僕がやってきた科学的取り組み―僕という心理実験Ⅷ 妹尾武治
トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmidt
妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。
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僕がやってきた科学的取り組み―僕という心理実験Ⅷ 妹尾武治
「心理物理学」と呼ばれる橋
デカルトの二元論を簡単に言ってしまえば「心と体の二つの世界があり、それらは別次元の存在である」となるだろう。脳細胞という物質がクオリアという主観を生むのがなぜなのか?というハードプロブレムについては、過去も現在も何も確からしいことはわかっていない。物質と主観の間にはあまりにも広い大河が流れている。そんな中、僕が取り組んできた科学分野は心理物理学というものだった。
心理物理学の始祖であるグスタフ・フェヒナー(1801〜1887年)は、この二つの世界に架け橋をかけることを試みた心理学者だった。物理量と主観量を計測し、その関係性に数式を当てはめた。
例えば部屋の暑さを0から100点満点で答えさせ、その時の物理的な気温を計測する。23度の時、暑さの主観値は50となったとする。次に25度の時にはその値が60だと被験者が報告したとする。物理的世界の数値変化(23から25)と、主観値の変化(50から60)。この4つ数値の関係になんらかのモデル・数式を作るという作業。これが心理物理学である。つまり感覚「主観」と物理量の橋渡しである。
フェヒナー以後、ありとあらゆる感覚と物理量の関係性が数式として記述されてきた。
錯覚的な自己身体の移動感覚「ベクション」
私自身、知覚心理学者として長年この作業に取り組んできた。私がツールとして用いたのは視覚刺激によって駆動される、錯覚的な自己身体の移動感覚「ベクション」であった。
広域な視野に一様に動く縞やドットが提示されると、その運動方向と反対方向に、自己身体が錯覚的に動いて感じる現象、これをベクションと呼ぶ。
電車に座っていて、ホームの対面の電車が動き出すと錯覚的に自分の乗っている電車が動き出したと感じることがあるだろう。車で停止中に、隣の大型トラックが、自分の車よりも先に動き出すことで、自分の車が下がったと驚いたこともあるだろう。アミューズメントパークでも、実際には椅子が揺れているだけなのに、空を飛び回ったりするアトラクションがある。これらは全てベクションと呼ばれる現象であり、その応用である。
私の実験では、この主観的に感じるベクションの強さに100点満点で得点を与える。その時の刺激の物理的な特性を事細かく記録する。
例えば、刺激の色や明るさ、大きさ、網膜の偏心度、観察距離などなどをさまざまに変えて被験者に提示する。刺激の物理的特性の変化に応じた、ベクションの主観的な得点の変化を記録し、その二つの関係についてモデル化する。
その結果、錯覚的な自己身体の移動感覚は、刺激が大きく、明るく、網膜の周辺部分に提示される時に主観的な強度が高まることがわかった。先行研究を交えながら、それとの差分としての新しい発見を繰り返し報告して来た。それが私の主たる業績である。
正直に告白しよう。私がやっていることはフェヒナーから何も進展していないし、主観と物理の二つの世界の間に流れる大河を渡りきれる見込みも全く無い。しかし、そこには蓋をして“いつか橋が渡せるかもしれないという態度”で仕事をしている。これは自己欺瞞だ。
ただ、それでもベクションは私に決定論への重大なヒントをもたらした。私たちは、動いているわけでなく「動かされているのだ」と。主と客の反転。動いていたのは太陽ではなく地球だった。地動説は人類全体規模のベクションの発見だった。そして自由意志もまたベクションに過ぎなかった。我々には自由意志はなく、世界、環境からの刺激の奴隷なのだ。
「カクテルパーティ効果」に関する最新研究
2021年12月15日にジャーナル・オブ・ニューロ・サイエンス誌上に掲載されたロチェスター大学の研究を紹介したい。
