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4:プロトパンクの「傑物」たち——『教養としてのパンク・ロック』第25回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第3章:パンク・ロックの「ルーツ」と「レシピ」とは?

4:プロトパンクの「傑物」たち

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド

 プロトパンクの「プロト(Proto-)」とは、「初期のもの」という意味だ。だから試作品や原型という意味の「プロトタイプ(Prototype)」同様、パンク・ロックとして世に認知される前の段階にあった「パンクの直接的なご先祖様」がプロトパンクとなる。この「プロト」の流れのなかで、「これぞ」と呼ぶべき大物を、いくつかご紹介したい。順番として、まずは「最も古い」アーティストというと――。

 パンク・ロックの「直系のご先祖様」の出発点は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドだということになっている。1964年にニューヨークで結成され、アンディ・ウォーホルに「発掘」された彼らは、言うなれば「闇の帝王」みたいな存在だ。エルヴィス、ビートルズ、そこからたとえばレッド・ツェッペリン、アメリカならイーグルス……といった、お天道様の下を堂々と歩む「ロックの王道」といったような流れの、ちょうど「裏っかわ」の世界に、ヴェルヴェッツは鎮座ましている。

 ゆえに、真っ黒な太陽の下で艶然と微笑む「もうひとつのロックンロール」を象徴するバンドとして、彼らはありとあらゆる「オルタナティヴ」なロック、アート指向のロックの源流となった。ルー・リード、ジョン・ケイルら、ソロ・アーティストとしてものちに大活躍する才人が在籍していたことでも知られる。だからパンクにとっても、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドこそが直系最古の「ご先祖様」なのだ。

ザ・モダン・ラヴァーズ

 このヴェルヴェッツとパンク・ロックを直接つないでしまった、稀有なる「プロトパンク」バンドがある。ボストン出身のザ・モダン・ラヴァーズがそれだ。元ヴェルヴェッツのジョン・ケイルのプロデュースのもと録音した6曲を中心に、おもに72年に制作され(いろいろあって)76年に発表されたファースト・アルバムに収録されたナンバーのひとつ「ロードランナー」を、セックス・ピストルズがカヴァーしている。しかもこの曲は、パティ・スミスにもテレヴィジョンにも「ぴんと来なかった」というスティーヴ・ジョーンズはもちろんのこと、ライドンも(彼らしい言い方で)絶賛していた。かつてライドンは米『スピン』誌にインタヴューを受けた際「すべての音楽が嫌いだ」と言っていたのだが、たったひとつだけの例外だとしていたのが、この曲だった(そのわりには、レコーディングの際には歌詞の大半を忘れていたのだが)。

 まるで自動車や列車の車輪が駆動していく状態をリズムで表現したかのごとき、単調であることを無二の「推進力」へと転化させた、ストレートかつしなやかに強靭なガレージ・ロックンロールが「ロードランナー」で、巷間「プロトパンクの聖典」と呼ばれることすらある。だからピストルズ以外にも、かなり多くのカヴァー・ヴァージョンがある。もちろん、パンク・ロックやそれ以降のバンドによるものが。

 日本が誇るザ・ブルーハーツだった甲本ヒロトと「マーシー」こと真島昌利もモダン・ラヴァーズのファンだ。モダン・ラヴァーズのファースト・アルバムのジャケットにある、ロゴ・デザインをフィーチャーしたTシャツ姿が、写真に残されている。また彼らがザ・ハイロウズ、ザ・クロマニヨンズとバンドを「乗り換えながら」活動しつつ、いつまでも変わらないロックンロール風景の映し絵的楽曲を同じペースで作り続けていく様に、ラモーンズとともにジョナサン・リッチマンの「後年の」創作態度からの影響を僕は見る。

ジョナサン・リッチマン

 モダン・ラヴァーズを率いていたジョナサン・リッチマンは51年生まれ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの大ファンだった彼は、69年、18歳のときにニューヨークに移住――というか、まるで家出のようにして上京して、あこがれのヴェルヴェッツ周辺を徘徊する。スタジオに出入りしたり、ルー・リードのカウチで寝たりしていたこともあったという(具体的には、ウォーホールのあとにヴェルヴェッツのマネジメントを手がけていた、スティーヴ・セズニックの世話になっていたそうだ)。しかしリッチマンのニューヨーク時代は、さしたる成果もないままに(あっと言う間に)終わり、おそらくは失意ののちボストンに帰郷していった彼が結成したバンドがモダン・ラヴァーズだった。のちにトーキング・ヘッズのメンバーとなるジェリー・ハリスン、のちにザ・カーズとなるデヴィッド・ロビンソンも在籍していた。

