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「共感」は国際商取引における基軸通貨のようなもの――エンタメ小説家の失敗学40【最終回】 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第7章 “共感”というクセモノを侮ってはならない Ⅴ

一人称視点の作品

 なお、「共感」ついでに、もうひとつ別の作品についても軽く触れておきたいと思う。二〇一三年三月に小学館から刊行された『ルドヴィカがいる』である。刊行順としては、前回の『僕の心の埋まらない空洞』の次に出た本だが、こちらは文芸誌『きらら』での連載を経て単行本化されたものだ。

 これは、「一度、小説家である主人公が一人称で語る平山さんの小説を読んでみたい」という担当編集者(小学館だが、第4章で言及したMさんは、この頃、別の部署に一時的に異動になっていたため、彼女とは別の人物)からのリクエストに応じて構想した物語だった。主人公が作家、しかも一人称というのは、書き手である僕自身との距離の取り方が困難になるため、それまでは意識的に避けていたようなところがあるのだが、一度くらいやってみてもおもしろいのではないかと思って応諾した次第だ。

「性格的に感情移入しづらい主人公」

 語り手・伊豆浜亮平は、四二歳の売れない小説家という設定である。執筆時の僕自身と同世代であり、「売れない」という点も僕自身と同じだったが、まったく同じでは気恥ずかしくなってしまうので、あえていくつか、異なる設定も設けた。既婚者である僕と違って伊豆浜は未婚であり、当時、(売れないことに辟易しながらもなお)各社で精力的に執筆を進めていた僕とは違って、伊豆浜は自分の作品がいっこうに世間に受け入れられないことに嫌気がさして、すっかりやる気をなくしてしまっている。

 小説家としての収入だけでは暮らしが立ちゆかないので、作家としての自分のところにインタビューの仕事で訪れた女性週刊誌の編集者に頼み込んで、本名・濱田和泉名義でライター業を兼任しながら、生計の足しにしている。僕自身も今のままでは、いずれそういう立場になってしまうのではないか、という自虐的な未来予想図のようなつもりで、そんな設定にした記憶がある。

 このあたりは、今振り返ると実に皮肉だ。当時の僕は、この作品そのものがそうであるように、まだ文芸誌に連載を持てる程度の地位はかろうじて維持していたのだが、現在はというと、まさに週刊誌でのライター仕事などでどうにかやりくりしている状態であり、ひょっとしたら伊豆浜をもしのぐ苦境にあえいでいるかもしれないくらいだからだ。現実が予想に追いつき、少しばかり追い越してしまいさえしたというわけだ。

 ともあれ、そんな伊豆浜のもとに、ある日、くだんの女性週刊誌から、インタビュー記事執筆の依頼が来る。もちろん、伊豆浜自身がインタビュアーとして他人を取材するのである。相手は、「鍵盤王子」の異名を取って大ブレイク中の世界的な若きイケメン天才ピアニスト、荻須晶。拠点としているフランスからの一時帰国中にインタビューに応じたこの男に、なぜか一方的に気に入られてしまった伊豆浜は、後日、北軽井沢にある彼の別荘に招かれる。

 その別荘で晶の姉に引き合わされた伊豆浜は、謎が謎を呼ぶ迷宮のような世界にどっぷりとはまり込んでいくことになるのだが、この際、ストーリーはどうでもいい。この作品もまた、セールスとして悲惨だったことは言うまでもないこととして、ネット上のレビューを見ていると、その原因の一端は、どうやら語り手・伊豆浜の性格設定そのものにもあったらしいということがわかってくる。彼らにとって伊豆浜は、「性格的に感情移入しづらい主人公」なのである。

自分自身の引き写し

 伊豆浜は毒舌な皮肉屋であり、なにごとも斜に構えて見ている。また、「小説の文章とはこうあるべき」といった信念や、それにまつわる厳しい意見の持ち主でもあり、それについて一人称で語っているあたりは、口うるさいとも取れる。実は、伊豆浜のそうした性格設定は、僕自身のそれをほぼそっくりそのまま引き写したものであり、僕は作中人物にかこつけて、自分が日ごろから腹に溜め込んでいる不満などをここぞとばかりにぶちまけているのだ。

 たとえば、論理性にこだわり、接続詞や時制の一致などをないがしろにしない自分の文体について、「もっとスピード感をもって読ませるシンプルな文体にしたほうがいい」と編集者から指摘を受けた伊豆浜は、こう語る。

 そうした文体がある種の臨場感を醸し、読者にどんどん先を読ませようとする効果を持っているということ自体は了解できる。しかし言わせてもらえるなら、こういうのは、深みも何もない「安い」文体だ。読者を煽情することにのみ依存しているという点で、下品ですらあると思う。堂島櫂などは、こういう文体の小説をまき散らして平気な顔でいる。というより、むしろ得意げにさえ見える。こういうのがスタイリッシュだとでも思っているのだろう。その不自然でナルシスティックなペンネームからしても、センスのほどが推して知れるというものだ。

 「堂島櫂」というのは、作品が飛ぶように売れているミステリー作家で、伊豆浜はなにかと目の敵にしているのだが、インタビュー中に、何も知らない荻須晶がこの作家を褒めそやすのを聞いて、伊豆浜は内心、「この男とは絶対に仲よくなれない」と呟き、「その美しい顔にボールペンを投げつけたい衝動をかろうじて抑え」たりしている(堂島櫂にモデルが実在するかどうかは、ここではあえて言わないでおこう)。

 第1章で、エンタメ文芸が常にジャンルの拘束を受けることの不自由さについて語った中でも、僕はこの伊豆浜のことを引き合いに出しているが、伊豆浜が語る小説論は、ほぼ寸分の違いもなく僕自身のそれである。

「共感」は国際商取引における基軸通貨

 まあ、伊豆浜がキャラクターとして不評なのは、なにもそういった面で現れる口の悪さやあまのじゃくさばかりが原因というわけでもないのだろうが、いずれにせよ、主人公の一人称が「感情移入しづらい」すなわち「共感できない」とみなされることは、かなり致命的だ。そして、そんなふうに嫌われる性格が自分自身のものだという点に、僕は深刻なものを感じざるをえない。

 それまでにも僕は、本書で取り上げてきたようなさまざまな問題を通じて、自分自身と一般読者との間にある距離やズレにたびたび直面させられてきたが、その距離は、想像をはるかに超えるほど隔たっていたのかもしれない。彼らと僕の間で共有できるものなど、驚くほどわずかしかないのかもしれない。それでいてどうして、多くの読者の支持が得られる小説を書くことなどができるだろうか。僕はそもそも、職業選択を根本的に誤ってすらいたのではないか。ときどき、自らに真顔でそう問いかけずにはいられなくなるのである。

 ともあれ、小説を書き、発表していく上で、「共感」というものは侮れない。それは、国際商取引における基軸通貨のようなものなのだ。一般読者の共感を呼び起こすようなフックが作中に備えられてさえいれば、彼らはある程度まではその作品に好意的な印象を持ってくれるし、運がよければ「大いに共感できた」とほかの人に勧めることまでしてくれるかもしれない。

 それに比べれば、僕が作品作りにおいてこだわっているポイント(たとえば、『僕の心の埋まらない空洞』を通じて僕が読者に伝えようとしたこと)など、第二次世界大戦末期、敗色が鮮明になった大陸での日本軍が発行していた軍票ほどの価値も持たないのだろう。悲しいことだが、それが現実なのだ。(了)

※ご愛読ありがとうございました。本連載は光文社新書の一冊として、2023年1月18日に刊行予定です。ご期待ください。


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