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タイ人の信心深さは本当なのか(第17回)

【お知らせ】本連載をまとめた書籍が発売されました!

本連載『「微笑みの国」タイの光と影』をベースにした書籍『だからタイはおもしろい』が2023年11月15日に発売されました。全32回の連載から大幅な加筆修正を施し、12の章にまとめられています。ぜひチェックしてみてください!

タイ在住20年のライター、高田胤臣がディープなタイ事情を綴る長期連載『「微笑みの国」タイの光と影』。
今回のテーマは、タイの宗教。仏教国として知られるタイですが、日本とは異なり「上座部仏教」が中心です。また、ムスリムやキリスト教徒が集まる地域もあり、民族と同様に重層的な構造になっています。ただ、そもそもの精神性は日本と同じく「八百万の神」にあるようで……。日本とかなり似ていたり、まるで違ったりするタイの独特な宗教文化を深堀りします。

これまでの連載はこちらから読めます↓↓↓


タイ人は本当に信心深い仏教徒ばかりなのか

日本人がタイやタイ人に親近感を抱くたくさんの理由の中で、タイが仏教国である点は大きい。寺院の造りや僧侶の服装、さまざまな儀式はまったく違うものの、根底には日本人に通じるものがあるという印象を持つのだと思う。

タイでは国民の約94%が仏教徒だとされる。これには諸説あるものの、実際に生活や観光の中でタイ仏教に触れることは多々ある。たいていの観光地に寺院がある上に、そうした寺院でも宗教活動は行われていて、地元民も生活の一部として足を運ぶ。ほとんどのタイ人がなにかあれば参拝に訪れ、僧侶に人生の悩みを相談したり、商売の指針のヒントを求たりすることもごく当たり前に行われている。

タイの仏教は上座部仏教と呼ばれる、仏教の中では最古の宗派に当たる。その中にもいくつか宗派はあるが、実生活では日本の仏教の宗派のような区別はなく、タイ全土で同じような信仰になっている。日本の仏教は大乗仏教とも呼ばれ、その対になるものとしてタイの仏教は小乗仏教とかつては呼ばれていた。ボクが初めてタイに来た90年代後半はまだガイドブックなどにも堂々と小乗仏教と書かれていたが、今は大乗仏教側の蔑視的な表現ともされ、日本では上座部仏教と呼ぶようになっている。

ワットポーの涅槃像。上座部仏教の仏像はどれも金色に塗られている。

小乗仏教の名は小さな乗りものに乗っているというニュアンスから来ている。タイ仏教では、信者各人が個人の解脱を祈るからだ。日本人は村社会だとか、現代では学校や会社など団体・集団の活動目的を大事にするが、タイ人は個人個人の現世における幸福や死後の解脱、人間界に再び生まれることを熱心に願う。これはタイの国民性の現れでもあって、多民族の国ではこの方が性に合うのだろう。

とはいえ、タイだって誰も彼もが自分のことばかりではない。むしろ、日本人には見られないような他者への愛情や親切心も持ち合わせている。タイにはタンブンという言葉がある。これは徳を作る・するという意味で、すなわち功徳のことだ。寺院に通うこともタンブンであるし、なにかしらの善行を積んでいくこともタンブンになる。そのため、人助けが当たり前に行われる。お金があれば誰かに食事を奢ったり、災害時には被災地へ金銭や物品の寄付を行う。東日本大震災のときも多くのタイ人が日本に義援金を送ってくれたほどだ。

欧米では富裕層が貧困層などに自身の利益を還元することが当たり前になっているが、タイの場合はこれとはちょっと違う。タイでは貧富に関係なく、誰もが功徳のために寄付をするし、ときには仕事を休んでまで災害地などに行って救援活動を行ったりするのだ。結局は自分の利益のためとはいえ、やらないよりはマシ。日本企業も近年になって社会奉仕活動などを行うようになったが、タイでは大昔から個人・団体、富める者貧しい者の関係なく、息をするように当たり前に行われてきた。そのため、企業、公的機関などあらゆる団体にボランティアチームが存在する。前国王の葬儀の際にもボランティアが多数参加し、なんとボランティアを支援するボランティアまであった。

