タイトルについての不用意な失策――エンタメ小説家の失敗学34 by平山瑞穂
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第6章 オチのない物語にしてはならない Ⅳ
同じ失敗
もうひとつ、似たような意味合いで「オチの欠如」とみなされたものが問題になったケースを挙げておこう。二〇一五年一二月に幻冬舎から書き下ろしとして刊行された、二三作目の小説『バタフライ』(二〇一八年一〇月に文庫化される際、『午前四時の殺意』に改題)だ。作家デビューして一〇年以上を経てなお、懲りずに僕が同じ失敗をくりかえしていることに読者はあきれるかもしれないが、言うまでもなく、僕には僕の言い分があったのだ。
この物語もやはり群像劇であり、たった一日のできごとを、七人の主人公の視点によってリレー形式で綴ったものである。七人のほとんどはたがいに名も知らぬ存在であり、それぞれが別の場所に住み、日ごろはたがいに関わりあうこともない生活を送っている。
その一人、母親の再婚相手から性的虐待を受けている中学生の少女・尾岸七海は、ネットゲーム内のチャットで知りあった、しかし現実に顔を合わせたことはない同学年の少年・山添択に、義父を呪い殺すことを依頼する。択はいじめが原因で不登校になっており、部屋に引きこもる暮らしを続けていたが、七海のためならばと勇気を振るって家の外に出て、指示されたとおりの方法で呪いの儀式を貫徹する。この二人のやりとりと、二人の運命の行方が、ストーリーの主軸をなしている。
その軸の部分に、妻に先立たれて不器用に一人暮らしをしている年老いた元社会科教師、部下の扱いに苦慮して一人ですべてを抱え込んでしまう工務店の二代目社長など、その他五人の行動が、それぞれの形で関与してくる。
ただしその関与の仕方は、いずれもきわめてゆきずり的なもので、なにかの拍子にたまたま、ごくわずかな接点を持つことになるのにすぎない。しかし、そのとき彼らが取ったなにげない対応が、相手に思いもかけぬ影響を及ぼし、それがまた別の場所での別の事象に結びつくといった形で、事態は連鎖していく。
その連鎖は最終的に、この日の夜のTVニュースで取り上げられる二つの事件を引き起こす。しかしそこに関与した人々の多くは、自分のふるまいなり言動なりが、それらの事件に帰結する原因の一部として組み込まれていたことには、まるで気づかない。――ざっくりいえば、そういう物語である。
一一年間に及ぶプロの小説家としての経験から、僕もさすがに何も学ばなかったわけではなく、今回は僕なりに、わかりやすい「オチ」を用意したつもりでいた。つまり、少なくとも物語の主軸部分(七海の身の上をめぐる問題)に関しては、一般読者からも支持を得られそうな明瞭な決着を設けていたのである。しかし、それ以外の部分に抜かりがあった(僕にとっては、それは抜かりでもなんでもなく、ドラマツルギー上の必然にほかならなかったのだが)。
あまりにも不用意な失策
その前に、『バタフライ』というタイトルの由来について説明しておこう。このようなタイトルをつけた形でこの作品を刊行してしまったことも、ひとつの失敗――少なくとも、あまりにも不用意な失策だったと言うことができるからだ。
本作の巻頭には、気象学者エドワード・ローレンツによる「ブラジルの一匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」という言葉がエピグラフとして掲げられている。自然界で発生したごくささいな変化などが、次々に連鎖反応を引き起こし、最終的には気候上の大きな変動に結びついたりする可能性を寓意的に表現したもので、そうした連鎖反応は「バタフライ効果」と呼ばれている。
タイトルは、それを踏まえたものだった。つまり僕は、そのバタフライ効果のようなものを、人と人との関わりを媒体として描きたかったのだ。もちろん、人と人との関わりは自然現象ではないから、あくまで比喩的なものなのだが、「ささいなふるまいがなにかに影響を及ぼし、巡りめぐって大きなできごとを引き起こす」その様相を、人物ドラマの中に組み込もうとしたのである。
問題は、日本では二〇〇五年に公開されていたアメリカ映画『バタフライ・エフェクト』を、この時点の僕が知らなかったことだ。
この映画は、あるきっかけでタイムトラベルの能力を身につけた主人公が、人生において発生した不幸をなかったことにしようとして過去に戻り、当初とは違うふるまいをすることなどによって、その後の運命を変えようとする姿を描いている。しかし、主人公が現在に戻ると、別の形でだれかが不幸に見舞われたり、自分自身が不遇な立場に立たされていたりする。必ずどこかに寄ってしまうその「皺」を、どうすれば除去できるのか――それがこの物語の核心部分である。
これもまた、人と人との関わりを通じて、影響の連鎖と、それが引き起こす事態の重大な変化に焦点を当てたものだったばかりか、映画はヒットして、二本の続編まで公開されているのだが、僕の視界にはまったく入ってきておらず、僕は自覚もないままに、このヒット映画の向こうを張って、『バタフライ』などという露骨なタイトルの本を出してしまったのである。(続く)