前田雅之『古典と日本人』|馬場紀衣の読書の森 vol.2
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古典好きからしてみたら、古典を読むことに正当な理由や立派な動機なんて必要ないのだけれど、そうでない人にとっては「やむを得ず」「諦めて」「最低限の範囲」であり、そのうえ挑むべき敵でもあるらしい。学生生活を外国で過ごしたわたしには、古典が不俱戴天の敵であるという著者の指摘にはあまりピンとこなくて、それどころか『源氏物語』も『伊勢物語』も『徒然草』もひとつの世界の住人だと思って読み進めていたのだ。
驚いた。けれど、なんて贅沢な仇だろう。だって、世界には古典(あるいは古典語)をもつ国とそうでない国とがあるのだ。高度な文化文明をもちながら、文字をもたなかったために古典それ自体が存在しない地域もある。これを学校で、授業で学べるというのはなんて満ちたりた時間なのだろう。わたしにはそう思えるのだけれど、学生にとっては、悠長に古典を堪能してはいられない込みいった事情があるらしい。
本書は、授業科目としての古典ではなく、その意味を歴史的に掘り下げた一冊。たとえば、室町期の知の巨人・一条兼良は、『源氏物語』に登場する装束や有識について考証した『花鳥余情』という書を残している。応仁の乱の後、荒れた都をどうしたら元に戻せるだろうか。本書によれば、あるべき理想の王朝を『源氏物語』のなかに幻視していた兼良は、その思いからこの書を紐解いたという。ここに、古典を改めて問い直す意義がある。
古典には、時代時代の人たちが記した言説としての「生の歴史」がある。そして生の歴史は、わたしたちを遠回しに、かつ直接的に支え、教え、導く者でもある。この他者は、一見すると、冷たくて不愛想に思えるかもしれない。グローバル化の時代に古典への興味関心を広げたところで何になるのか、という声も聞こえてきそうだ。
しかし、著者が指摘するように、日本という国に生まれた、日本という場所で育ったということは古典・古典語という伝統文化を持って生きることを意味する。
生の歴史としての古典は、迫りつつある未来に対して強力なサポーターとなり、師として、ときには友人のように、激動の現代を生きるわたしたちの支えとなってくれるはずだ。そのことに気付いた瞬間から、古典は活き活きと輝きはじめる。