地方の寺院も変わってしまった

このようにタイでは仏教が生活や文化の根底をなすもので、それはタイ人の人のよさを形成する理由のひとつでもある。ただ、現実問題としてタイは殺人事件や交通事故が日本の何倍も起きている。人を騙すこともよくある。自らが不利益を被る場合には決して助けてはくれないし、建前と本音が違う部分も確かにある。

個人的にはここ数年でタイの仏教界の様子も随分と変わってきたと思う。というのも、地方の寺院などでは、ボクのような外国人も金銭的な喜捨を求められることが増えているのだ。以前はあくまでもこちらから喜捨を申し出ない限りは何も言われなかったが、最近は向こうから金を出せ出せと、オレンジ色の袈裟を着た僧侶が言ってくるほどである。しかも、たとえば紙幣の最小額である20バーツ(約75円)を出すと「ダメだ、100バーツ以上でないといけない」と突き返してくる。

寺院の中にはサックヤンと呼ばれる護符刺青を施してくれるところもあるのだが、それもかつては支払いはいくらでもかまわなかったので、タイ人と同じ50バーツ前後でもよかった。しかし今は、外国人は数千バーツ(日本円では1万円超)は出さないといけない。というか、図柄のアルバムにいちいち値段が振られている。もちろん寺院だって運営に費用がかかることはわかる。しかし、こう露骨に要請するのもどうなのか。日本でも金儲けに走ったような寺社は少なくないが、タイではそんな風な場面を見たくないというのがボクの本音だ。

とはいえ、個人主義で割り切ったところのあるタイ人なので、金にがめついからといって宗教に対して敬虔ではないというわけではない。早朝は大都市のバンコクでも僧侶と市民の間で托鉢する様子が当たり前に見られる。いずれにしても、タイ人と仏教は切っても切れない関係にある。

タイに仏教が伝わる前の宗教

全体的にいえば、必ずしもすべてのタイ人が敬虔な仏教徒ではない。仏教を信仰する者はほとんどが信仰心に厚い。ただ、タイの宗教はそれだけではない。タイにも信仰の自由があるので、南部であればイスラム教徒もいるし、北部や東北部にはクリスチャンも少なくない。

タイのイスラム教徒は大半が南部にいるとされる。アユタヤ周辺やバンコクの一部にもムスリムのコミュニティーがあるが、南部のムスリムとはちょっと違う。南部のイスラム教はマレーシアを経由して中東からダイレクトに伝来したとされ、南部のムスリムたちは断食などの儀式や食べるものも教典に忠実だ。一方で、バンコクなどにいるムスリムはインドや中国、カンボジアを経由してきた移民の子孫とされ、若い人の中には平気で飲酒をしたり、女性ならヒジャーブ(スカーフ)を頭にかけない人もいる。それを親世代は特に注意もしないようで、案外に緩い傾向にある。

バンコク都内のモスク内の売店には衣装や子ども向けのムスリム教科書があった。

キリスト教徒は、ボクの印象では貧困層に多い。北部の山岳地帯や東北部の農村などで日々の生活に苦労している地域を支援するため、欧米などのキリスト教系の団体がやってきて布教活動をした結果だ。ボクは移住する前に1年ほどバンコクのタイ語学校に通っていた。やはりそこも元々は布教活動をするクリスチャンのための語学学校で、実際に神父やシスターも多かった。そのため、タイ人の勢力バランスとしては仏教徒が一番多く、次にムスリム、そのほかにキリスト教や日本の創価だとかが占めている。

仏教は先述の通り、ほとんどが上座部仏教だ。一部に大乗仏教やほかの宗派もあるが、タイ人は基本的には上座部仏教を信仰している。とはいえ、タイに仏教が伝来したのは日本よりもはるかに遅い。日本は諸説あるが5~6世紀ごろとされる一方、タイはスコータイ王朝の時代なので、西暦1300年前後に伝わってきた。

