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『衣服のアルケオロジー』|馬場紀衣の読書の森 vol.13

わたしの知り合いに、とかく朝の準備の早い人というのがいるけれど、大ブルジョワジーの社会では、「申し分ない」女性として認められるためには、衣装をひっきりなしに、ときには8回も、脱ぐことと着ることを繰りかえさなくてはならなかった。19世紀フランス社会に生きる女性にとって、身づくろいは、おおごとだったのだ。

身づくろい、といっても、髪をとかしてクローゼットから服を引っぱりだして、というわけにはいかない。自分の年齢、容貌、肌と髪の色、服と調和させた衣装を選び、なおかつ自分の財産や社交界の地位、時刻、季節、場所、当日に予定されている出来事、なども考慮するというのが作法の基本だった。

女性たちの一日は、たとえば、こんな具合にはじまる。朝は、暖かくて着心地のよい部屋着で目覚める。散歩用の乗馬服に着替え、昼食のために優雅な化粧着に着替える。出かける予定があるなら、豪奢な訪問着に着替え、帰宅後は、晩餐用の衣装に着替える。夜会や舞踏会のある日は、そのための着替えも必要になる。これに日々の化粧、ヘアセット、入浴、脱毛などが加わるのだから、いったいどれほどのお金と時間をかけていたのか、想像するだけで、ぐったりしてしまう。


フィリップ・ペロー『衣服のアルケオロジー 服装からみた19世紀フランス社会の差異構造』、大矢タカヤス訳、ちくま学芸文庫、2022年。


そのうえ、外では膨大な布地を引きずって歩かなくてはならなかった。田舎から出てきたばかりの娘に、パリの通りは歩けない。なんてったって(泥まみれの)道を、ぶつかってくる通行人をひょいとかわし、四方八方から殺到する馬車をすり抜けて、歩かなくてはならないのだから。しかも、社交界の女性たるもの、歩きとおすだけでは充分ではない。ただでさえ裾のながい衣装に気を配り、靴に泥染みをつくらず、布地をひっかけることもなく、家まで帰らなくてはならないのだから。これにはコツがいる。都会デビューした娘はまずなにより、歩きかたの技術を習得しなくてはならない。

せっかくなので、19世紀パリの歩きかたを紹介したい。著者によれば、衣装の裾と靴を守りながら歩くには、足をかならず舗石の中央につくようにしなければならないという。これは縁につくと、舗石と舗石のあいだに滑ってしまうためだ。歩行の際に踵をつくときは、足先から力を入れるのがいい。「たとえどれほど泥の多い時でも踵に力を入れるのはごく稀」にすること。「舗石をつねる」ようにしながら、手際よくスカートを踝のほんの少しうえまで持ちあげる。踝が見えすぎるとはしたないので、高さには気をつけること。

古い本ではあるけれど、言及されている資料と文献の多さには目をみはる。バルザックやゾラといった当時の小説家の引用が豊富なのも、古典好きとしてはうれしい。読みすすめるうちに、これまで影絵のようだった小説の登場人物たちが色づいていく。本を閉じたあと、もう一度、19世紀の作品世界にもどるという楽しみもできた。




紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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