藤井正雄『骨のフォークロア』|馬場紀衣の読書の森 vol.18
生きているものが死者へと向ける感情は、とても一言では言い表せないものがある。まず、死者への哀悼の念があるかもしれない。大切な人だったなら、愛惜も。それから、死という不確かな現象への恐怖をしみじみと感じるかもしれない。おそらく、腐敗していく屍体への嫌悪感もあるだろう。とにかく、複雑だ。わたしは死をまえにすると、今、この瞬間、こうして息をしている自分の生を、強く実感する。死の濃くなるとき、生もまた濃くなるように思う。
比較民俗学の視座から「骨」に関するフォークロア(伝承)をまとめた本書には、たくさんの死者が登場する。たとえば『日本霊異記』や『今昔物語』に登場する、ものいう髑髏。『九相詩絵巻』に描かれる白骨。古代エジプトのミイラ。アメリカのエンバーミング。骨というテーマを中心に、それぞれの民族の、遺骸観とでもいうのだろうか、他界観や霊魂のとらえかたが語られる。
死が、誰にでも分け隔てなく訪れる、揺るぎない事実であるのに対し、骨へと向けられる想いは民族によってさまざまだ。ただ、骨を保存し、崇拝の対象とする文化は世界各地に見ることができる。よく知られているように、未開文明の地でなくとも、生者にとって、骨は信仰の対象になる。このような思想の背景には、骨にはなんらかの超自然的な力や生命力が宿ると信じられてきたこと、そして骨を霊魂の容器とする考えがある。
オーストラリア大陸の中央部に暮らす、ウィリンガラ族の遺骸観は日本のそれとまるでちがう。彼らは、食肉のあとに頭蓋を樹の台にのせて、乾燥させ、うち砕き、腕骨のほかはすべて埋葬する。衝撃的な行為に見えるが、ウィリンガラ族にとっては、腕骨こそ死霊の座なのだ。そうして骨をすべて砕いてしまうと、今度は腕骨を樹皮でつつみ、儀礼を施す。最後には、これも破壊してしまう。こうして霊魂はトーテムの成員の仲間入りをするのだ。たいして西アフリカのオゴエ族では、屍体の骨はすべてうち砕かれる。そして、霊がふたたび自分たちのもとへもどってこないように、樹の下に吊るすそうだ。人骨を呪具として利用する民族もある。
自分たちから死霊を遠ざけようとする気持ちには共感できるものがある。死者への恐怖心がそうさせるのだろう。いっぽうで、死霊の助力を乞うたり、骨を記念物にしたりする者たちもいる。その理由を作者は「高等宗教にあっても、仏教圏の舎利・遺骨崇拝、キリスト教の聖遺物の崇拝など、なかでも人骨は死者の一部であることから強い情緒反応の対象となり、さまざまな習俗をうみだしている」と説明する。
ただ、おおくの民族では、霊魂の座は腕ではなく、頭にあると考えるのが一般的だ。頭蓋骨(髑髏)にたいして人びとが抱くおどろおどろしいイメージは世界共通らしい。ところで、日本には水戸黄門が所持していたとされる髑髏盃が現存している。個人的に、かなり見てみたい。ところで、ここで紹介したのは骨の呪術のほんの一部である。骨にまつわる話はまだまだ尽きない。