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2:パンクの再臨は「ハードコア」から始まった——『教養としてのパンク・ロック』第28回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第4章:パンクが死んでも、パンクスは死なない

2:パンクの再臨は「ハードコア」から始まった

  ハードコア・パンク(のちには「ハードコア」と略して呼ばれることが主流となる)によって、パンク・ロックは死の淵から蘇る。瀕死だったパンクの「復活」は、ハードコア領域から始まっていった。

 オックスフォード英語辞典によると、Hardcoreとは「(1)集団や運動体のなかで、最も活発、献身的、または厳格な構成員」「(2)とても露骨、あるいは過激な種類のポルノグラフィー」という意味とされている。このどちらも、パンクのハードコアとニュアンス的に近い。ハードコア・パンクとは、「できるかぎりの純粋性へと極端に接近していくパンク・ロック」だと言えるからだ。

 たとえば、ごく標準的な労働運動や学生運動、社会奉仕活動などが先鋭化していったあげく、官憲から「極左」と呼ばれる状態にまで変転していくことが、ままある。パンク・ロックの「ハードコア化」も、これとよく似ている。つまり極左ならぬ「極パンク」と化していったのが、ハードコア勢だった。

 では具体的には、どんなものなのか? そもそもがスタイルや精神性についての原理主義的体質が強いのが、パンク・ロックというものの特徴だ。そんななかでも、最も「極端なる」パンクがハードコアということになる。だからハードコアとは、硬く、激しく、重く、打たれ強く、打つことはもっとストロングに、ビートは速く、あらゆる楽器もヴォーカルもラウドに、そして音の表皮部分のすべてはひずみきってざらついて、電車道を超高速でまっすぐ突進しては一切の停滞も躊躇もなく、そして情け容赦なく「すべてをなぎ倒し、叩き壊していく」かのような――そんな音楽だった。加えて、音だけでなく精神性においてもまた「極点」をこそ目指すものだった。

 こうしたハードコアの全容を概説するにあたり、まずは「精神面のハードコア」から見てみよう。「アナーコ・パンク」から、話を始めたい。アナーコの元祖中の元祖、草分けにして頂点のバンド――といえば、泣く子も黙る「クラス(Crass)」しかいない。

アナーコ・パンク

 アナーコ(Anarcho)とは「無政府主義的(Anarchistic)」を意味する接頭辞だ。77年に結成されたクラスは、バンドであると同時に「行動する」アナキストの集団でもあった。さらには「生活する集団」でもあった。大きな家に群居して農耕的自給自足生活を送っては、芸術と哲学、文学に耽溺、そして資本主義の否定、フェミニズム、動物の権利保護、環境保護を研究し、旧態然とした社会に向かって声高に異を唱えていた。主張の方法は「アナキズム」原則にのっとったもので、音楽作品のなかでの表現はもとより、各種の「直接行動」すらあった。ジョニー・ロットンが歌のなかでやった「言葉遊び半分」のやつではなく、「本物のアナキズム」を彼らは実践しようとしていたから。

 直接行動のほうでは、グラフィティ、ポスター貼り(あるいは、他者の既存のポスターを「改変」)から、各種デモの企画推進をもおこなった。ロンドンの金融街「シティ」を麻痺させる作戦『ストップ・ザ・シティ』デモにも参加した(そして実際に、シティを止めた)。さらには、フォークランド紛争時に英政府がひた隠しにしていた駆逐艦シェフィールド号撃沈の真相を暴露する目的で、サッチャーとレーガンの会話のニセ音声テープを作って広めた(『サッチャーゲート・テープ』事件として有名。これが英米当局から「KGBの陰謀」と見なされて騒ぎに)――などなど、その過激な活動履歴は枚挙にいとまがない。

 音楽的には、やけに言葉数が多く「具体的な主張」が満載された歌詞が特徴のシンプルなパンク・ロックを基本に、不協和音や無調、乱打されるドラムにテープ・コラージュなどが、ときに加わる。だから一般的な「音楽的快楽」にはほとんど奉仕しないものの、次から次へとアジビラを顔面に投げつけられる、もしくは息つく暇もなくスローガンを耳に捩じ込まれる――といったような特殊な「体験」となるのがクラスのパンク・ロックだった。ドラムスと作詞をおこなうペニー・ランボー(そう、この名前ももちろん、アルチュール・ランボーにちなんだものだ)と、ヴォーカルのスティーヴ・イグノラントが、最初にクラスのコア・メンバーとなった。

