3:百花繚乱のハードコアが、次々に「変異」する。パンクは筋肉系になる——『教養としてのパンク・ロック』第29回 by 川崎大助
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第4章:パンクが死んでも、パンクスは死なない
3:百花繚乱のハードコアが、次々に「変異」する。パンクは筋肉系になる
Oi!(オイ!)
ハードコア・パンクの音楽面での直接的ルーツとなったのは、まずはOi!(オイ!)だった。シャム69、エンジェリック・アップスターツ、そしてなにより「最初にOiと呼ばれた」バンド、コックニー・リジェクツ――彼らのナンバー「Oi! Oi! Oi!」などから、このサブジャンル名が生まれた。この曲はもちろん、歌の一番おいしいところで、全員で声を揃えて「Oi! Oi! Oi!」と力いっぱいに連呼する、というものだった――などがオリジンだ。
ちなみにこの「オイ!」とはアメリカ英語における「ヘイ!」にも近いのだが、そもそもはロンドン下町の訛り&言葉遣いであるコックニーにてお馴染みの言い回しで、あまり上品なものではない。たとえばコックニー大将であるイアン・デューリーは、ステージ上でよく「オイ、オイ!」と連発して挨拶に代えていたが、それを見た僕がいつも想起したのは、日本の歌手・ギタリストである「バタヤン」こと田端義夫の「オッス!」だった。つまりとてつもなく「庶民的な」呼称を掲げたパンク・ロックがOi!だった、ということだ。
楽曲面では、メロディの情緒性に特徴があった。歌手と観客がいっしょになって歌える「シンガロング性」がとても高い曲が多い。要するにこれは、サッカー・スタジアムにおける「アンセム」合唱の感覚の転写であって、90年代に全英でとてつもない成功をおさめる怪物バンド、オアシスの一大特徴とも通じるものだ。
ここに「サウンドのハードネス」を乗っけたものが、ハードコアの基礎となった。サウンド面では、元祖「ハード・パンク」と呼ばれたスティッフ・リトル・フィンガーズの存在が大きい。70年代当時、ときにほぼ戦場にも等しかった北アイルランドはベルファスト出身。79年にアルバム・デビューした彼らは、独立派と英国残留派のあいだにおける紛争「ザ・トラブルズ」を歌い込んだナンバーの数々を発表し、耳目を集めた。そして主題に負けじと鳴り響く、硬く分厚く剛性の高いギター・サウンドが、ハードコアのアイデア元となった。UKサブスなども、ときにオリジンとして名が挙げられる。
さらに「速さ」も必要だった。世界中に広がっていくハードコア・パンクは、楽曲のテンポも上がっていった。ラモーンズ・スタイルが先駆けとなったパンク・ロックには「速さとは善である」という根本思想もあったからだ。ゆえに、どんどん「硬く」なると同時に、スピードもぐんぐん増していった。この先導者となったのは、オリジナル・パンク組のザ・ダムドだったと言われている。デビューの時点でも速かったのだが、79年発表の第3作『マシンガン・エチケット』は、タイトル曲の「すさまじく前進していく感じ」などがハードコアのビートのお手本とされた。どんどん速度を増していくハードコアは、ほどなくして8ビートではなく2ビートの世界へと突入していく。激速の「ブラストビート」も誕生する。
そしてこのハードコア勢は、個人経営も多く含む小規模のインディー・レーベルを中心に活動していく。つまりは「DIY」精神であり、ピストルズやクラッシュたちオリジナル世代の多くが、高額の契約金を得てメジャー・レーベル(や、メジャーに準じるレーベル)からデビューしたのとは対照的に、最初から「草の根」で、独立独歩で、これら新しいパンクスは歩き始めていった。あたかも米60年代の「ガレージ・バンド」のアップデート版であるかのように。ニューウェイヴで浮かれ騒ぐ広い世間を尻目に。
ナパーム・デス
