水月昭道著『高学歴ワーキングプア』全文公開/第3章「なぜ博士はコンビニ店員になったのか」
光文社新書編集部の三宅です。『「高学歴ワーキングプア」からの脱出』刊行を5月20日に控え、2007年刊行の『高学歴ワーキングプア』の全文を順次、公開していきます。本日は第3章「なぜ博士はコンビニ店員になったのか」です。生々しい具体例ばかりで、読んでいて暗い気持ちになります。このときから13年経っているわけですが、博士を取り巻く環境は改善されているのでしょうか……。
第3章 なぜ博士はコンビニ店員になったのか
世の中にあぶれる〝博士卒〟たち。塾講師・非常勤講師・肉体労働・ウエイトレス・パチプロ・そしてコンビニ店員。どれも、〝博士卒〟たちが従事しているアルバイトだ。青雲の志を抱いて大学院博士課程にやってきて早○○年。ふと気がつくと、なぜか今〝フリーター〟。
だが、フリーターであっても、消息がわかるだけまだましなほうだ。〝ニート〟となった者、〝行方不明〟、そして〝自殺者〟。一緒に学んだ友人と、「もう会えなくなってしまった」という話を耳にすることは、もはやまったく珍しくない。
彼らはどこからやって来て、どこへ行こうとしたのだろうか。一体いつから、どうして歯車が狂ってきたのか。どんな思いで、いま生きているのか。聞いてみたい。
気がつくと在籍一〇年
江藤さんは現在三四歳。非常勤講師のかたわら、大学院に在籍して一〇年以上(休学を含む)になる。なぜ、そんなにも長く大学院生を続けるのだろうか。
「最初は、こんなに長くなるなんて思ってもいませんでした。博士号がなかなか取得できず、気がつくと今になっていたというわけです」
博士号は、博士課程を出ただけでは取得できない。〝博士号〟取得には、所定の要件を満たしたうえで、特筆すべき顕著な研究業績をあげた博士論文を提出することが求められる。論文が提出できない限り、博士学位は下りない。論文提出がここまで遅れた理由を、江藤さんはこう語る。
「自分が博士課程に入院してきた時は、博士号を取るということは〝当たり前のこと〟ではありませんでした。むしろ、学位を取る人のほうが珍しいという状況でした」
文系では、現在でも博士号を取得している人のほうが少ない。博士課程は出たが〝博士〟の学位は持たないというスタイルは文系での常識であり、驚くにはあたらない。〝特筆すべき業績〟とは、それほどに厚い壁なのだ。
「その頃(約一〇年前)は、まだ博士号を持っていなくてもよかったんです。ですが、五年ほど前から状況が変わってきました。大学教員の公募に際して『博士の学位を有していること』という一文がやたらと目につくようになってきたんです」
江藤さんは、当初、それまでの文系の〝常識〟に倣って、博士課程にて所定の単位を修めつつ数年を過ごし、「天の声」がかかるのを待っていたという。ところが、待てど暮らせど〝天からの声〟が彼に聞こえることはなかったのだった。年を経るごとに、如実に顕在化してきた余剰博士問題のあおりを食い始めていたのだ。
「その時、博士号を取得しなければ仕事にありつけないことを、はっきりと自覚しました」
だが、その〝博士号〟の取得が、文系では非常に困難。平成一〇(一九九八)年時点での人文系における授与率二三%(中教審大学院部会第八回資料、ちなみに工学は九一%)。だからこそ、問題が生じる。
博士号を取らなければ仕事がない。しかし、博士号は簡単には取れない。簡単には取れないため、院生生活を続けざるを得ない。すると、年をとる。年を経るごとに余剰博士が加算され続けるため、就職はますます不利になる。展望が見えず、博士論文を書く意欲が減退する。さりとて、論文を提出しないことにはどこにも行き場がない。このような形で、出口の見えないトンネルのなかに身を置かざるを得ない、失意に暮れる〝博士候補〟たちが激増した。さらに、彼らを直撃する悲劇はこれだけで終わらなかった。
平成一八(二〇〇六)年以降、突如として、それまで博士号授与に消極的だった全国の文系大学院が、積極的に〝博士学位〟を授与する方向へと態度を軟化させ始めた。前年の中教審による答申で、学位授与の円滑化と改善が促されたからだ。
