生を祝う|馬場紀衣の読書の森 vol.38
題名のとおり、まさに「生を祝う」のである。
でもこの場合、生を祝っているのが親なのか子どもなのか、あるいは、祝福しているのはべつの誰かかもしれない。生を祝う第三者の存在を想像せずにいられないのは、おそらく自分の誕生の手触りを、誰もうまく語れないからだろう。
流行り病によって世界人口の三分の一が失われた時代を経て、人びとは死をより身近なものと感じるようになった。「いかに死ぬか」は自由の名のもとに大きなうねりとなり、やがて安楽死が合法となった世界。死の決定権を手に入れた人間が、生について考えるようになったのは自然の流れだろう。この世界では、生まれてくるかどうかは胎児が選択できる。それが「合意出生制度」。物語の主題となる、人類にとって理想的な、新しい法制度だ。「合意出生制度」について人は小学校で、たとえばこんなふうに教わる。
主人公の立花彩華も制度には賛成だった。もちろんそれなりの苦労はあったけれど「自分の意志で生まれてきたからこそ、ほんとうの意味で世界を愛することができるし、本当の意味で自分の生を喜ぶことができる」から。その想いは、妊娠したことでさらに強くなっていく。
妻の趙佳織との暮らしも順調で、子どもも母体も健康状態は良好。生まれてくる子どもが送るだろう人生の生きづらさを様々な角度から可視化したデータ「胎児生存難易度計測報告書」の数値にも問題はない。胎児が9か月になると数値は胎児に伝えられ、生まれる〈コンファーム〉か、生まれない〈リジェクト〉選択がなされる。決定権を握るのは子ども自身だ。しかし妊娠中の彩華のもとへ「合意出生制度」以前に生まれた姉が訪ねてきたことで、彩華は制度に疑問を抱くようになる。言葉をもたない胎児にたいして行われる〈コンファーム〉にどんな意味があるのだろう。数字だらけの報告書にどこまで信憑性があるのか。そう感じる読者にとって、前時代に生まれた姉は私たちの代弁者だ。
「数字だけで何故そんな選択ができたのか」「私たちは一体何の権利があって、そんな選択を胎児に強いるのか」。彩華の妊娠を通して、姉の胸のうちが次第に明らかにされていく。お腹の胎児が〈リジェクト〉を示し、出産を〈キャンセル〉した姉は「合意出生制度」の犠牲者ともいえる。
お腹のなかの胎児とちがって、生そのものの重みは不確かだ。幸せの形もあいまいで、自分の選択が間違っていなかったと、そう思うには長い、長い時間が必要なはずなのに現実は待ってはくれない。人びとの願いから生まれた「合意出生制度」は祝いなのか、それとも呪いなのか。現実を裏返したような物語を読みながら、私たちの社会が前提としている現実がゆっくりと崩れていく音が聞こえた。せめて、たった一つ、人生にたしかな喜びが約束されていたらいいのに、そう願わずにいられなかった。