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3:エルヴィスも、ビートルズも、ローリング・ストーンズも、1977年には……——『教養としてのパンク・ロック』第17回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第2章:パンク・ロック創世記、そして、あっという間の黙示録

3:エルヴィスも、ビートルズも、ローリング・ストーンズも、1977年には……

  1977年の夏のロンドンは、寒かった。Tシャツ1枚でいられるような陽気の日は数えるほどしかなく、僕はたいてい、薄い上着をひっかぶっていた。

 イギリス人ならば「例年どおり」だったのかもしれない(76年は猛暑だったらしいが)。しかし日本からやって来た子供である僕にとっては、なんともしみったれた、夏らしくない夏だった。深夜になるまで陽が沈みきらない、白々とした「夜もどき」も、じつに落ち着かなかった。そして街じゅうのどこであろうが、古びて、すすけて、壊れかけていた。

 後年、崩壊直前のソ連邦のサハリンを旅したとき、僕は、このときのロンドンを思い出した。つまり77年のイギリスとは、あたかも長く続いた共産主義体制の末期であるかのように、あらゆる社会システムが機能不全に陥っている、まぎれもない斜陽の地だった。かつての栄光の世界帝国が、ものの見事に終焉を迎えようとしていた。

 そんな国の首都、ロンドン郊外の寄宿学校で学ぶため、家族から離れて、僕は初めての渡英をしていた。現地の生徒が夏休みの期間だったから、ちょうどセックス・ピストルズが北欧に脱出しているころに、入れ違いの入国だったのかもしれない。

 といっても、当時の僕は12歳だったので、とくになにか大それたパンク・ロック体験をしたというわけではない。寄宿舎と一体化した学校もロンドン中心部から離れていたし、少なくとも77年のこの時期には、僕は実物のパンクスを見たことはなかった。Punk Rockの「P」の字も、目にも耳にも入っていなかった。

『スター・ウォーズ』が公開されていなかったから、イギリスでパンク・ロックが流行った!?

 レコード店に行っても、状況は変わらなかった。学校から一番近くの街にあるレコード店のウィンドウに大きくフィーチャーされていたアルバムは、このころ、イエスの『ゴーイング・フォー・ザ・ワン(邦題『究極』)』や、ベイ・シティ・ローラーズの『イッツ・ア・ゲーム(邦題『恋のゲーム』)』だった。店内のどこかにパンク・レコードはきっとあったのだろうが、目には留まらなかった。その店で僕は、最初の『スター・ウォーズ』(エピソード4/新たなる希望)オリジナル・サウンドトラック・アルバムのカセット・テープを買った。

 日本同様、イギリスでも77年の夏は『スター・ウォーズ』が公開されてはいなかったのだ。イギリスのパインウッド・スタジオで撮影し、サントラではロンドン・フィルが演奏しているにもかかわらず……この年の5月に公開されていたアメリカでは、すでにこのとき、大変な熱狂状態にあることを僕は知っていた。だから、せめて音楽だけでも体験しておきたくて、カセットを買ったのだ。『スター・ウォーズ』がやって来なかったから、イギリスではパンク・ロックが流行ってしまったのかもしれない。そんな寒く陰鬱な77年の夏に、ロンドンの映画館で人を集めていたのは『007/私を愛したスパイ』だった。

地下道の落書きとエルヴィスの死

 ふたつだけ、あの夏の僕は、パンク・ロックに関連する体験をした。ひとつは、日にちはよくわからないのだが、鉄道駅の地下道の、コンクリート打ちっぱなしの壁に落書きを発見したことだ。「Sex Pistols」と、そこには大きく大きく、黒いスプレー・ペイントで乱暴に記されていた。グラフィティ・アートとか、そんなものじゃない。似ているとしたら、日本の暴走族による壁への殴り書きか。もちろん僕は、それがなにを意味するのかわからなかった。ただ言葉そのものから、強烈なインパクトを受けた。「セックス」と、「ピストル」という単語から。そこで僕は、ポケット・カメラで落書きを撮影した。

 落書きがあった地下道は、クロイドン駅の近くだった。撮影してから何年も経ってから僕は、マルコム・マクラーレンとジェイミー・リードが60年代に通っていた、クロイドン・カレッジ・オブ・アートがその地にあったことを知った。50年代には「ロンドンの小マンハッタン」と呼ばれたという、つまり中から小規模の味気ないビルが立ち並ぶ、あの無機質な灰色の街並みのなかで、彼らはアートを学び、学生運動をおこなっていた。だからあの落書きは、もしかしたらマクラーレンたちの後輩の仕業だったのかもしれない。

 もうひとつの記憶は、エルヴィス・プレスリーの死だ。8月17日の記憶だ。学校のオリエンテーションの際だったか、イギリス人のまだ若い男性教師が、鼻の先まで真っ赤にして新聞にじっと見入っていることに、僕は気づいた。どうしたんですか、と僕は訊いた。涙声で彼は答えてくれた。「エルヴィスが死んじゃった」と。そして、同僚が読んでいた新聞と自分のを交換した彼は、むさぼるようにまた「キング」の急逝を伝える別の記事を読みふけり始めた。

 若い教師が、そこまで大きなショックを受けていること、悲しんでいることを、僕は不思議に思った。このときの僕の知識のなかにあったエルヴィス・プレスリーとは、決してクールなものではなかったからだ。真っ白なジャンプ・スーツ姿でお腹が出た、太っちょの、ラスヴェガス公演専門のヴェテラン・シンガーといった印象だったろうか。あるいは、そんな姿を元にした、日本のタレントによる安っぽいパロディを幾度かTVで観たぐらいの、おぼろな記憶だったのか。

