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『奥行きをなくした顔の時代』|馬場紀衣の読書の森 vol.17

「ヴァーチャルとは可能的に存在するものであって、現実に存在するものではない」とフランスの哲学者ピエール・レヴィは述べている。そして「ヴァーチャルなものは、アクチュアル化されることを目指しているが、それは実効的な、あるいは形相的な具体化という状態に置かれることはない」とも。

自己コンテンツ化された自分のことを考えるようになったのは、SNSが台頭してからだ。それ以前にも、舞台写真を撮影してもらう、という機会はあったけれど、これほどの「ままならなさ」は感じていなかった。誰もがタレントやユーチューバーのように自己を過剰に演出したり、キャラクター化したりするのを望んでいるわけではないだろうに、積極的ではないにしろ「インスタ映え」だの「リモート映え」を意識せざるを得ないのだとしたら、やりきれない。

もはやどこにも「あるがまま」「ありのまま」のわたしなど見つけることはできない。容易に画像の加工ができてしまうデジタル・イメージは、主観性を映しだす鏡であると同時に、モノ化される女性身体に向けられた眼差しの問題を顕在化させる。「そこにある外示的な側面は、内面の感情とは無関係な『表面』であり、『奥行き』を意図的に放棄した顔のヴァリエーション」にすぎない。だから、本書のタイトルは『奥行きをなくした顔の時代』なのだ。


米澤泉、馬場伸彦『奥行きをなくした顔の時代 イメージ化する身体、コスメ・自撮り・SNS』晃洋書房、2021年。


顔の奥行きが不要になったことで、身体観にも変化が現われた。SNSやオンラインに表象する身体は、現実の生身の身体とはちがい、自由にイメージを変えることができる。外見を気軽に、都合よく変えられるようになったことで、人の顔と人格は切り離され、「確固とした私というものから逃れられるように」なった。たしかに、顔にはその人らしさが表れる、とか、それまで生きてきた人生が表れるなんて言葉を聞かなくなって久しい。だから、たとえばzoomのようにパソコンの画面にバストアップの姿しか映らない時代には、見た目の印象がとても重要になる。ヴァーチャル背景を貼りつけて、どこでもない場所にいるということにしてしまうことができるのも、オンライン化された身体ならではだ。

もしあなたがデジタルネイティブで、イメージと戯れることに慣れているなら、これはあなたのための本だと言えるだろう。デジタル・イメージが普及するより前の世界を知っている人には、顔の奥行きは、その人の在り様を語るための大切な要素だったと著者は語る。たとえばアナログ肖像写真にわたしたちが感じるリアリティーには、その人物がかつてどこかで確かに生きていたのだという痕跡が深く、深く、刻まれている。こうした、かつてあったという過去に対する信頼感が、肖像写真の奥行を支えていたというのだ。

現実との対照性を欠いたデジタル・イメージはわたしたちの理想に寄せてはくれるが、イメージを操作できるという可塑性によって、写真がもっていたリアルの価値を下落させてしまった。そうなると、やはり考えてしまう。本物リアルってなんだろう。




紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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