では、この「ハードコア」は、どのような派生種や発展型を生んでいったのか? まずイギリスで特筆すべきは、なんと言ってもナパーム・デスだ。81年にバーミンガムで結成された彼らは、ブラストビートの威力を世に知らしめた。ブラック・サバスなどのヘヴィメタルの影響が大きいハードコア・パンクの筆頭である、「硬く・激しく・速く」突っ走るスタイル「グラインドコア」の雄となって、巨大な影響力を発揮した。意味論的にはちょうど、メタリカやスレイヤーといった「スラッシュ・メタル」勢、つまりヘヴィメタル側でハードコア・パンクの影響を昇華したバンド群の一種のカウンターパート、だったのかもしれない。ナパーム・デスの周辺には、カテドラル、カーカスらが誕生した。またグラインドコアの始祖のひとつと呼ばれる、イプスウィッチから登場したエクストリーム・ノイズ・テラーは「クラスト・パンク」の嚆矢とされる。ドゥームなどとともに、ここから「クラストコア」も生まれていく。彼らはより重く速く、ささくれ割れた音が噴き上げる混沌の渦のなかに立った。クラスト(Crust)とは「かさぶた」を意味し、音の「表面感」および、演奏者のすさんだ外見を指していた。「ディスチャージ父に、クラスを母に」ルーツとするジャンルがこれだと見なされている。
アメリカン・ハードコア
アメリカにも、もちろんハードコアは派生した。それどころか、その後のアメリカン・パンクの基本型のひとつにまでなった。78年結成のデッド・ケネディーズ(もちろん「死んだケネディー一家」という意味だ)や、76年に結成、81年にヘンリー・ロリンズが加入したブラック・フラッグ(もちろん、アナキストの象徴である「黒旗」を指している)などの影響が大きい。前者はサンフランシスコ、後者はロサンゼルス郡のハモサ・ビーチを基盤としていた。こうしたカリフォルニア・ハードコアは、当時勃興期にあったスケートボード・シーンとも重なり合っていく。サンタアナのザ・ミドル・クラス、フラートンのジ・アドレッセンツ、そしてブラック・フラッグの初代ヴォーカリストだったキース・モリスのサークル・ジャークスらが活躍した。そしてハードコアとヘヴィメタルの両方を「スラッシュ(Thrash=激しく叩く)」のタッチで交差させ、きわめて高速にてぶっ放したスーサイダル・テンデンシーズ(=自殺願望)は、スケートボードからギャング界隈までをも網羅する「クロオーヴァー・スラッシュ」と呼ばれるストリート横断的な花形スタイルを80年代中盤に確立した。
そして一躍「アメリカン・ハードコアの首都」となったのがワシントンDCだ。「メンバー全員が黒人のロック・バンド」としても当時注目された、バッド・ブレインズがいた。名前の由来はラモーンズのナンバー「バッド・ブレイン」(78年)から。とにかくライヴが激しく、客が店を破壊してしまうので、DCじゅうのクラブを「出禁」にされた彼らは80年にニューヨークに転居。このころからレゲエやヘヴィメタルの影響もより顕在化、のちにいわゆるファンク・メタルやラップ・ロック(日本で言うところの「ミクスチャー・ロック」)の先駆けともなっていく。彼らから影響を受けた者は数多く、ヘンリー・ロリンズもそのひとりだし、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやニルヴァーナ、そして若きビースティ・ボーイズの3人がまず最初にハードコア・バンドを始めてしまったのも、バッド・ブレインズのせいだった。
さらに、バッド・ブレインズの影響下にあるハードコア界の大物というと、イアン・マッケイを外すことはできない。マイナー・スレットとフガジという、どちらも伝説級のハードコア・バンドを率いた彼は、ハードコア/インディー・ロック界に名を轟かせるインディー・レーベル「ディスコード」を主宰する、DCシーンの顔役でもあった。そんなマッケイは、巷間「ストレート・エッジ」の元祖とも言われている。
ストレート・エッジ
ストレート・エッジとは、ある種「精神のハードコア」の極北に位置する「禁欲パンク」のライフスタイルを指す。酒、煙草、ドラッグをやらず、ときにはセックスすら禁止する(愛のない性行為は禁止とか)。そんな、まるでオーウェル『1984』の「青年反セックス同盟」みたいな姿勢すら見せるのだ。さらには中世キリスト教の苦行者のように「痛み」を求め、かつそれを克服することを目指す派閥もあって、集団で全員が全員と殴り合うこともある。もちろん菜食主義が基本で、ヴィーガンも少なくない。つまり、クラスが抱えていた潔癖性を、ピューリタンの国らしく「究極まで」推し進めてしまった連中がストレート・エッジなのだ。ニューヨーク州はシラキュースのアース・クライシスがヴィーガン系ストレート・エッジの代表格だが、もちろん「いま、そこにある危機」に対応しているため、音のほうは「硬く重く激しく」とにかく容赦ない。
