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4:少年ナイフという名の、世界最先端の「ポストパンク女性像」が日本にあった——『教養としてのパンク・ロック』第36回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第5章:日本は「ある種の」パンク・ロック天国だった

4:少年ナイフという名の、世界最先端の「ポストパンク女性像」が日本にあった

女性アーティストの活躍

 ここまでの例でひとつ言えるのは「外形的なスタイル」が明瞭なサブジャンルほど、日本では「残りやすい」ということだ。ひとつのトラディションとして守りやすい、維持しやすいという長所があるのだろう。あるいは(ボウイも大いに参考にした)歌舞伎の演目みたいなもので、日本人の特質にもよく合っているのかもしれない。音楽活動を「自己参加型の発表会」的なものとしてとらえるならば、たしかに「あらかじめ型が決まっている」ことは、参入を考える際の、とても重要な条件となるのかもしれない。

 では「不定形」の典型である、ポストパンクでは、どうか? どれほどのバンドが、日本では活動を継続しているのか?――まずは東京ロッカーズやその周辺、あるいは対抗ほか同時代的勢力からの流れがひとつ、細いながらも続いている。テクノポップの一部をポストパンクと見なすならば、P-MODEL、ヒカシューらの息の長い活動も挙げられるだろう。しかし日本におけるポストパンク最大の「突然変異」を挙げるとしたならば、それは少年ナイフかもしれない。

 日本において「特殊に」展開していったパンク・ロックおよびポストパンク領域において、もしかしたら、最も世界に誇れる点はこれかもしれない――と僕が思うのは「女性アーティストの活躍」だ。といっても、前章における「ライオット・ガール」のような、戦闘的フェミニズムに根差したものではない。もっと「外した」方向とでも言おうか。英米のポストパンクやフェミニスト・パンクに馴染んでいる人であればあるほど「そんな手があったのか!」と思わず膝を打つような、やはり「特殊」なロックが、日本から生まれていた。

「理想的な」オルタナティヴ・ポップ

 その代表例は、少年ナイフを置いてほかにない。3人編成の女性だけのロック・バンドとして、81年に大阪で結成。のちの世で「ローファイ」と呼ばれる簡素なロック、ポップ・パンクを「手作りで」やり続けたところ、インディー発売されたレコードが海外で静かな人気を呼ぶ。彼女たちのありかた、その音楽世界およびキャラクターが、あたかも「ザ・レインコーツのアイデアを結晶化させた」天使のように見えたのかもしれない、と僕は想像する。「パンクやポストパンクをよく知っていれば、いるほど」ショッキングなまでに「理想的な」オルタナティヴ・ポップがそこにあったのだ、と。

 なぜならば元来、アメリカはもちろん、イギリスも強烈な「性差社会」だからだ。女性は女性「らしく」、そして男性は男性「らしく」あらねばならない、という社会的な制約の厳しさは日本の比ではない。ピューリタンが作った国がアメリカであり、ヴィクトリア朝の紳士淑女の伝統が生きている国がイギリスだから。ゆえに、それらの国の女性パンク・ロッカー、ポストパンク・アーティストは「旧来的な女性観」と正面衝突しては激越に闘争することが、まず最初に重要だとされるきらいがあった。ここから〈SEX〉〈セディショナリーズ〉の名物店員ジョーダンやスー・キャットウーマンのような「反逆的」女性ファッション・アイコンやアティチュードも多く生まれたし、スリッツは泥ヌードにて気勢を上げた。スージー・スーは目の周りを真っ黒に塗り上げた。

 しかし少年ナイフときたら、まるで「童女のように無垢で、楽しそう」なのだ。にもかかわらず、とくに誰にも(たとえば、庇護者としての男性などにも)媚びているわけでもない。自由に、自然に、まるでジョナサン・リッチマンのように飄々と「食べものの歌」など、歌っているのだ!――これは、なんとクールなのか。とくにフェミニズム関連の激しい戦いが繰り広げられている米英のオルタナティヴ・ロック界隈にて、枯れ沢に水が流れ込むようにして、少年ナイフの人気は高まっていく。89年には米インディー・レーベルの「ジャイアント」から、トリビュート・アルバムまで発売された。『エヴリィ・バンド・ハズ・ア・ショーネン・ナイフ・フー・ラヴズ・ゼム』と題された同作は堂々のアナログLP2枚組。ソニック・ユース、レッド・クロス、L7など斯界の大物バンドを含む全32アーティストが参加して少年ナイフの曲をそれぞれが演奏した豪華なものだった。

 さらに彼女たちは、請われて91年11月末からのニルヴァーナのUKツアーに同行してオープニング・アクトをつとめる。カート・コベインがとにかく少年ナイフが大好きだったのだ。これはニルヴァーナが『ネヴァーマインド』をリリースした直後のものだったのだが、コベインはツアー中、なにくれとなく彼女たちをヘルプしてくれたそうだ。自分から率先してアンプを運んでくれたり、とにかくやさしかったのだ、と中心人物の山野直子はかつて語っていた。「ほんまに、ええ人やったわあ」と。