東南アジアの仏教はどこもだいたい上座部仏教で、隣国のミャンマー、ラオス、カンボジアでも似たようなオレンジ色の袈裟を着た僧侶、きらびやかな寺院の装飾などが見られる。そして、どこも仏教が伝来する前から精霊信仰があった。日本も仏教以前から存在する神道にはアニミズム的な要素が多いので、やはり伝来以前は精霊信仰だった。それが大乗仏教と結びついて(習合)、独自の進化・発展をしてきたのだ。タイも同じで、元々あった精霊信仰が仏教と習合した。ただ、その習合具合がかなり強く、ミャンマーなどの上座部仏教ともまったく違うタイ独特の「タイ仏教」として今に続いている。

タイの僧侶はオレンジ色の袈裟を着ている。

タイ独自の「ピー信仰」

タイの精霊信仰は「ピー信仰」とも呼ばれる。ピーとは幽霊や心霊現象、神、精霊といった幅広い意味合いを持つタイ語で、神道同様に八百万の神様、森羅万象すべてに神や精霊が宿っているとされる。これが仏教と絶妙に絡み合って、タイの文化や生活習慣を作り出してきた。前項の最後に『タイ人と仏教は切っても切れない関係にある』としたが、正確には、タイ人と「タイ仏教」が切っても切れない関係なのだ。

例外も少なくないが、タイの古典怪談や現代怪談は基本的には仏教的なものではなく、精霊信仰からくるものばかり。観光でバンコクに来たことがある人は、チャオプラヤ河で船に乗ったこともあるかと思う。このとき、船首に布が巻かれていることを憶えていないだろうか。あれも精霊信仰のひとつだし、市街地の大木に色とりどりの布が巻かれていたりするのもまたそうである。飲食店などには奥に赤い祭壇があって、商売繁盛の神様を呼び込んでいるが、これも仏教よりは精霊信仰に由来するものだ。また、市街地でも祠が至るところにある。魔のカーブとされる事故多発地帯にも祠があって、タイ人が車やバイクでそこを通過するときにクラクションを3回鳴らして挨拶をする場面もよく見かける。

船首の布は精霊信仰のひとつとされる。

タイ人は子どもが生まれると、信仰する宗教に関係した名前をつけることが多い。仏教系の名前だと日本人には発音が難しく、カタカナにすると異様に長くなってしまう。そのため、タイ人は生まれたときにニックネームがつけられる。親族や学校、会社でそれぞれ違うあだ名になることもあるが、ベースは生まれたときに親がつけたあだ名が実生活で使用されている。生活上、簡単に呼べるようにということもあって、近年はビールだとか、好きな芸能人にあやかった英語的なニックネームもあったり、中にはショウグンやアラレといった日本的なあだ名もある。しかし、本来はムー(ブタ)、ヌー(ネズミ)といった動物の名前などが多かった。これも精霊信仰から来たもので、生まれたばかりの無防備な赤子を悪霊に連れ去られないよう、人間だとわからない名前をつけて呼んだことが始まりとされている。

タイの宗教文化が日本と大きく異なるのは、神仏分離が意図的に行われなかったため、生活の中に仏教と精霊信仰が一緒くたになって根づいていることだ。そこが日本の仏教との大きな違いであり、観光などで訪れるとタイ仏教が異文化の遠い宗教に見える理由のひとつでもある。ただ一方、森羅万象に神が宿るとする部分は日本人の根底にも通じるものがあって、これもまた日本人がタイ人を近しい人々に感じる理由でもある。

タイにおける僧侶の地位

日本と違い、タイ仏教における僧侶の社会的な位置づけは高い。もちろん日本の僧侶も地位は高いけれど、一般市民の対応や見方がまるで違うのだ。たとえば、電車やバスには優先席があり、日本同様に老人や身体が不自由な人、妊婦などに席を譲るよう求められているが、僧侶には最も優先して譲るべきとされている。

バンコクの高架電車BTS車内の優先席。僧侶の絵柄が見える。

また、僧侶は女性に触れてはいけない。たとえ故意でなくても、袈裟にすら女性の身体が触れてはいけないことになっている。そのため、街中では僧侶が気をつけるのではなく、市民側が僧侶を守らなければならない。女性は自ら僧侶から必ず離れていなければならないので、意外と外出中は気をつけなければならない。寺院では露出しすぎた服装はマナー違反とされるが、これは礼節を重んじるからでもあるし、僧侶の修行の妨げにもなるからではないか。

