「小川洋子的モチーフ」とは何か? を知る一冊|三宅香帆 第16回
小説は、作家のフィルターを借りる媒体
小説とは、畢竟、世界の見え方を知る媒体なのだ。
――小川洋子の小説を読むたびそんなことを思う。
たとえばある作家の小説を読むと、そのようにしか世界が見えなくなる。ほかの作家の小説を読むと、世界がその作家の見ているように、見えてくる。そういう力をもった表現こそが、小説なのだと、思う時がある。
作家のフィルターを貸してもらうこと。それが小説を読むという行為なのではないだろうか。
逆にいうと、作家とは「それ以外の方法で世界を見ることができない」ことが才能の中身なのかもしれない、とすら思う。
小川洋子という作家の小説を読み終わると、いつも世界が「小川洋子的」としか言えない色づき方をする。小川洋子的な世界の見え方。それが自分の視界のフィルターとしてインストールされてしまって、しばらくそれ以外のフィルターを使うことができない。そんなふうに感じるのだ。
いささか抽象的な物言いになってしまった。しかし本書を読めば、いったい私が何を「小川洋子的」だと思っているのか、おそらく分かってもらえるだろう。
『原稿零枚日記』で描かれる、不思議な体験
本書のタイトルは『原稿零枚日記』。すごい命名である。そしてそのタイトル通り、なかなか原稿が書けずに困っている小説家が、原稿を書けない中で不思議な体験をする物語を綴っている。
原稿を書けない小説家がする体験……とだけ聞くと、なんだかとても現実的な話を想像してしまうかもしれない。しかし小説のページをめくれば、その想像が杞憂に終わることがわかるだろう。なんせ作者は小川洋子なのだ。小川洋子の描く世界観が詰め込まれた本書は、小川洋子的モチーフでひたひたに満たされている。
物語の冒頭、長編小説の取材にやってきた主人公が迷い込むのは、「苔料理専門店」。せせらぎの小道を進むと、そこには苔むした平屋がある。老女が接待してくれるその店では、苔料理が次々出されてくる。そしてコースのラストは、動物の死体に生える苔――なんとも小川洋子らしい展開に、読者としてはうれしくなってしまう。
ほかにも、たとえば運動会に潜入してみると、仲間を見つけたこと。あるいは、「あらすじ教室」という市民講座の講師を引き受けること。そしてその末に、大作家のあらすじを記録する係になること。あるいは、ロッキングチェアに腰かけた老婦人が指導してくれる「暗唱クラブ」の記憶。
さまざまな思い出や体験について、主人公の小説家は日記を綴る。そのどれもが小川洋子的な世界を私たちに伝えてくれるのである。
母の記憶と、「爪」
本書を読むと、小川洋子という作家は、世界をこんなふうに見ているのか。という感想が思わず漏れ出てしまう。
たとえばもちろん現実には苔料理という存在を見たことはない。しかし小川洋子という作家の書くものを読むと、世界のどこかには苔料理が存在しているような気がしてくるのだ。私は見たことがないけれど、おそらくこの作家の近くにはそういうものがあるのだろうし、実際にそういうものに出会える世界がこの世のどこかにあるのかもしれない……そんなふうに思えてくる。
それは自分自身の眼鏡でしかこの世を見られない窮屈な現実に対し、どこか、別の眼鏡をかけさせてくれるような喜びに満ち溢れている。
たとえば母のもとを訪ねたときの記憶を綴る場面。そこで描かれる思い出は――母の「爪」に焦点を当てる。
そう、母との会話や思い出の品よりも、この作家は「爪」にスポットライトを当てるのだ。
ここにこそ小川洋子的世界観とは何か、という問いの答えがあるように私は思う。母の爪を燃やす、という言葉だけ読むと一瞬ギョッとする。しかし小説だからこそそのモチーフの切り取り方は可能になる(これが映画やアニメだったら、きっとこんなにも爪というものを重要視する必然性がわからないのではないだろうか)。爪を燃やす、その描写のなかに、作家性が宿る。
物言わぬ存在が、雄弁になるとき
それは苔にしても、あらすじにしても、肘にしても、同様なのだ。普段は物言わぬ存在なのに、小川洋子の手にかかると、それらは突然雄弁になる。小説のモチーフとして、存在感を増す。私たちは普段誰かの素爪に注目することは少ない。しかしこの小説を読むと、爪というイメージがどれだけ小説のなかで美しく光り、そして私たちに多くのことを語ってくれるか、よくわかる。人の焼けるにおい――それを可能にするのは、爪というモチーフなのである。
「小川洋子的」モチーフは、世界中の片隅に散らばっている。見つけようと思えば、そこらじゅうに見つけることができる。しかし私たちは、小川洋子にそれを文章で提示してもらうまで、気づかない。それが小川洋子的モチーフであることに。
小説になってはじめて、この世界はこんなに雄弁だったのか、と気づく。
小さな、片隅に存在するそれらの言葉は、小川洋子によって語られてはじめて、私たちにほんとうの姿を見せる。
それこそが小説という媒体の効用であることを、本書を読むことで私たちは知る。