従来、博士号の授与には〝特筆すべき顕著な業績〟をあげることが義務づけられていたが、その基準は曖昧だった。そのため、どれほど必死に論文を書いても、「まだまだ未熟」と突き返される光景が、文系の世界では当たり前に見られた。
これからはそれを改め、基準を明確にし、一定の要件を満たすことによって、円滑な学位授与を行うという方針への転換が行われることになった。すなわち、学位の位置づけがこの年から変わったのだ。
「博士の学位授与の要件として学位論文に特筆すべき顕著な研究業績を求めるのではなく、学位の質を確保しつつ、学位論文の作成は、自立して研究活動等を行うに足る研究能力とその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする博士課程の集大成としてとらえるようにすること」(中教審大学院部会第三一回資料)。
江藤さんは、これについてこう語る。
「力が抜けました。一体、何のためにここまで必死にやってきたのか。そう思うと、やりきれませんね。この一〇年はなんだったのかと思います」
江藤さんたちの同期生やその前後の時代の院生たちは、学位取得に時間を費やした結果、年をとり、三十代になっても定職に就けずにいる人が少なくない。すでに、三十代半ばを超えた人もいる。それは、もはや博士号を取得したとしても、大学教員への入口であるポスドクにもなれないということを意味している。
制度改変の狭間に揉まれ漂ってきた彼らは、今後もまた、若いのに、あるいはいい年して、フリーターやニートをしているなどと、周囲からのそしりに揉まれながら、社会の底辺を漂い続けなければならない。
江藤さんにとって、「博士号」とは一体どんな意味を持っていたのだろうか。
「無駄に振り回されたように思います。もしかするとこれから一生フリーターかと思うと、死にたいような気持ちになりますね」
現在、日本で博士号を取得することは、これほどまでに報われないこととなっている。江藤さんは、結局博士号を取らないまま、今に至っている。
終身雇用に絶望する
呉さんは、塾講師のバイトをいくつか掛け持ちしながら生活をしている、三三歳、独身(結婚願望あり)、年収二四〇万円の長身の男性である。博士号は取得済みだ。
博士号を有する優秀な彼が、なぜ、バイトを続けているのだろうか。塾の正社員に登用されてもおかしくはないのに不思議である。
「ええ、実際、何度も正社員に誘われています。でも、踏ん切りがつかないんです」
呉さんの名刺の肩書きは、「○○大学研究員」となっている。塾講師とは、どこにも書いてない。
「給料はまったくもらっていませんが、名前だけ研究員と名乗らせてもらってるんです」
大学院修了後も教員のポストが見つからなかった呉さんは、余剰博士問題を抱えていた大学側の苦肉の策によって作られた、名前だけのポストに就いているという。
「ポストが空くのを待っているんです。博士号を取ったからには、やはり研究者になりたいですから」
博士号取得者の多くは、彼と同じような考えを持ってはいるが、現在の日本でその望みが叶えられる可能性は針の穴を通るよりも難しい。いつ空くかわからないポストを、彼はいつまで待つつもりなのだろうか。
「正直にいえば、半分あきらめてます。ここ数年で、教員のポストは完全に埋まってしまった感がありますからね。この世界はリストラもないですしね」
大学教員の世界は、一度専任で登用されれば、後は怖いものなしで過ごせる、極めて安定的な職種である。所属する大学法人が解散する、あるいは病気になる、または自らクビになるようなこと(セクハラなど)さえしなければ、定年まで安心した生活が保障されている。おそらく、日本でも最も完全な終身雇用が守られている職種の一つだろう。
だからこそ、呉さんは諦めの境地に立っているのだ。なぜなら、これほど安定しているということは、一度ポストが埋まれば、その後の十数年は空きが出る可能性がなくなることを意味するからだ。
終身雇用は、拡大路線のなかでこそ維持されるシステムである(城繁幸、前掲書)。だが、大学市場はこれから縮小していくばかりである。リストラが存在し得ない大学という世界で、成長後退期において選択される人件費抑制は、教員の自然減にまかせるほかはない。定年を迎えた教員の後を補充することなく、ポストを削減していく私立大学もちらほら現れている。