一方で、悪い僧侶もいて、女性と関係を持ったりすることもある。この場合は近年の日本と同様にマスコミやインターネット上での大炎上は必至で、強制的に還俗させられる。日本のドラマでは数年前、昔でいうトレンディドラマの枠で、僧侶と若い女性の恋路が描かれていた。あのドラマをタイ人が観たら、驚くどころの話ではない。タイなら確実に放送禁止になるだろう。以前、ある雑誌のバンコク・オフ会で、参加者が急遽、日本から来た友人を連れてきた。その友人は現役の僧侶で、タイのカラオケに行きたいという。そしてカラオケにはホステスの女の子たちがいるわけで、その子たちが職業を訊ねてくる。「彼は日本の僧侶だ」と話したものの最初は信じてもらえず、最終的には思いっきり嫌な顔をされてしまった。

男性は生涯に最低一度、出家する

それから、男性が生涯に最低一度は出家する点も日本とは違う。タイの寺院には少年僧もいるので若いうちに出家を経験するケースもあるが、基本的には20歳以上になってから出家することが多い。タイには前にも紹介した通り、徴兵制度も存在する。徴兵と出家のタイミングが重なっていることもあって、20代のタイ人男性は大忙しだ。ただ、徴兵と違い出家する年齢は自分で決められる。また、出家の期間も自由で、数日だけという人もいれば、3ヶ月超の長期に渡る人もいる。親族の葬儀により深く参加するために火葬の日だけ剃髪をして形だけの出家をすることもある。文化的に根づいている慣習なので、たとえ外資企業であってもタイ人男性スタッフが出家するとなると会社側に拒否権はなく、その間、スタッフに穴が開くことは承知していなければならない。当然ながら出家時は髪の毛も眉毛も全部剃るので、会社に戻ってきてもしばらくの間は余韻があるのもまた、タイならではの生活風景である。ちなみに、白い袈裟を着た尼僧もいるが、タイ仏教の世界ではあまり女性の地位が高くない。このあたりもある意味ではタイ社会に根づく考え方というか、タイ人の保守的な一面でもある気がする。

祖父の葬儀のために1日だけ出家した息子と並ぶ母親。親子とはいえ、出家中は僧侶の方が立場が上になる。

我々日本人がタイ仏教にて出家したい場合、一応受け入れられるのだが、基本的にはタイ仏教、あるいはサンスクリット語の経典などの知識が事前に求められると聞いたことがある。とはいえ、タイ人もサンスクリット語が読めたり、理解できるかというとそうではない。ただ、タイの教育法制度下で学校に通っていたタイ人には、理解しているか憶えているかは別にして、基本的にはタイ仏教の知識がある。なぜなら、小学校に入ると仏教神話などに関する授業があるからだ。ボクも長女が小学生に上がって初めて知った。小1から急に「サマーティがどうのこうの」と娘が言い出し、どこで憶えたのかと驚いたものだ。サマーティとは瞑想のことである。

先述の通り、タイは信仰の自由が認められている。そのため、いろいろな宗教があるわけだが、基本的にタイ人は個人主義であることもあって、宗教に関しても互いをしっかりと尊重している。それぞれが認められているので、たとえばイスラム教はタイ全土のムスリムをまとめるための大きな組織があり、その本部は政治的な力も強い。小売店にある食品の大半に、イスラム教の教えに従って製造された製品につけられるハラルマークが印刷されているほどだ。

緑茶のボトル裏にもハラルマーク(円内)。

一方で、それぞれの宗教が社会的にしっかりと認められていることから、それを悪用する人も存在する。タイ仏教では出家する理由として、成人する上でのひとつの儀式、あるいは徳を積むためだったり、自身や家族の幸せを祈るためなどがある。その中に罪や穢れを払うための出家もあり、これを犯罪者が利用するのだ。特に芸能人や富裕層は元々名前が知られているだけにそれがよく目立つ。飲酒運転で交通事故を起こして相手を死なせてしまったケースでも、芸能人は遺族に謝罪と慰謝料を払い、その足で出家しに行ってしまう。こうなると警察も手出しができない上に、この行いが尊重されてしまう風潮もあって、遺族もそれで許してしまう。