PUFFY(パフィー)の大ブレイク

 少年ナイフに特有の「佇まい」は、多かれ少なかれ、日本の「オルタナティヴ」バンド系の女性たちに共通するところがあった。その延長線上に、ゼロ年代のアメリカにおけるPUFFY(パフィー)の大ブレイクもあったと僕は見る。彼女たちをモデルにしたアニメーション(04年スタートの『ハイ! ハイ! パフィー・アミユミ』)は、全米のティーン前の少女たちのあいだで、とにかく大人気になった。だからこのころまでは、日本発祥の、日本的に独特な「オルタナティヴでロックな女性像」が、はっきりとアメリカなりイギリスなりの社会における「かくあるべき未来」に位置するもののように見えていたはずだ。そのことは間違いない。

 ここにつながった芽は、ZELDA(ゼルダ)から始まった。79年結成の彼女たちは、96年の解散時まで「現存する世界最古の」オール・フィメール・バンドなどとよく評されていた。耽美的なニューウェイヴ/ポストパンクから、のちにワールド・ミュージックへと延びていく音楽的指向性も、後進たちに大きな影響を与えた。同じく女性だけのバンドである水玉消防団、赤痢なども海外にファンが多い。

 つまり日本のパンク・ロックが「ブーム」に飲み込まれて消費されていった80年代においても、我関せずの姿勢で尖り続けていた女性アーティストこそが、正しく日本のポストパンクの本流を担っていた、とすら言えるのだ。あらゆる国際的指標をもとに「女性に対して差別的構造がある」と百年一日のごとく指摘され続けるのが日本なのだから、たしかに不当な抑圧への怒りの埋蔵量という点では、ごく普通の日本女性であるというだけで、胸中に抱え込んでしまった燃料はほぼ無尽蔵の可能性が高い。つまり「ポストパンク・バンド」という観点から見れば、日本社会のひずみゆえ、同国においては男性より女性に、圧倒的な分があった。ゆえに結果的に、国際標準のかなり上位につける強力なアーティストがいくつも登場してくることになったと僕は見る。85年にようやく男女雇用機会均等法がいちおうは成立するに至った、そんな時代背景も、女性陣の晴々とした大暴れを間接的に後押ししていたのかもしれない。

弱まっていく「怒り」の波

 だがしかし、残念なことに、90年代以降はこの「怒り」の波が弱まっていくのだ。アメリカにおけるオルタナティヴ・ロックの勢いが落ちていったあたりが、変わり目だっただろうか。とくに「インディー・ポップ」と呼ばれる領域を中心に、日本ではまたしても誤解が広まっていく。「参加できればいい」「手作りであればいい」という、例の病気だ。ここに「女性なのだから」という後退すら加わる。自己満足的な「ままごと」であればあるほど、庇護者としての男性に象徴される「社会的権威」が喜ぶ「だろう」――それこそが「女子供」にしかできない、なにか価値あることなのだ――という倒錯だったのかもしれない。「インディー」とは Independent から変化した言葉だから「他者に頼らず、『独立』していること」は、第一義的に重要なことだったのだが。社会学者の宮台真司ほか、男性による女性への差別や性搾取構造などにかんして「古典的な日本男性」としての態度を堅持しているようなタイプの「文化人」たちの発信などが悪く影響し、それを内面化してしまったせいだ、との見方もある。後退していく女性と「ままごとのお膳」を嬉々としてともにする男性も少なからずいて、つまり、そこにおいてもまた、ひとつのガラパゴス的完結性が生まれてしまっていた。日本固有の「ムラ」社会のなかの「ムラ」として。

 かつて世界の最先端につけていたはずの「日本の女性ポストパンク」系譜は、あっと言う間に地下アイドルごっこと大差ない地点にまで、芸術的にも哲学的にも後退していく。おそらくはその固有の「怒り」すら、いずことも知れぬ心中深くへと沈降していくことになる。

【今週の8曲+】

600こちら情報部「'80春 テクノ・ポップって何?」(1980) 1/2

P-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが順にスタジオ・ライヴで演奏するという有名映像。投稿のパート2でも演奏シーンあり、テクノポップがさらに掘り下げられている。

Shonen Knife - Burning Farm

83年の同名デビュー・アルバムより。スリッツのようでいて、「ダンス天国」をカヴァーしようとして、どうにかなってしまったような……この独特なインディー・ロックが海外にて衝撃を呼んだ。

The 3 o'clock - Insect Collector

そしてこれが衝撃の結果のひとつ。本文中で記したトリビュート盤の収録曲。日本の少年ナイフのナンバーを、このように錚々たる顔ぶれの海外オルタナティヴ勢がカヴァーした。

ZELDA - 開発地区はいつでも夕暮れ LIVE 1981/12/26

メジャー・デビュー前の貴重ライヴ音源にて、初期代表曲を。このリズムと呪術感。若き(加入時は中学生だった)高橋佐代子の佇まいに、みんなぶっ飛ばされた。

水玉消防団 - ジークフリードはジッパーさげて

81年発表の1st『乙女の祈りはダッダッダッ!』に収録。重層的なヴォーカルが、こちらも呪術。海外でも人気の高い1曲。

赤痢 - ベリー・グウ

「楽器経験がない」女子中学生が、83年の京都で結成したバンドが赤痢だった――という触れ込みなれど、しかしグリップ力の強いハード・エッジなロックンロールこそが、彼女たちの得意技。そんな持ち味は、ここでも発揮されれいる。歌詞やアルバム・タイトルの随所に「笑い」がぶち込まれていた点も破壊力を増加させていた。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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