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第9回 四方田犬彦が師について綴った小説のような「評伝」|三宅香帆

師弟の物語は、面白い

師弟の物語というのは、なぜか面白くて、読んでしまう。

夏目漱石作品のなかではやっぱり私は『こころ』がいちばん好きだし、芸術の師弟関係だったら中山可穂の『銀橋』とか山岸凉子の『アラベスク』もあの師弟関係にグッとくるの。フィクションじゃないけれどこの連載だって中島梓の『小説道場』を扱っている。ほら、『HUNTER×HUNETER』も『鬼滅の刃』も結局は師のもとで修業する話だからみんな面白いと思っているのじゃないか。

師弟関係の面白さというものは、それがすなわち自分の修業時代と結びついているからだ。

師弟の物語は、弟子の目線から語られる。基本的に物語に師弟が登場するときとは自分にとっての「師」が現れる瞬間であり、それは自分の成長を促す言葉をかけてくれる人のことを指す。自分が向かう方向がはっきりして、この人を追いかけて自分は走ってゆくのだと、そういう志をもった瞬間が、面白くない訳がない。どうしたって師弟の物語は面白くなってしまう。

そして師弟関係が切ないのは、弟子はいつか師匠から離れる瞬間が来るからだ。

これがたとえば親子だとそうはいかない。親は自分から死ぬまで親だから親だ。しかし師弟の場合は、いつか「卒業」しなきゃいけない。学校とは何かを学び、そして出て行くための場所なのだと村上春樹もエッセイ『職業としての小説家』述べていた。

物語に出てくる師匠は、登場した瞬間、同時にいつかその物語から退場することを決定づけられている。

今回紹介する『先生とわたし』という四方田犬彦よもたいぬひこによる由良君美ゆらきみよしの評伝は、極上の師弟の物語だ。そして同時に、切なさをもった、弟子が師匠から離れる瞬間を描いた物語でもある。

映画研究者が「師」について語る

……物語、と書いたけれど、これは決してフィクションの本ではない。本書は評伝である。由良君美という、東大の英文学者の生涯とその人となりについて、彼のゼミ生のひとりだった四方田犬彦が、一冊まるまる使って書いたものである。

四方田犬彦の名は、映画研究者として知っている人もいるだろうし、エッセイや詩の書き手として知っている人もいるだろう。しかしどの分野の著作にせよ、とにかく博覧強記であることはよく伝わってくる。日本の存命している人文学系の書き手としてもっとも著名なひとりであることは確かだ。

そんな四方田犬彦が、語る、由良君美。彼らふたりの間には、どうやら、ひとつの暴力事件が関わっているらしい。

そう、どうやらこれはただの「弟子による師匠の伝記」ではないらしいぞ、ということが、一ページ目をめくっただけで分かる。

本書のプロローグは、由良が亡くなったことを四方田が知る場面から始まる。

 わたしは彼が病を患っていたことを知らなかった。長年勤めてきた大学を退官になり、その後にどこかの女子大に迎えられたとまでは人づてに聞いてはいたが、こんなにあっけなく亡くなってしまうとは予想もしていなかった。最後に会ったのは、わたしがコロンビア大学の客員研究員としてニューヨークに向かう前のことであるから、もう5年以上の歳月が流れている。いや、あれは会ったなどというものではなかった。瞬時に擦れ違ったとでも表現すべき、不幸な出会いだった。そしてそれ以後、わたしはもう生きているかぎり二度と彼と会うことはないだろうと、自分にいい聞かせてきたのである。

(『先生とわたし』新潮文庫、p.7)

ここで読者はおそらく「ん?」と首を傾げるだろう。元ゼミ生で、評伝を書くほどに近しかった生徒ならば、四方田の言うように「病気を患っていることを知らない」ことはなかなかないのではないか。さらに、「二度と会うことはない」と言い聞かせるような出来事があった、と四方田は言う。きっとよっぽどの亀裂が、二人の間にあったのではないか。しかし、いったい、どんなことが? 読者はそんなふうに想像を働かせるだろう。

四方田による、由良の評伝……そんなふうに本書の体裁は整えられている。が、その内実は、四方田と由良の間にあった関係性、そしてその周りを取り囲んでいた東大のゼミの狭い人間関係、そんな「内輪話」がなんとも濃密に描かれている。