もちろん、芸能人や富裕層が出家したからといって、特別な生活をするわけではない。誰もが平等に、同じように寝食を共にし、毎朝托鉢に行ったり、寺院を掃除したり、やることはたくさんある。髪を剃り落とし、オレンジ色の袈裟を着て、裸足で歩く。食事を摂る時間も決まっているし、自由に好きなものが食べられるわけでもない。近年の托鉢ではおかずやご飯は袋に入れてくれるが、昔は鉢の中に全部を入れられて、いろいろな料理がごちゃごちゃになっていたのだとか。

タイ人とはいえ、この生活に馴染めないタイプも実はいるにはいる。出家は遊びではなく、修行でもあるわけだから、決して楽ではない。若い人で、特に夜遊びに慣れてしまった人はちょっとやそっとでは僧侶の生活に体がついていかないのだ。昔友人らと話していたときのことだ。彼らに出家はどんなものなのか訊ねた。するとAは「心が休まる、素晴らしい時間だった」と答えた。恋愛のことも仕事のことも、いろいろな悩みから出家の間は解放され、本当に平穏な時間を過ごせるのだそうだ。その場にいたもうひとりのBもまた「そうだそうだ」と言った。そこで、どれくらいの期間、出家していたのかと訊くと、Aは「自分で決められるけど、ボクは2週間だった」と言った。一方のBはというと、「オレは1日」という。どういうことかと根掘り葉掘り聞くと、白状した。「実際には1日というか、朝出家して、夕方には実家に逃げ帰ってた。ちょっと自分にはあの生活は無理かなと思って。でも、安らかだったのは本当」

このように、合わないタイ人もいるにはいるのだ。だから、穏やかに過ごすというよりも、我慢して毎日を数える人もいて、当然、そういう人は人生で1度だけしか出家しない。出家の実態はこういう辛さもあるので、それを知っているタイ人は芸能人などが出家を悪用しても、つい許してしまうのかもしれない。

東北部の村で、タイ旧正月の期間に合わせて出家する男性。

先のBの話を聞きながら、ボクは横にいるAの顔を窺っていた。敬虔な仏教徒ならこんないい加減なBに怒るのではないか。ところが、Aもまたその話を聞きながら笑っていた。実におおらかだし、信仰の自由や度合いも人ぞれぞれということをタイ人は理解しているのだなとボクは思った。

それほどまでにタイでは宗教の価値がしっかりと認められている。日本人だと日本語や生活習慣に仏教や神道が根づいているものの、普段それほど意識はしない。特に若い人は自分たちを無宗教であると思っている人が大半であろう。タイは学校で授業もあり、また生活でも寺院が身近であるし、社会的にも信仰の自由が認められていることから、若い人でも自分の宗教をしっかりと意識して生きている。この点は日本人とタイ人、日本とタイの宗教観の違いだ。

必ずしもタイ文化=仏教ではない?

タイ南部を取材していたとき、ある民家の結婚式を見かけたことがある。その村は完全なイスラム教徒の地域だったが、結婚式はバンコクでも見かけるごく普通のものだった。

タイの伝統的な結婚式では新郎とその一族が新婦の家に列を作って訪れ、新婦友人らで固められた門をこじ開け、婚約や初夜の儀式などが行われる。中国でも似たような儀式があるようだが、ボクはこれを仏教的な儀式だと思っていた。しかし、現地の村人曰くは「タイの結婚式だ」ということで、宗教は関係ないようだった。

結局、どんな宗教であれ、タイ人とその生活はどちらかというとタイ文化に根差したもので、その文化はわりと精霊信仰からできあがった部分が大きいのかもしれない。バンコクだと最大派閥である仏教徒の生活を目し、寺院も多いことからタイ仏教そのものがタイ文化だとつい勘違いしてしまう。

南部の村で見かけた結婚式はあくまでもタイ式だった。

とはいえ、タイは国そのものが仏教国といえる。そもそも、スコータイ王朝時代に仏教がタイに広まったのは、国の衰退を食い止めるためであり、政治的な意図が強くあった。多民族をまとめるためのひとつの手段だったのだ。国民をまとめ、反乱を押さえるために仏教が利用された。

