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預言者としての伊藤計劃―僕という心理実験Ⅺ 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmidt

妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

過去の連載はこちら。

第2章 日本社会と決定論③

預言者としての伊藤計劃 

※今回の記事には『ハーモニー』『メタルギアソリッド3』についてのネタバレがあります。ご注意ください。

伊藤計劃のSF小説『ハーモニー』。人間は長期的欲求と短期的欲求の比較によって、総合的な欲求の最適な解消を目指す行動を選択している。その比較過程を意識上で言語化したものが「意志」と呼ばれるものだと伊藤は主張する。あえて「自由」という接頭語を付けず「意志」と呼ぶのだが、彼のいう意志は現在注目中の自由意志とほぼ同義なものだと考えて良さそうだ。

この意志による選択に対して、「その全てに葛藤がなく、あらゆる行動が自明な状態」がもしも実現されると、一体何が起こるのだろう。つまり、自由意志の存在がそれとして成立しなくなり、それを心から否定できる、いや、もはや否定さえせずに無とみなすような生命が現れると何が起こるのか?という問い。これが『ハーモニー』の最大のネタバレと言える。

自由意志に対して葛藤が生じない時、我々は世界との完全なる調和を実現してしまう。全てに受け入れられる感覚が得られるはずだと、伊藤は予言する。

この予言は特別に新規なものではない。私の本の言葉で言えば、決定した世界の完全なる理解と言えるものだし、西田幾多郎を引用するならば、純粋経験のみで生きられる状態の実現となるだろう。それはブッダの言う「悟り」であり、有でも無でもない「空」のことだ。つまり、太古の昔から予言された存在としての理想状態に過ぎない。
(東洋思想に偏った書き方になったが、西洋思想にも相似形が見出せることは言うまでもない。何度も言うが、東西という概念そのものが邪魔になる。五島列島の隠れキリシタンが“隠れられた”のは、その地に先に仏教があったからだ。神々でさえリレーし、協力出来るのだ。)

次の瞬間、「その時、意識は無くなる」と伊藤は言った。

人体実験の成功で、上記のトランス状態に入った“ミァハ”という少女は、実世界に戻りこう言う。

「恍惚だった。ただぼんやりとした幸福に包まれていた。」そして全てのことを覚えていなかった。

決定した世界を理解した時、人は人で無くなる。

宮崎駿の言う通り(そして阿弥陀仏の本願の)青き清浄の地は約束されていても、今の体のままその地にたどり着けば、血を吐くと言う思想を伊藤は継承した。作品冒頭のナウシカの引用は、意図的なものだった。今の心のまま“人として”、その地には立てないのだ。『ハーモニー』の終局、全ての人間が意識を失い、悟り、幸福となり地球から「私」が無くなった。人は次のステージに移行し、LCLの海のように一つの存在となった。

伊藤は世界の意図に屈したのかもしれない。それは彼の体が既に病魔に冒されていたことと無関係では無かっただろう。

人智を越えた所に世界の意図(情報の拡大)があり、それが戦争(衝突)を起こし哀しみを生む。だが人は、それを消化することで神よりも美しくなる。

悟りを否定すれば良いと思う。最後の審判とその後のヘブンを拒否すれば良い。心(自分)を失ってまで、僕たちはそこに行くべきなのか? ナウシカは哀しみと共に生きることを選び、哀しみがあるからこそ、人間なのだと僕たちを叱咤した。

ミァハは戦渦の中、性奴隷として幼少期を過ごした。人一人が背負えないほどの不幸に、人は涙するしかないが、それでも心には治る可能性が有る。

歌手のmiletの詩では「君の隣で笑うより 君に笑って欲しいのさ。」

「辛く悲しいけれど。人としてBlue Willを信じ、ゆっくり歩こう。」劣ってはいるが、私自信の言葉だ。

皆にもそれぞれ自分の言葉があり、それを使えば良いと思う。知らないことではなかったはずだから。もし特別な言葉が浮かばないなら、「ありがとう」で十分だ。

哀しみを自分の中で消化することは「罪を背負うこと」「罪人としての自覚」であり、それが優しさと呼ばれるものだ。それが僕たちに訪れた不幸の意味だ。自分のために流されるべきだった涙の不在を恨むなら、その涙をあなたが誰かのために流す生き方をする以外に方法が無いではないか。

「賢さ」と言うものがもし実在するとすれば、それは悲しみを知り、それをベースにして他者への思いやりを行動で示す力のことだと思う。

童謡『赤とんぼ』は、元々子供のために作られた歌だ。それが現在では、様々な医療現場・福祉施設で、脳梗塞で倒れた人や失語症の人のためのリハビリに使われている。言葉を失った人でも、不思議と「ゆうやあけ こやけえの あかとおんぼお」と口ずさめるというのだ。言葉より先に歌があったのだから、本当はそれは驚くことではない。自分の意志(優しさ)は、この世界の偶然を必然に変え、自分の内側にずっと有った “本当の事“に気づかせる。

伊藤計劃は2009年にわずか34歳で、全身に転移した癌のために死んでしまう。神は預言者を奪った、これ以上の預言は我々にはまだ早いと。逆に考えれば、世界の意図に屈したからこそ、彼は死んだ。

彼にもまた信じた神がいた、ゲームデザイナーの小島秀夫だ。伊藤の死の5年前、2004年に小島が発表した『メタルギアソリッド3』におけるラストシーンで、主人公スネークは、全ての罪を被った恩人、愛した女、“ザ・ボス”に最後の銃弾を打ち込まねばならない。その引き金を弾く手は、コントローラを弾くプレーヤー自身の指だった。スネークに感情移入していたプレーヤー達は、そのボタンに「所詮ゲームだ」とは言えないほどの重みを感じ、それを押せない自分に動揺し、興奮した。

僕には、そんな伊藤と多くのあたたかい人たちの姿が見えた。彼らは、なぜ先んじて世界の構造(“現実”のマトリョーシカ)に気がつけたのか? それは自分自身で世界を変えよう、世界を作ろうとした者だけが知る「何か」(感性と呼ばれるようなもの)のバトンだった。

私が今この文章を書いているのは、彼らと手を繋ぎたいからだ。それもまた初めから全て決まっていた。
 
<decided>
Flowers will bloom.
itsuka koi suru kimi no tameni.
</decided>

たかがSFの話ではないかと笑うだろうか。マルクス・ガブリエルは言う「何がしかの意味の場に現れたものは実在する」と。情報としてどこかにあれば、全ての物語は実在する。そもそも、オキシトシンやドーパミンで説明される“恋心“だってSFだ。科学とSFに線引きをしないことは、真の平等を目指す新しい生き方になる。厨二病が過ぎると誰かが笑うなら、夏の麦わら帽子を引っ張り出してこう叫べ。

「“厨二王”に!!! おれはなるっ!!!」

(続く)


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