クラス(Crass)のアナキズム

 1943年生まれのランボーは、77年時点で34歳。つまりヒッピー世代であり、57年生まれ(77年に20歳)のイグノラントとの世代差が、世にも稀な化学反応を生んだのか。上層中産階級出身のランボーと、労働者階級のイグノラントの体当たり精神とのカップリングの意外性が、功を奏したのか――ランボーが住む歴史的住宅と地所に、まるでコミューンのように男女が集まっては寝起きを共にし、役割分担しては「アナキスト活動」を繰り広げていくクラスは、徐々に社会的影響力を増していく。バンド・メンバーのなかにグラフィック・デザイナーまで含み、スリーヴ・デザインどころかポスターやジン、そのほかフライヤーまで全部自前でデザインして印刷。レコード・レーベルも主催して後進も育てていく彼らの姿は、未来のパンク・ロック界に絶対的に必要だった「DIYの精神および実行」の見事なる実証例であり、精髄でもあった。たとえば強烈なグラフィック・イメージを有するクラスのロゴ、十字架とハーケンクロイツとユニオン・ジャックとウロボロスの蛇の合一が図案化された単色のそれは、デザインの秀逸性ゆえに、バンドのファンやシンパ以外の層にも広く流通していった。クラスのロゴが胸元に大きくプリントされたTシャツを、(おそらくは由来も知らぬままに)デヴィッド・ベッカムが着用している写真は有名だ。

 ところでこのクラス(Crass)という言葉は、無知や鈍感、愚かだという意味を持つ形容詞だ。(またしても)熱烈なボウイ・ファンだったイグノラントが、ヒット曲「ジギー・スターダスト」の一節からとった(「The kids were just crass」の下りのところだ)。彼の芸名 Ignorant が無知や無学を意味するところと同根の、戦闘的自己卑下とでも言おうか。そんな彼は、そもそもはザ・クラッシュの大ファンでもあった。「自分自身の足で立ち上がる」パンク・ロックの精神をクラッシュから啓蒙され、そして、メジャー・レーベルから「よく出来たレコード」をリリースしていくクラッシュに、幻滅していった。そんなイグノラントがランボーと出会って、クラスが生まれた。

 クラスが78年に発表したナンバーに「パンク・イズ・デッド」という曲がある。「パンクは死んだ」と繰り返される。「消費者にとっては、そんなの、よくある安い製品でしかない」と切って捨て、「CBSはザ・クラッシュをプロモートする/革命のためじゃない、ただゲンナマのために」と述べられる。ピストルズのスティーヴ・ジョーンズおよびパティ・スミスも批判される……まさに「オリジナル・パンクの実績」を木っ端微塵に、跡形もなく「否定しまくる」ところから、クラスのアナキズムはスタートしていった。 

パンク・ロックの「復活」

 そしてこの瞬間に、まさに文字通り、パンク・ロックの「復活」が始まったのだ。

 なぜならば「これまでの」パンク・ロックが商業主義に毒されて「死んだ(=Punk ROCK is dead)」としても、別に構いやしない――とクラスが広言したことの意味とは「自らこそが『新にして真なる』パンク・ロッカーなのだ」と名乗りを上げたことにほかならないからだ。つまりクラスによって、パンクの定義が「上書き」されることになったわけだ。生活と思想に裏付けされた、この上なくアナーキーかつ新鮮で「極端な」パンク・ロックが、未来の標準形のひとつとなった瞬間が、ここだった。

 また一方で原初的なパンク・ロックの魂を宿す者ども、市井のパンクス――つまりパンク・ロッカーおよびパンク・ファンたち――は、クラスのほかにも、もちろんまだまだ世に多くいた。オリジナル・パンクの聴き手だった若者たちも、いっぱいいた。だからちょっとやそっとのことで、これらの全部が、死に絶えるわけはない。

 だから今度は「パンク・ファン=市井のパンクスは死なない(Punks Not Dead)」と、力強く宣言するナンバーが世にあらわれることになる。ジ・エクスプロイテッドの代表曲「パンクス・ノット・デッド」がそれだ。これは81年発表の同名アルバムに収録。音楽的な意味での「ハードコア・パンク」勃興を決定づける1曲だった。大きなトロージャン・ヘアを高々と掲げたワッティー・バカンが、この上なく派手に雄叫びを上げた。ディスチャージ、G.B.H.らと並び立って、UKハードコア・パンクは、ヒット・チャートではなく「ストリート」にて、規模は小さくとも威力たっぷりなつむじ風を、連続して巻き起こしていくことになる。

地方都市からの革命

 これら3者の共通項は「地方都市在住の労働者階級の若者だった」ということだ。ディスチャージはストーク=オン=トレントで77年に、G.B.H.はバーミンガムで78年に結成された。「オリジナル」パンクの猛威を目にしてバンドを始めた世代だ。そして、パンクの失速に「怒った」世代だった。ここにスコットランドはエディンバラで79年結成のエクスプロイテッドや、同年にブリストル近郊にて結成されたカオスUKらが続いていった。