見ようによっては、当時東大で起こった出来事の暴露にも、見えなくもない。そんなゴシップとしてもインパクトが薄い暴露話、はたして面白いのか……? と首を傾げる人もいるかもしれない。しかしどうしてもページをめくる手を止められないくらい、なんだか、面白いのだ。

なぜなら、この話が、四方田と由良の間にある「師弟関係」の物語だからだ。

四方田が由良を師として仰ぎ、思慕をもって接し、しかしある時から由良との確執が深くなり、やがて二人が決別する。それはまぎれもなく師匠と出会い、修行し、そして師匠から卒業するプロセスそのものなのだ。

人が教師になる理由

といっても、『先生とわたし』という本は、由良と四方田の関係性の話だけに終始しているわけではない。由良自身の生涯、そしてなにより由良の父親の生涯についてもかなりのページ数が割かれている。

彼がイギリス文学のなかでも、ロマン派詩やゴシック小説の専門家になったのは、なぜだったのか? そして彼が大学にいた70年代から80年代にかけて、いったいどのような学問の流派の変化が、アカデミックの人文界隈において起こっていたのか? 由良が自らを壊してしまうまでになった、その変化の理由はどこにあったのか? ――そんな問いかけについて、彼の人生から紐解いてゆくことで、本書はひとつの「日本の大学における戦後の人文研究史」にもなっている。

でもやっぱり、由良の生涯を綴る四方田の筆致には、どこか「師匠への思慕」のようなものが透けて見える。決して、見知らぬ第三者の目線ではない。自分の、ただひとりの師匠に向けた目線だ。

それはまるで文学作品みたいだなあ、と私は読むたび思う。そして読むたび、夏目漱石の『こころ』を想起してしまうのだ。

たとえば同様に師弟を描いた夏目漱石の『こころ』は、前編が「先生と私」、中篇が「両親と私」、後篇が「先生の遺書」となっている。つまり漱石は、『こころ』の前半で、弟子の語る先生の物語、後半で、先生の語る先生自身の物語、その両方を描いた。これと比較すると、四方田犬彦は『先生とわたし』において、ある意味、そのふたつの物語を、両方弟子が書いたようなものだった。

弟子が語る、「先生とわたし」。そして、弟子が語る、「亡くなった先生の人生」。そのふたつの物語が組み合わされ、一冊の『先生とわたし』という本になっているのだ。

四方田は本書のなかで、「人はなぜ教師になるのか」と問う。

 人はなぜ教師となるのか。ある人間が他人を前にして、モノを教えたり、ある技術を授けたりするという行為とは、いったい何なのか。それはどのような形で正当化されうるものなのか。由良君美についてひと夏を費やし、さながら悪魔祓いのように回想を書き綴ってきたわたしは、いつしかこうした原理的な問いかけの前に立っている自分に気付くことになった。

(『先生とわたし』新潮文庫、p.236)

そして彼はさまざまな師弟をめぐる物語と書物を参照した後、こうも述べる。「師とは過ちを犯しやすいものである」と。

由良の犯した過ちとはいったい何だったのか。そしてその過ちは、四方田という弟子の心に、何を残したのか。

『先生とわたし』という本が、実際に由良君美という人を知らなくても、やっぱり面白くて魅力的なのは、この本が「師弟関係」の秘密のひとつに触れた本だったからなのだろう。

師弟関係という、クローズドな場の、もしかしたら世界に明かされるはずがなかった秘密を、四方田という書き手の筆力をもって世界中に公開した――そのプロセスそのものが面白いのかもしれない。人の秘密は、面白いから。

夏目漱石の『こころ』がいつまでも教科書に載り続けるのと同じで、『先生とわたし』もまた、由良君美という人に直接会った人が少なくなっても読み継がれる価値のある本であると私は思う。本書は評伝というジャンルには属しているが、中身はまるで小説だ。夏目漱石の『こころ』を読むのと同じように、あなたはきっと四方田犬彦の『先生とわたし』を読むことができる。

四方田の述べた通り、いったいなぜ人はなぜ師になるのだろう。そしてなぜ私たちは、師弟の話に惹かれてしまうのだろう。

その謎のひとつの答えが、本書には示されているように、私は思うのだ。


今回の絶版本

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著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)ほか多数。最新刊は、『妄想古文』(河出書房新社)。

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