しかしストレート・エッジ界隈で凄絶だったのはボストン・シーンだ。SSD、DYS、ネガティヴFXら「ボストン・クルー」の周辺が過激化して「まるで激しいスポーツのように」ライヴで暴れては、酒や煙草やドラッグや性欲といった煩悩の昇華を目指した、という。筋肉とパワーと汗の世界だ。ここから、いわゆる「モッシュ&ダイヴ」の様式が確立した、と言われている。ライヴ中に観客が相互に全身をぶつけ合うのが「モッシュ」。さらには観客がステージに駆け上がり、そこから観客の頭上めがけて飛び込むのが「ダイヴ」――今日、ハードコア界隈を超えて、「荒っぽい」ライヴの定番となっているこうした行為は、ボストンのこのストレート・エッジ周辺にて鍛え上げられた。
ここにおいて、ロンドンのオリジナル・パンク伝来だったポゴ・ダンス(両手は下げ、全身を伸ばして垂直にその場で高く飛び上がり続ける。シド・ヴィシャスは自分が元祖だと主張していた)は、完全に過去のものとなった。また、観客が唾をステージに向けて飛ばすゴビング(ジョニー・ロットンが痰を客席に飛ばした仕返しから始まった、とされている)なんて、もしやったら大変なことになる世界へと、完全に変質してしまう。ボディビルダーもかくやというヘンリー・ロリンズのみならず、アメリカのパンク/ハードコア界のバンドマンには体格がいい男性が少なくない。だからその点でも、ロンドンとも、初期ニューヨーク・パンクの青白い文学臭(もしくはラモーンズらのちんぴら臭)ともまったく異なる、明らかに体育会系的な「発散型の男のロック」へと、ハードコアは変異していった。だいたいが痩せた、少年のような身体つきが主流だった初期パンク勢が、このころのハードコアのライヴ会場にもし間違って入場してしまったならば、簡単に押し倒され、踏み潰されてしまったかもしれない。
スポーツ・パンク
これは僕の造語なのだが「スポーツ・パンク」と呼びたくなる系譜がある。ハードコアの一部から、スケートボード系を経て、たとえば90年代に大ヒットを飛ばしたポップ・パンクのオフスプリング、ブリンク182あたりが、そのイメージに最も近い。「政治的」な歌だろうが、お楽しみメインのパーティ・ソングであろうが、とにもかくにも、すべての音楽的な基礎に前述の「体育会的な発散」が最初に敷き詰めているようなパンク・ロック、とでも言おうか。鬱屈した精神の果てない沈降や、静かなる省察や、苦みや痛みに満ちた自戒や自虐――といったものの表出が、どう考えても、どこをどう切っても、「NYやロンドンのオリジナル勢とは違う」そんな流儀のパンク・ロックだ。
たとえばジョニー・ロットンのごとき、永遠に解けないような「呪詛」を心中に抱えていたとしても、それが外に出てくる場合には、カラッと乾いた怒りとなることが多い。しかも「馬力が中心」のスタイルで語られていくのだ。ゆえにグリーン・デイですら、僕の見立てではほとんどここに入る。マイティ・マイティ・ボストーンズらのスカ・パンク系統、ドロップキック・マーフィーズらの「アメリカにおける」アイリッシュ・パンク系統も、ここに入れてもいいかもしれない。内省よりも瞬発力を、弾圧に耐え続ける不屈の精神力よりも「攻撃をはね返せる筋肉」を重視するアメリカン・ハードコアを通過することによって、パンク・ロックは、まさにスケートボードやスニーカーや、炭酸水で割ったアイリッシュ・ウイスキーのごとく変質、現代生活のいたるところで、容易に「利用」できるものとして、世界中のオーヴァーグラウンドで認知されていったのが、90年代中盤以降だったのかもしれない。
【今週の10曲】
Cockney Rejects - Oi! Oi! Oi!
Stiff Little Fingers - Suspect Device
The Damned - Machine Gun Etiquette
Napalm Death - Unchallenged Hate (Official Audio)
Dead Kennedys - Holiday in Cambodia (1980)
Black Flag - Rise Above
Suicidal Tendencies - Institutionalized
Bad Brains - Banned in D.C. Live
Fugazi - Waiting Room
Green Day - Basket Case [Official Music Video]
(次週に続く)