団塊の世代が定年を迎える二〇〇七年から、多少採用が増えるのではないかと思われるむきもあるかもしれない。だが、大学教員の定年は、平均六五歳。遅いところでは七〇歳だ。大量退職者の恩恵に与るには、一般社会よりも五年から一〇年余計に待つ必要がある。
しかも、その頃の一八歳人口の予測は、一一九万人(平成二四〈二〇一二〉年、平成一四〈二〇〇二〉年度学校基本調査)。平成四(一九九二)年のピーク時二〇五万人と比べて、八六万人減だ。当然、新規採用も抑制されているはずだ。
ただでさえ、毎年の採用があるというわけではない、大学の新規採用枠である。ポストの募集がかかるのは、退職者が出たときか、他大学やセクションに異動者が出たとき、大学が規模を拡大したときくらいに限られる。
今後の大学運営の全体的なあり方として、拡大路線を敷くところは皆無に近いはずだ。とすれば、基本的には大量退職者が出る平成二四年以降の数年が、最後の採用拡大のチャンスとなるだろう(あくまでも現在と比べてという範囲で)。
だがすでに、現時点で博士号を取得済みの無職者(教員へのエントリー待ち者)は、一万二〇〇〇人をオーバーしている。博士号を未取得の博士候補者は、その数倍の規模で存在している。さらに、毎年五〇〇〇人規模で、博士課程三年を経て博士候補となっている者や正真正銘の博士たちが、無職者となって追加されているのである。雇用がほんの少し拡大する機会が到来したとて、到底、この膨大な無職博士たちを吸収することはできまい。
まるで、九〇年代半ばから続いた若年労働市場における新規採用抑制の悪夢が、延々と繰り返されているようではないか。当時、仕事に就きたくとも就けなかった若者たちのなかで、大学院に流れてきたものも少なくなかったはずだ。
自らの意志とは裏腹にそうした境遇に身を置かざるをえなかった若者たちが、一〇年以上の年月を経て、再び同じ悪夢にさいなまれることになろうとは、一体なんの皮肉なのか。だが、これが平成三(一九九一)年を節目に始まる成長減退期に、何の因果かピークを迎えてしまった若年層を取り巻く現実となっている。この年代層は、完全に成長後退の割をくったと言える。
「苦労して博士号を取ったのは、なにも塾の先生をやるためじゃないという気持ちが、どこかに残ってるんですね。それなら別に、博士号を取らなくてもよかったわけですから」
わずかな望みを胸に秘め、呉さんは自らの夢をつなぐ道を模索し続ける。彼の夢が叶うことを願いたい。
運に左右される学位への道
同じ塾講師をしていても、博士号を取得していない人もいる。松田さんは三一歳の女性。大学院博士課程に五年間在籍した後、退学して塾の先生(非正規雇用)になった。彼女の言葉に耳を傾けてみたい。
「できれば学位を取って修了したかったんですけどね。だけど、いざ提出しようと思った時期に、自分の指導教官がご病気になられたんです」
博士課程というのは、博士論文を提出することによって〝修了〟となる。論文が提出できなければ、〝退学〟という形になる。博士号の取得にも、論文提出が必須である。松田さんは、博士論文の提出準備にまでこぎつけたところで、彼女の人生を揺るがす事態に直面することとなったのだ。
「まさか、そんな、と思いました」
当時のことを、彼女はそう振り返る。もちろん、先生のことを慕っていたので、体のことを本当に心配していたということが、最大の理由だったという。だが、一方で「私はこれからどうなるんだろう」という心配も徐々に湧き起こってきたのは当然だった。
「主査が替われば、学位が遠のく」
これは、この世界の常識だ。通常、博士論文の執筆は、その分野のことを最もよく理解している教授からの指導を受けながら進められる。博士論文には、非常に高い専門性が求められる。そのため、分野の最先端をリードする教授による指導を受けることが欠かせない。言い替えると、そうした最先端で活躍する教授でなければ、細分化された学問の領域の先端で書かれる博士論文への的確なアドヴァイスや批判を行うことが難しいということだ。
さて、主査が替わるということは、専門の異なる先生からの指導を受けなければならなくなったということを意味する。だが、いきなり領域の違う論文を指導することなぞ、いかに近接領域の教授でも無理がある。しかも、今回の場合、ただの論文でなく博士論文なのだ。この瞬間、博士論文を書くために、修士課程から数えて七年の歳月をかけてきた松田さんの努力は、無に帰したのだった。
