日本で「安楽死」を合法化すべきか?|高橋昌一郎【第27回】
「安楽死」の「些末化」
「安楽死(euthanasia)」という言葉の語源は、ギリシャ語の「良き(eu)死(thanatos)」にある。現在は、一般に「人間としての尊厳を守り、苦痛のない良き死」を「第三者に依頼する」という意味で用いられている。仮に回復の見込みのない不治の病に罹った患者が自ら命を絶てば、それは「自殺」である。しかし「安楽死」には本人以外の医師や家族などの第三者が介在するため、刑法上は「自殺幇助罪」や「殺人罪」との関連が議論されることになる。(安楽死に関する議論は、拙著『哲学ディベート』(NHK出版)をご参照いただきたい)。
一般に「安楽死」は、①患者の苦痛を長引かせないため、延命のための治療行為を中止する「消極的安楽死」、②患者の死期を早める方法であっても、苦痛緩和を優先する「間接的安楽死」、③患者の意思や苦痛緩和を最優先して、致死薬を投与して患者の命を絶つ「積極的安楽死」に分類される。
たとえば、ガン細胞が全身に転移して神経を圧迫し、患者に激痛を与えている場合を考えてみよう。もはや回復の見込みはないので、ガンそのものに対する放射線治療などを中止し、肺炎を併発したとしても抗生物質を投与せず、呼吸困難に陥ったとしても人工呼吸器を用いないような場合、それは「消極的安楽死」である。さらに、患者の耐え難い苦痛を緩和するために、苦痛は抑えるけれども心臓に著しく負担をかけるような薬剤を投与すれば、「間接的安楽死」となる。先進的な終末期医療で知られるイギリスで開発された「ブロンプトン・カクテル」はモルヒネとコカインとクロロホルムとアルコールの混合薬で、最強の苦痛緩和剤だと言われているが、その分だけ死期を早めてしまうことも明らかだろう。
この種の薬品を使用する「間接的安楽死」にしても「消極的安楽死」にしても、終末期医療の現場では実際に行われていることであり、とくに法律上問題にされることはない。しかし、いかに患者本人の意思表示があったとしても、医師が致死薬を投与する「積極的安楽死」に限っては多くの国で犯罪とみなされる。
ところが、1994年、アメリカ合衆国オレゴン州で「尊厳死法」が成立し、末期患者に致死薬を渡して本人の選択に任せることが許されるようになった。さらに、2001年オランダ、2002年ベルギー、2008年ルクセンブルク、2016年カナダ、2021年ニュージーランド、2022年オーストラリア、2023年コロンビアで相次いで「安楽死法」が成立し、「積極的安楽死」が合法化されるようになった。
本書は、安楽死が合法化されたそれらの国々で何が生じているのかを綿密に調査し、安楽死が「些末化(trivialization)」していく傾向に警鐘を鳴らしている。ベルギーでは、離婚後2年間に慢性うつ病に罹患し、3度目の自殺未遂で精神科救命救急部に送られてきた患者が「安楽死の申請ができますよ」と看護師から勧められた事例が報告されている。カナダのケベック州では、社会保障申請よりも安楽死申請の方が認可されやすいため、生活苦から社会保障を申請して拒絶された人々が、安楽死を選択せざるを得ない状況になっているという。
本書で最も驚かされたのは、ベルギーの緩和ケア病棟で、医師が「モルヒネ・シャンパンで行こう!」とジョーク交じりに致死薬投与を指示する状況である。これに抗議した看護師が異動させられた事例もある。医師のモラルが問われる。
そもそも安楽死の是非は古代ギリシャ時代から問題になってきた。そして紀元前5世紀、「医学の父」ヒポクラテスは、「医師の職務は患者の生命を救うこと」であり「依頼されても、患者に致死量の投薬を行わない」という誓いを生命の神アポロンに立てている。なぜ誓ったのか、改めて医療の本質を考えてみたい!