サイボーグになる|馬場紀衣の読書の森 vol.53
SF作家のキム・チョヨプは、15歳のときに神経性難聴と診断されて医師に補聴器をすすめられた。技能者がもってきた「耳あな型」補聴器は耳の中にすっぽりおさまる爪の大きさほどのもので、つけても目立たないようにデザインされていた。「眼鏡店のそれとは違って補聴器店の鏡は、補聴器が外から見えないことを確認させるために置いてあった。わたしは補聴器をつけていることをずっと隠していられた。そして、これからもわたしにはそうすることが求められるのかもしれない、という気がした」。この小さな機器にかぶせられた社会的イメージが次第にはっきりしてくると、べつの疑問が頭をもたげた。補聴器は恥ずかしい物で、それを隠すことも恥ずかしいことなのだろうか?
キム・ウォニョンは車いすに乗って生活している。14歳のときに、はじめて冷たいスチールのフレームに座り、はじめて自分の視線が人々の腰の高さに下がるという経験をした。「自分はいったいどういう存在なのか、それを自ら問うためには、自分の内面に他者の視線がなければならない。だが、わたしにはその他者を想像するのが難しかった。幼いころ鏡に映った自分の姿は友人たちに比べて『欠けた』状態だったため、その『欠如』から何か別の存在が想像される余地はなかったのだ」。鏡のなかに人間と車椅子の結合した姿を見つけて気づいたことがある。自分は単なる「欠如」の存在ではない、ということだ。
ともに障害当事者である二人が語るのは、不自由を抱える自らの身体性とテクノロジーの未来について。不完全さを抱えたまま、よりよく生きて行くための技術とはなにか。日常に導入されているテクノロジーは人間の生活を(障害の有無に関係なく)ほんとうに便利にしてくれるのか。自分の身体の造形的な非対称性とどのように向き合うか。補助機器と障碍者とのプライベートな関係。異物感。複雑で扱い辛いテーマを、自身の経験やさまざまな理論と学説をひきながら論じていく。
キム・チョヨプとキム・ウォニョンの誰も疎外しない(というのは、すべての人を巻きこんでいるということ)口調がとても印象的。老いを嘆く人、病気に苦しむ人、弱さを抱えながら生きる人。もどかしいみたいな、やるせないみたいな気持ちを抱えて日常を普段着で生きて行く人びとを、この本はまるごと包んでしまう。それがすごい。それはきっとこの二人が心と頭で繰りかえし自分と、他者と、対話をつづけてきたからなのだろう。とても自然な言葉で、誰もが当事者であることの事実に気づかせてくれる。でも、優しいだけじゃない。対話はつねに具体的で、二人の意志も目的もはっきりしている。促されるように読み終えて、最後のキム・チョヨプの言葉に胸をうたれた。