「なにか、気力が萎えた状態になりました。先生のことを信頼してずっとついてきたわけですし、今からまた他の先生のご指導を受けることは、私の選択肢にはありませんでしたね」
一〇年近くの歳月をかけ、「博士号」を取得する寸前までたどり着きながら、彼女はその道を降りることとなった。
「いつか、〝論文博士〟がとれたらと思ってます」。そういって笑う彼女の横顔は、運命にもてあそばれた人に特有の寂しさを湛えているように見えた。
「博士」には、大学院博士課程を修了する〝課程博士〟と、一〇年以上もの歳月をかけて書いた論文を提出する〝論文博士〟がある。博士課程に在籍することなく(あるいは、単位取得退学後三年超経過の後)、一定基準以上の質と歳月(平均一〇年超)をかけた論文の提出をもって授与される〝博士号〟が、一般に〝論文博士〟と呼ばれるものだ。近くは、『人は見た目が9割』(新潮新書)の著者、竹内一郎氏がこれに該当する。しかし、この制度は、遠くない将来になくなる可能性が高い。
パチプロ博士
朝一〇時から夜の一一時までの約一三時間労働にいそしむのは、パチプロの白石さんだ。〝職場〟の人は知らないが、白石さんは博士号を持っている。
「この仕事に、博士号など関係ないですからね。むしろ、知られることのほうが、大学教員になれなかった負け犬と思われそうでイヤですよ」
勝つか負けるか。肩書きなど関係ない世界。そこが、この業界に身を置く理由だと白石さんは語る。この世界では、すべての責任は、純粋に自分だけにかかっているという。そこが心地よいのだと彼は相好をくずす。
自由を謳歌しているような白石さんであるが、何も最初からパチプロになろうと思っていたわけでは、もちろんない。
「本音をいえば、研究職に就きたかったですね。今となっては未練もないですが」
白石さんが博士号を取得したのは、今から四年ほど前、三五歳の時だったという。大学に入学するのが人より遅かったという。高校を卒業した白石さんは、色んな悩みから、それからの六年近くをフリーターで過ごしていた。
「二四歳の時、もう一度やり直したいと思ったんですね」
翌年、白石さんは大学に入学することになった。人より遅れた分、大学では必死に勉学に励んだという。
「自分の年では、たとえ大学を出たとしても、社会に普通の仕事を求めることは難しいとわかっていましたから。せめて必死にやることだけは、誰にも負けないようにと心がけました」
そうした日々を送るなかで、白石さんは次第に研究の面白さに目覚めていくことになる。研究には、あまり年齢も関係しないのではとの思惑も多少はあったという。当時、大学院進学について指導教官に相談すると、二つ返事で背中を押してもらったそうだ。これが大学院重点化による運営サイドの都合によるものだったとは、この頃の白石さんには、知るよしもなかっただろう。
「周囲を見回すと、博士号取得のために三十代になっても大学院生をしている人が多く、人より遅れた自分でも頑張れば追いつけるかもしれないと思い、最終的に大学院進学の決断をしました」
実際に大学院に来てみると、三十代で初めて就職する人間も少なくなく、自分も「人生の再チャレンジができるかも」との思いを強くしていった。
講義もないのに学費を払い続ける日々
だが、白石さんが博士一年に上がる頃、自らの所属する研究室や近くの研究室の就職状況におかしな気配が漂い始めることになる。博士三年を終えてすぐに就職するということはないにしても、その後の数年で専任教員に登用されることが暗黙的に当たり前というそれまでの空気に、黒い霧が立ちこめるようになってきたのだった。
「目に見えて、就職浪人が増えてきました。かつては、気がつくと先輩の就職が決まって姿が消えるという感じでしたが、いつまでも研究室から姿がなくならないという感じになりました」
何か幽霊を見ているようでイヤだったと、白石さんは当時を回顧する。たとえ博士号を取得しても就職が見つからず、お金を払い続けてまで大学に残る先輩たちの後ろ姿をみていると、自分もあと数年後にはこうなるのかとおののいていたという。