二つの音声を同時に聴かせ、いずれか一方の音声にのみ注意を向けさせると、注意を払っていた音声の意味のみが理解できる。これは心理学で長年調べられてきた「二重音声課題」というパラダイムであり、より有名な言葉では「カクテルパーティ効果」と呼ばれている。
この論文では、意味のある音声として認識されている時の脳波パタンの特徴と、音声以前の「ただの音」として認識されている時の脳波パタンの特徴の違いをまず明らかにした。その脳波パタンの違いに着目して、カクテルパーティー効果のような音声の聴取状況で、脳波がどうなっているのかを調べた。
その結果、注意を向けて選択的に聴こうとしている音のみに対して、音声として認識される脳波パタンが生じ、それらの音が音素に変換されていること、注意を向けていなかった音については「意味のある声」への変換が生じていないことが脳波のパタンから明らかにされた。実際に脳波パタンに基づいて音を音声に変換すると、その人が聞こえた音声情報と良い合致を示すようなことが示唆されている。
だがである、なんとも言えないトートロジー感を覚える。
この研究の凄いところは「心の中身・主観でわかっていることの物理的な対応を脳に求めてそれが確かめられた」ということになるだろう。フランシス・クリックとクリストフ・コッホが1990年代以降に推し進めてきた研究パラダイム、NCC (Neural Correlates of Consciousness)の最先端の美しい研究である。
しかしだ、音を聞いていた本人からすれば「そんなこと脳を解析しなくても僕には自明なんだけど…」とならないだろうか?
この研究は、意識内容と相関する脳の活動を見つけることの限界を改めて私に感じさせた。もちろん、ずっと前からそんなことはわかっていたのだが。人間は心の周りをずっとぐるぐる遠巻きに憧れて回っているだけで、見えない壁に阻まれて内側に入れず、心に憧れて騒いでいるだけだ。
心理学の研究は、十分な内省で事足りるのではないか?
脳に心は無いし、脳(外側)を調べるのはもう十分な気がしている。
心理学者の野村幸正は、強く輝く思考を僕に残した。
「心理学は本当に右肩上がりなのだろうか。右肩上がりであるべきなのか?」と。
発狂するしかないのか?
一方で本気で一歩も逃げずにハードプロブレムに取り組めば(内側を掘ること)、それは発狂に近づく気もする。少なくとも、科学よりも芸術サイドの人だと思われるようになるかもしれない(実際には“芸術家であれば心を削ってこの問題に取り組んでいる”というのも、またただの思い込みだ)。
本気で大河を渡ろうとすれば、流されて溺死する。それは現実においての自死を意味する。アプローチ方法は違えど、芥川も太宰も三島も他の多くの作家たちは、皆この河に流された。発狂することを厭わないレベルで取り組むか、世紀を超える天才になるか。いずれかでしかこの大河には挑めない。
私はこれまでに42年に及ぶ「心理実験」を、自分を被験者にして実施して来た。完全に狂ってしまう前に、僕が費やした時間そのものをバトンにして、次の世代の心の探求者に渡したい。
橋には二つの世界を繋ぐ美しさがある。本来は隔絶した二つの世界が橋によって行き来可能になる。彼岸へ向かう時「何が起こるのだろう」と我々はワクワクする。
人間の意識とは、情報の統合のことであると精神科医で神経学者のジュリオ・トノーニは言う。意識は二つ以上の情報空間を統合し新しい価値を生むという点で「橋」だ。だから我々は美しい橋を渡る時、意識のダイナミックさを感じ喜びを覚えるのかもしれない。
初めて岩国の錦帯橋を渡る中で感じた、自分の足並みの不確かさに不思議な興奮を覚えたこと。お茶の水駅の聖橋の上から眺めた神田川。水面がとても黒くそれでいて澄んでいた。
刺激を受ける。それが主観として内側で蓄積される。物質的に内側の容量が増えたかのように胸がいっぱいになり、涙が溢れる。モノと心には確実に橋が架かっている。フェヒナーのその信念を僕たちは信じたい。(1章完。2章へ続く)
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