 セックス・ピストルズらUKオリジナル・パンク組の特徴は、そのほとんどが「ロンドン在住者」だったという点にある。さらには音楽業界やマスコミ関係者がそもそも周囲に多くいた。マクラーレンとウエストウッドの店が、日本で言うなら原宿のような場所にあったことは書いた。そこに出入りしていたピストルズが、なんの実績もない段階で容易にメディアの注目を集め得たのは、早い話が、知人に「業界の人々」が多くいたせいだ。クラッシュも、バンドを取り巻く環境については五十歩百歩だった。つまりロンドンの「オリジナル」パンク・ロックの急速なる興隆とは、所詮はバンドの取り巻きである「業界人のお遊び」から始まって、結果的に「化けた」ものでしかなかった。ゆえにすぐに「次の流行」の話にもなって、パンクという音楽やスタイルそのものは、使い捨てされることにもなった。

 しかしそんなとき、聴き手の側はどうしたらいいのか? ロンドンの業界人から「もうパンクじゃないよね」と言われたならば、髪型を変え、新しい服を用立てて、音楽紙が先導する流行を、またぞろ追っかけなければならないのか? (ニューウェイヴなどの)新しいゲームに参加しないと、時代から置いていかれて、まずいのか?――ふざけんなよ! 

 と、こうしたメカニズムそのものに強い憤りを抱いた層が、地方都市にいた。これがハードコア・パンクの主力となった。ロンドンにおける「パンク退潮」が、まるで自分たちへの裏切り行為のように思えたから――だから、それこそかつて「クラッシュが言っていたように」――自分たちの足で立って、始めることにしたのだ。「できるかぎりの純粋性へと極端に接近していくパンク・ロック」を。地方在住の労働者階級の若者たち自身が、無条件で心を託せる「荒っぽくも強靭な」音楽を。

 そしてこの情熱が、いろんな場所へと飛び火していく。つまりここでパンクは一過性の「流行の産物」から、「ずっと続いていっても構わないもの」へと、その意味が劇的に変化する。

庶民による、庶民のためのポップ音楽

 ちょうどそれは、60年代のモッズ・ブームのときのように。かつてロンドンの「先端のモッズ」が進化して、サイケデリックからヒッピーへと変転していったとき、その流れには「ついていかない」層がいた。とくに地方の、やはり「ハードコア」な連中は、同じ精神およびライフスタイルの場所に留まって、つまりは「分化」していった。この層から第一次スキンヘッド族が生まれ、スキンヘッド・レゲエというサブジャンルの発生につながった。またそこから遠からぬ地点から、イギリス名物「ノーザン・ソウル」のシーンも生じたし、発展型としてレア・グルーヴというDJスタイルや選曲哲学も派生して、ひいてはUKクラブ文化の礎にもなった――つまり、ときに、いや「しばしば」最新流行についていけなくなった層のなかから、太く長く、市井の人々の日常生活に寄り添った「庶民による、庶民のためのポップ音楽」が発生してくる、ことがある。地方在住の「流行遅れ」の人々が、太く長く続いていく音楽シーンの最初の耕作者となる、ことがある。パンク・ロックは、ハードコア化することによって、このときかなり「永遠の命」に近いものを得た。手渡しで灯されていく、容易なことでは途絶えない、かがり火のような音楽となった。

【今週の5曲】

Crass- Punk Is Dead

これがクラスのバンド・ロゴだ! 黒地に白のこの旗掲げて「初期パンク・ロックの偽善」を叩き切った、まさに黒旗水滸伝の始まりを告げる78年作。

Exploited - Punks Not Dead - (Live at Carlisle City Hall, UK, 1983)

そして「パンクスは死なない!」と連呼し続ける一大決起ナンバーがこちら。エクスプロイテッドのこの勇姿、このギター、そしてなによりも「このスピード」が今日にまで続くハードコア・スタイルの基礎となった。トロージャン・ヘアも輝いている。

GBH- Sick boy

こちらも原型。スパルタンなドラムとノイジーなギターが「息継ぎなし」でとにかく走り抜けるハードコア名曲。高さのある全方位スパイキー・ヘア、そして背中で語る革ジャンのペインティングにも注目。

Discharge - Never Again / Hear Nothing See Nothing Say Nothing / The Nightmare Continues

さらに大変なことになっているディスチャージの83年ライヴをメドレーで。出身地のストーク=オン=トレントでの凱旋的な一発だけに、会場もすごい。アメリカン・パンクスを蜂起させるに至ったパワー感も充満。

Chaos UK - No Security - (UK/DK, 1983)

そして未来のオルタナティヴ/グランジ勢にも通じるかのような破滅感、崩壊感のもと「暴れ続ける」カオスUKの混沌艶姿。ハードコアは立ち止まらない。鬱屈もしない。いますぐ「ここ」で点火爆発するためのパンク・ロックだということの証明を、各人が競い合っていた。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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