「おかしな話ですよ。大学院を無事に修了して博士号まで取得したにもかかわらず、仕事が見つからなければ、研究生としてお金を支払って大学に残るしかないなんて」
大学教員を目指しポストが空くのを待つ間、なんらの講義を受けることもないにもかかわらずお金を払い続けるというのが、就職浪人中の博士卒の一般的な境遇なのだ。業績をあげ続けるには、大学に所属していることがどうしても必要となるため──学会発表などには所属が必要とされる──、彼らは泣く泣くお金を払い続ける。白石さんも、二年ほどこうした生活を続けた。
「ある日、ばかばかしいと思ったんです。本来は、人にモノを教えられる立場のライセンス(博士号)を手にしているのに、就職不況のなかに身を置くはめになったばかりに研究生という立場を、お金を払ってまで続けないといけないということに疲れてしまったんですね。払うお金を捻出できなくなったということもあります」
大学に籍を置き続けるために、肉体労働などの日銭を稼げるものから家庭教師まで、さまざまなアルバイトをしていた。だが、学費を払ったあとには、生活のためのお金はほとんど残らない。
こんな生活をいつまで続けなければならないのかと思った時、この世界から足を洗う決心がついたのだと言う。
「大学院に入院した時は、ダメな自分だったけどこれで再チャレンジできると本気で思いました。その時は、本当に嬉しかった。でも、この就職不況下のなかでは、どんな努力もまったく通用しないのです」
追い打ちをかけるように、年齢制限が設けられたことも痛かった。
「それまで、研究職に就くのに年齢は関係ないと思ってました。実際、そんなことが可能だったのが、アカデミズムの世界だったと思います。しかし、ポスドクの上限が三五歳という通達が文科省によって出されたときに、おわった、と思いました」
この時から、大学教員をめぐる市場では、再チャレンジがほぼシャットアウトされてしまったのだ。
念のために記しておくが、ポスドクの年齢の上限は原則三五歳だが、これはあくまで〝原則〟なので例外もわずかながらあり得る。またこれは、常勤のポストを手に入れる可能性がまったくゼロになったということを示すものではない。非常勤講師などを続けながら、細々と論文を提出し続ける人が、ある時どこかの大学の目にとまり、ヒキがかかったという話も聞かないわけではない。ただし、可能性は限りなくゼロに近い。
努力が報われる健全な社会はどこに
人生の再チャレンジに一縷の夢を託し、アルバイト生活を続けながら博士号を取得した白石さんの夢は、結局自らの力の及ばないところでアッサリと潰えてしまった。行くあてのなくなった白石さんが、気分を変えようと入った店がパチンコ店だったという。その店で、偶然にも中学時代の友人に会ったことがパチプロへ転身するきっかけとなる。
「意気消沈してパチンコ屋に入ると、知った顔の友人がいたんですね。聞くと、彼も行くあてがなくてきているんだというのです。バブル入社組の彼は、会社の景気が悪くなると同時に、真っ先にリストラされたという話でした」
その友人も、再就職先を必死で探したのだという。だが、どんなに探しても、三十代で会社をリストラされた人間が、再チャレンジできる場はもはや見つからなかったそうだ。家族を養うために、収入がほしかった。そのために、パチプロになったと聞かされた白石さんは、自らの今の境遇と重なるものを感じた。
以来、友人との二人旅が続いている。月収は約三〇万円。
「保険もないし、この先どうなるかいつも心配ですが、食べるためには仕方ありません」
博士号を取るのに一〇年以上の投資をして、その結果パチプロをすることになった白石さんの、現在の偽らざる心境を聞いてみたい。
「努力が報われる健全な社会はどこに消えたのかなと、時々思うことがありますね」
白石さんの望む世界も、まだ探せばあるかもしれない。だが、少なくとも、〝博士〟に関しては、一〇年以上の歳月とお金、そして税金が投入された割に、その労力とコストにまったく見合わない形での展望しか描けなくなっていることだけは確かなようだ。
レフリー制度の矛盾
兼平さんは、同じ研究室にいた先輩の清水さんについてこう語る。
「清水さんは、非常に優秀な人でした。もちろん、博士号も取得していました」
