わせるように変化し、あるいはとり残され、ほとんど人に関心を持たれず、それでもなお歴史を語りつづけてきた、そういうものたちの物語。ただ、こうした気づきを得るためには、都市の歩きかたを知らなくてはならない。この本は、そのためのガイドブックと思ってくれたらいい。

ローマン・マーズ&カート・コールステッド『街角さりげないもの事典』、小坂恵理 訳、光文社、2023年。

ニューヨーク州シラキュースの交差点には、上下の色が逆の信号機がある。このタイプの信号機は広大なアメリカにたった一つしかない。そして、知られざる歴史的事実がある。上が赤で下が緑の並び、というのが今では標準的な信号機の色の並びとされているけれど、20世紀のはじめ、アイルランドのティペラリー郡に由来する地名のティペラリーヒルに信号機が設置された当時、この色の配置は導入されてからまだ日が浅かった。

ところで、何の変哲もないように思われたこの信号機は、設置されるやいなや住民たちによって壊されてしまう。親英アルスター統一党のシンボルである赤がアイルランドのシンボルカラーである緑よりも上にあったことが住民たちの感情を害したのだ。住民たちは怒り、そして、信号機の赤いライトに向けて石やレンガを投げつけた。信号機は破壊されるたびに修繕された。でも結局、信号機は石が自分に向かって飛んでくるのを防ぐことはできなかった。ということで、最終的には時の市会議員が市に陳情して、逆さまの並びを認めさせるに至る。信号の色の順序くらいで、と思う人もいるかもしれない。でも、地元民にとっては小さくとも意義ある勝利だったといえる。「インフラに対する文化の影響力は絶大で、簡単には断ち切れないこと」だから。

日本でも、信号機には文化的な要因が影響している。世界には道路標識や目印や信号を統一するための多国間条約で、数十か国が参加しているウィーン条約というものがある。じつは、日本はこの条約の調印国ではない。「進め」を指示する信号は、多くの言語では緑信号として親しまれているが、日本の信号機が何色かは、ご存知の通り。国際規格を反映して緑に変更するべきか。これについては、数十年間にわたって議論が戦わされてきた。どうしてこんな面倒くさいことが生じているのかというと、日本は100年近くも公文書で「青」に分類されてきたという背景がある。最終的に、日本政府は1973年の政令で「進めの信号には出来る限り青に近い緑色をつかうことを義務」付けるという解決策を提案した。

たかが信号機、たかが色の順列。でも、侮れない。信号機が万国共通でないことに驚くが、シラキュースの住民や日本人が、信号機の慣習を気にしなかった、ということにも驚かされる。ところで、こんな話は都市のほんの一部で、まだまだ街は愉快なもので溢れている。横断歩道の押しボタンや三角コーンや測量標やマンホールやら。好奇心に促されて、なかなか目的地に辿りつけなくなってしまう。この本は、そんな物語で溢れかえっているのだ。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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