 小学生時代の僕は、サントラ少年だった。洋画を観ては、あるいは、観ていない洋画であっても、サウンドトラック盤を好んで聴いていた。だからエルヴィスの歌も、映画を通していくつかは知っていた。しかし、とくに食指が動くようなものではなかった。オーケストラ演奏されたスコアか、ジャズ調のテーマ曲なんかのほうが、耳に合っているような子供だったからだ。つまり「ロックの聴きかた」を、僕はまだわかっていなかったのだ。

ピストルズとクラッシュの違い

「エルヴィスも、ビートルズも、ローリング・ストーンズも、いらない/1977年には」と歌ったのは、ザ・クラッシュだった。セックス・ピストルズと並び称されるパンク・ロック・バンドの雄である彼らは、76年に結成。そして77年3月にリリースしたデビュー・シングル「ホワイト・ライオット」のB面に収録されていたナンバー「1977」の一節が、これだった。

 キンクス64年のヒット曲「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト」のリフを援用したかのような、暗く重く、ざらついたギター・サウンドを背に、77年の自分たちがいかに追い込まれているか、抑制された怒気とともに吐露されていく。主人公は職もなく、希望もない。カネ持ちはねたましい。ナイフやマシンガンで、いっそ悪事を働いてやろうか――といった流れのなかで、このライン「No Elvis, Beatles, or the Rolling Stones / In 1977」が登場してくる。

 夢も希望もなく、あとずさりできるような余地もなく、とにもかくにも切羽詰まっている――「労働者階級の」若者ならば、みんなそんなものだろう、という大前提が、クラッシュのこの曲にはあった。つまりピストルズとはまったく違う位相にいる、社会派リアリズムが、彼らの音楽には満ち満ちていた。

 セックス・ピストルズとは「奇策」のバンドだった。突拍子もない「搦め手から攻める」アイデアと不遜な態度、辛辣と諧謔。芸術的罵詈雑言にて、硬直したイギリス社会を大きく切り裂き、パンク・ロックのパイオニアとなった。その背景には、階級社会への、病みに病んでいるくせにいまだ「大国気分」が抜けないイギリス人気質への、すさまじい憎悪があった。被虐者としての自分たちの一身を、そのまま刃物に仕立てて巨悪へと特攻していくかのような、後先ない文化的テロ行為のような、過激性があった。

 そこがクラッシュは、かなり違った。彼らの原動力となっていたのは、「義憤」と呼ぶべき感情ではなかったか。社会正義を愚直に求める、まっすぐな心だ。働いて、食う――あるいは「働かないと、食えない」もしくは「働いても、満足に食えない」……そんな者たちの鬱屈をスポンジのように吸い取っては「肩にかつぎ上げる」ような人物が、メイン・ヴォーカル&ギターにしてソングライター・コンビのひとり、ジョー・ストラマーだった。彼のパーソナリティが反映された部分におけるクラッシュの特質は、言うなれば「真実一路」。まるで「歌う在野の左翼活動家」であるかのように、社会問題に、そこにいる人々の痛みに向き合う精神性があった。地べたに膝を付いて、ひとりひとり、目を見て語りかけるような姿勢があった。それが端正にして激しく、そして「誠実」にして「熱血」の、クラッシュのパンク・ロックを支えていた。

変化のタイミング

 そんなクラッシュにしても、まさか自分たちがあんな歌を発表した途端に、エルヴィス・プレスリーが他界するとは思っていなかっただろう。あの曲はたんに、イギリスの痛みきった現状のなかでは、そこで「傷んでいる」若者にとっては、かつての「ロックスター」たちなんてなんの役にも立たない、と述べているに過ぎない。だから決して、死んでしまえなんて言っていたわけではない。実際問題、ストラマーはロカビリー音楽のファンであり、のちに自身のラジオ番組では、もちろんエルヴィスのナンバーも選曲していた。

 つまり歴史家の目で見てみるならば、事態は、当事者たちが考えていたよりもはるかに急速に、雪崩を打って動いていたということなのだろう。誰も予想できない「変化のタイミング」を迎えていた。「これまで」と「これから」の時代のあいだに、巨大な亀裂が入ったのが、ここ、1977年だった。だから、ありがたいジュビリーの年なのに「あれほどまでにも」パンク・ロックが受けた。パンク・レコードが売れたのだ。

 なぜならば、すでに限界に達していたからだ。ここに至るまでのあいだ、幾度も幾度も、幾重にもとりつくろい続けてきたものが、もはや完全に破綻しようとしていたのだ。

 ジョニー・ロットンが口汚くののしった「イングランドの夢」というものが。戦後のイギリス社会がなんとか維持しようとしていた、社会構造そのものが。

 

【今週の2曲】

The Clash - 1977 Single Version [1977 Single]

これぞクラッシュの「青春の叫び」。1977年がいかにすさんでいたか、この短い曲が能弁に。「「エルヴィスも、ビートルズも、ローリング・ストーンズも」このひどい現実の前には無力なんだ、と説いた彼らのパンク宣言。 

Elvis Presley AI 4K Restored - Unchained Melody + Indianapolis Airport TRIBUTE 1977

「キング」エルヴィス、最後のコンサートより。77年6月26日、米インディアナポリスにて。体重そのほか、ものすごいことになっていますが、しかし「歌」は――これはもう、まったく衰えていないどころか、まさに絶唱と言うほかなく。余人を持って替えられるわけもない「巨人」の夭折だったことが伺い知れる、そんな映像。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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