その清水さんの現在であるが、実は彼女のことを知っている人は、今、誰もいないという。研究室へも連絡がなく、指導教官すらも消息を把握していないという。
「最後に見たのは、ある街のコンビニで店員をしている姿でした。彼女が一時消息不明になった時、コンビニに勤めているらしいという情報から、私が代表して様子を窺いにいったんです。その時、話したのが最後になりました」
兼平さんは、現在、博士課程の六回生。先輩の清水さんとは、学部時代を含め一〇年来の付き合いになる。清水さんについては、学問的な業績だけでなくその性格もよく知っているという。
「清水さんは、通常、博士課程の満期六年間では取得が難しいといわれている〝文学博士〟を四年半で取得したほどの才女でした。後輩の面倒見もよく、穏やかな性格でした。ところが、博士号取得後に、なかなか就職が見つからず、そのことについて悩んでいたようです」
就職が見つからない〝博士〟は、たとえ〝○○博士〟といわれる人であっても、年額四〇万(初年度入学料を含む。これは国立の場合で、私立はさらに高い)ほどのお金を払って大学に所属する必要がある。先述のように、研究者としての業績を重ねるためには、学会等における発表を継続していく必要があるが、所属がなければこれは困難になる。そのため、お金を払ってでも所属先を確保することが必要となる。研究生として残るという理不尽な選択は、こうした理由によって不可避なものとなっている。
「清水さんは、せっかく人よりも早く学位を取得したのに、結局は学生として残らざるを得ないはめになったんです。そうやって大学に所属するかたわら論文を生産していた清水さんに、ある時、屈辱的な出来事が起こりました」
それは、ある学会誌に投稿した論文にまつわる出来事だった。清水さんのレフリーペーパーが、リジェクト(却下)されたのだ。
レフリーペーパーというのは、通常、投稿論文と呼ばれるものだ。自分の所属する学会の専門誌に論文を投稿して、複数の査読者からの講評を頂く。その結果、学会誌に載せるだけの価値があると認められれば、晴れて(投稿論文として)〝合格〟と相成る。一方、価値がないと判断されると〝リジェクト〟という憂き目にあう。
博士論文の提出にあたっては、通常このレフリーペーパーを数本持っていることがタスクとなる。そのため、大学院生にとって、これにパスできるかどうかは大変なプレッシャーとなっている。
清水さんは、博士号取得者なので、当然レフリーを数本持っている。つまり、こうした人たちは、レフリーペーパーを書くための知識や技術、経験といったことはすでに十分に積んできているのだ。
だが、運悪くというか、リジェクトされる場合もまれにある。その時の様子を兼平さんはこう続けた。
「ショックというよりも、腹を立てているようでした」
その理由は、現在のレフリー制度の矛盾にあったらしい。
投稿論文の査読(水準を審査するために読むこと)を担当する人間は、通常大学にきちんと所属している専任教員である。だが、現在専任としてすでに何年も勤めている教員は、「博士号を持たないことが当然」という雰囲気のなかで就職した人たちだから、当然博士号を持たないことも珍しくない。博士号がないということは、自身が投稿論文を書いた経験がないという可能性さえある。
もし、査読担当者のなかにこれに該当する人がいたら、それは、次のことを意味する。
「査読をされた経験がない人によって、査読が行われる」
現在、専任教員を目指そうとするものは、〝博士号〟を取得していることが原則義務づけられているかのような風潮となっている。だが、学位取得の道のりはそう簡単ではない。また苦労をして、その〝博士号〟を取得してすら、就職がないのが現状だ。
「私たちは、博士号を取っても職がないのに、博士号を持たないで悠々と専任教員になった人に、なぜ私の論文が評価されないといけないのでしょう」
兼平さんが、その時、清水先輩から投げかけられた言葉である。
専任教員の〝博士〟学位取得率は、現在もそう高くはない。むしろ、博士号を持たない教員が多勢を占める大学──これに該当する私立大学は多い──も少なくない。東大文学部の教授・准教授でも、博士号を有する教員のほうが少ないことが、つい最近の週刊誌上で暴露されたばかりだ(「週刊新潮」平成一九〈二〇〇七〉年八月三〇日号。小谷野敦氏のブログによると、東大文学部には「博士が少ない」。その数、全一一三人中五一人)。