さらに、タイの国旗は赤白青の3色だが、中央の青色は国王や王室を、白は宗教、赤は国家と国民を表しているという。白は、ブッダの母が胎内に白い象が入ってくる夢を見てブッダを身ごもったという神話が由来になっている。つまり、タイ国旗の白は宗教を象徴した色であると同時に、仏教の信仰を意味しているのだ。

タイの国旗。

タイ王室もまた、仏教を信仰する。憲法では、国王は宗教の保護者であり、王室はタイの寺院の最高峰という位置づけだ。王室や国旗の由来などはガイドブックやネット上にたくさんあるので、これを読むとどうしてもタイ文化は「仏教」の強い影響を受けていると思ってしまう。もちろん、それは事実ではある。

ただ、日本との大きな違いは、タイでは神仏分離がなく現在に至っていることと、日本の天皇は仏教ではなく神道を選んでいる点だ。天皇は元々は神の子孫とされているから神道なのは当然として、タイは王朝ではあるが、タイ国王もまた神と同じ存在とされている。このあたりが、日本文化で育った我々をやや混乱させる原因な気がする。一見、タイの仏教は広義的な意味合いの上座部仏教と捉えがちだが、すでに書いたようにタイ仏教はタイ精霊信仰と強く習合しているので、広義的な上座部仏教とはまた違う。日本とタイは友好関係が長く、通じ合う部分も多々あるが宗教の部分では大きく違っていて、案外、ここが理解し合えないポイントでもある。

タイの文化は精霊信仰と仏教をベースにできたのではなく、あくまでも「タイ精霊信仰」を元にした「タイ仏教」を下地に発展してきた。日本人とタイ人が最も理解し合える部分と理解し合えない部分は、実は同じところにあるとも言えるのではないか。

とはいえ、タイにも外国文化がどんどん流入し、特に最近はインターネット環境によってその速度は増すばかり。日本も同じだが、その中には自国独自の文化と相いれない部分と受け入れやすい部分があって、ある意味ではタイも日本も混乱期の真っただ中なのかもしれない。しかし、なんでも物事には反発する力が作用するもので、そのひとつが、近年タイの若者を中心に起こっているタイ・アンティークの人気や、タイの文化の見直しだ。日本も「昔ながら」がキーワードになった観光スポットや商業施設、商品が増えているが、実はタイもそうだったりする。

コロナ禍で売られていた、ヤック(夜叉)を象ったマスク。若いデザイナーがタイ文化を取り上げている。

いいものは取り入れ、悪いものは排除していく。保守的な性格が強いタイ人にしては、その柔軟さは日本人に似ている。最近だと、警察を始めとした公務員が賄賂を取らずにしっかりと働いてくれる。これもそういった外国の文化を採り入れた結果だ。正直言えば、多少の金額で贔屓してくれるならそれもありがたいし、そんなタイが好きだった人はボクだけではないはず。

しかし、10~20年前と比べてタイは格段に住みやすくなった。これもタイ人のよき気質が社会を変化させ、その気質はやっぱりタイ文化からできあがったもので、そしてその文化は大なり小なりタイ人の宗教観がそうさせたのだろう。日本人の多くが、警察や人目があろうがなかろうが法を遵守するのは八百万の神が見ているかもしれないという恐怖心に忠実であるからだと思うが、タイ人(特にタイに暮らす大半の善良なタイ人)にも同じ気質が根底に流れている。だから、日本人とタイ人は理解しえない部分を持ちながらも、宗教文化に由来する気質に関しては、他のどの国の人々よりも相性がいいのかもしれない。

書き手:高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年5月24日生まれ。2002年からタイ在住。合計滞在年数は18年超。妻はタイ人。主な著書に『バンコク 裏の歩き方』(皿井タレー氏との共著)『東南アジア 裏の歩き方』『タイ 裏の歩き方』『ベトナム 裏の歩き方』(以上彩図社)、『バンコクアソビ』(イーストプレス)、『亜細亜熱帯怪談』(晶文社)。「ハーバービジネスオンライン」「ダイアモンド・オンライン」などでも執筆中。渋谷のタイ料理店でバイト経験があり、タイ料理も少し詳しい。ガパオライスが日本で人気だが、ガパオのチャーハン版「ガパオ・クルックカーウ」をいろいろなところで薦めている。

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