一方、大学院重点化のあおりを食って就職浪人をしている〝博士〟は、すでに一万二〇〇〇人。にもかかわらず、この「正真正銘の〝博士〟たち」は、専任どころか非常勤にすらなれない状況が続いている。
「清水さんの顔に疲れたような表情が浮かんでいるのを度々見かけるようになったのは、あれからでした」
現在も、清水さんの行方は不明のままだ。
博士が日本の研究環境の土壌を肥やす
ここまで、大学院博士課程の在籍者や修了者のなかから、就職浪人(非正規雇用を含む)の身分に甘んじている数名の声を拾い上げてきた。その数、五名。だが、現実には毎年この一〇〇〇倍の博士卒の無職者が生み出されている。
失業率五〇%。これが、この世界の現実だ。博士号を取得するまで、学部から数えて平均十年余。その学費も馬鹿にならない。私立では、一〇〇〇万円を超えるはずだ。
そして、博士生産には多額の税金が投入されていることも忘れてはならない。コンサルタント会社社長の橋本昌隆氏は「ポスドク1人を育てるのに1億円もの税金を使っている」という(東大で博士課程まで修了した場合。学生一人当たりの学生運営交付金〈国から来る大学の経費〉三三〇万円×九年間。読売新聞平成一九〈二〇〇七〉年二月二五日付朝刊)。
そこまでの時間と労力をかけて「博士を生産」する理由は、「欧米に伍する研究者数の確保と研究レヴェルの実現」という大義によるものだったはずだ。だが、現実はどうか。増えたのは研究者数ではなく、「高学歴ワーキングプア」だけではないか。
これでは、税金の無駄遣いであるばかりか、膨大な人的資源の浪費を政府主導で行っているようなものではないか。日本という社会全体が成長減退に転じているときに、いつまでこうした無駄が続けられるのだろうか。
日本全体の基礎体力を上げていくためには、研究者を殺すことではなく生かすことこそが大事だろう。人的資源の再活用と再チャレンジへの活路を開くためには、今こそ政府が政策課題として、一万人超の〝博士〟資源活用に向けた、緊急の環境整備推進や予算化などを進める英断が求められている。
団塊の世代が大量退職する小中高校など、現在、人不足に悩まされているところも少なくない。博士号を教員免許と認定し、そうした教育現場に配置などできないものか。あるいは、教育の荒廃問題に悩む現場に、科目教育担当としてではなく、〝学び〟への知的好奇心を喚起させるような専門教育者として配置することは不可能なのか。こうした提案は、博士増産の目的が、大学を中心とした日本の研究環境の底上げと研究者のレヴェルアップにあったこととも関係している。
現在まで、大学院だけを対象とした政策が講じられてきたが、これだけでは行き詰まりが起こるだろう。例えば、音楽の領域に注目してみると、おぼろげながらその理由が見えてくる。
音楽科のある大学や大学院に通っても、音楽家になれるわけではない。彼ら彼女らは、幼い頃から厳しい練習を継続してきたからこそ、プロになる道が開けている。大学や大学院に進学する頃には、すでに音楽家となる基本的素養を身につけているはずである。彼らは、結果的に大学や大学院に通ったにすぎない。たとえ領域は違っても、似たようなことは考えられないだろうか。
つまり、大学院生をただ量的に増産したとしても、唱えられてきた〝大義〟には到底近づけないかもしれないのだ。博士論文の審査の場における〝ねじれ〟の問題もある。前出の小谷野敦氏は、「今の若い人は博士号の取得を半ば義務づけられているようなものだが、審査する側がその博士号を持っていない」と非難する(前掲記事)。
実際、日本の研究環境が急速に向上しているなどと、噂にでものぼったことはあるだろうか。私には記憶がない。ある分野の全体的底上げは、そう簡単に達成できるものではないだろう。もし、本当にそれを実現したいのであれば、それはもっと長いスパンのなかで考えられるべきことだろう。その土壌づくりにこそ、現在の余剰博士の力を借りてはどうだろうか。実は、そのために増産されたのだということであれば、何とも格好のいい話にもなるではないか。
(第4章に続きます)
5月20日発売の新刊、予約中です。