 この「最初の」モダン・ラヴァーズは74年に終焉する。その後、リッチマンは新たなるモダン・ラヴァーズを結成したり、ソロ・キャリアを積んでいったりするのだが、しかし一度たりとも「最初の音楽性」には戻らなかった。ゆえに日本では、76年以降のリッチマン節、つまりまるで童謡やノヴェルティ・ソングみたいな「ほのぼの」タッチで、往々にしてアコースティック編成や弾き語りにて披露されるポップ・ソングのほうが、より高い認知を得ている。こっちのリッチマン節は、映画『メリーに首ったけ』(98年)のなかで確認することもできる。特別出演ということになるのか、劇中、ここぞというタイミングで登場しては、ギターの弾き語りでストーリーの説明をする(?)役回りを彼が担当していた。

悪夢のインタビュー

 そんなジョナサン・リッチマンに、僕は一度だけインタヴューしたことがある。ありていに言って、ひどい体験だった。インディー雑誌『米国音楽』を僕が編集、発行していたころ、94年のことだ。来日時のリッチマンを東京で取材した僕は、彼のあまりの神経質さ、それを一切隠しもせずに押し出してくるありさまに、完全に圧倒されてしまったのだ。事前にカリフォルニアに住む彼に見本誌を送ったところ、絵葉書で返事をもらい、そこには「イエス、ダイスケ! 日本に行ったら短いインタヴューしようね!」なんて、フレンドリー――すぎる文面ではあった。あとから思うと、たしかに――に直筆で記されていたにも関わらず、なぜああなったのか。その夜僕は、眉毛を「八」の字にして詰め寄ってくるジョナサン・リッチマンの悪夢を見て、うなされた。「それってどういう意味?」なんて、目の前にぐいぐい迫ってくる彼の姿に。

 というリッチマンの過剰反応が起こったとっかかりは、ヴェルヴェッツに関する質問をしたことだった、ようだった。これが態度を硬化させた。さらに「あなたの曲をカヴァーしたり、影響を公言するパンク・ロック・バンドは多い」ということを伝え、「最初の」モダン・ラヴァーズにはある種パンク的な精神があったんじゃないですか、なんて質問を投げかけてみたところ――。

「NO!!(眉毛八の字)。パンク・ロック・なんて・もんとは・一切・僕は関係ない! パンクのバンドが僕の曲をカヴァーしようとしてたけど、みんな上手くいかなかった。それって、僕がパンクなんかと、これっぽっちも関係なかったからだよ。あいつら僕らとは、まったくべつの種類の人間なのさ。あいつらのことなんて、僕は知らない」

『米国音楽』第3号/1994年8月発行より

 とのことで……まあ、このご先祖様(ジョナサン・リッチマン)は、後進組にはあまりやさしくはなかったのだが、しかしそこもまた逆に、客観的には「パンクらしい」のかもしれない(本人は大否定しているのだが)。

 そのほか、ヴェルヴェッツと同じ67年(いわゆるサマー・オブ・ラヴの年)にレコード・デビューしたザ・ドアーズもプロトパンクの枠で語られることもある。もっとも、パンクよりもニューウェイヴやポストパンク文脈でのほうが、ドアーズの影響は大きいように僕には思えるのだが。

デヴィッド・ボウイとマーク・ボラン 

 異なる水源以外から流れてきた「傑物」も見てみよう。先述のガレージ系統からはストゥージズ、MC5があるし、ニューヨーク・ドールズも外せない。ドールズはマルコム・マクラーレンに(パクリネタの)天啓を与えた存在として、別格の位置付けにある。彼らはグラム・ロックに分類されることも多い。

 そしてグラムといえば、まずはデヴィッド・ボウイだ。すでに記したとおり、スティーヴ・ジョーンズやシド・ヴィシャスほか、ロンドン・パンクスにはボウイ信者がとても多い。とくに彼が「ジギー・スターダスト」を演じていた時代、72年からの数年間に「天啓を受けた」連中が無数にいる。また76年以降のベルリン三部作時代は、そのころのボウイのすべてがそのまま、ニューウェイヴやポストパンクの青写真として機能した。音楽性やキャラクター(ペルソナ)をカメレオンのように変転させる「チェンジ」の人、ボウイは、あらゆる瞬間に「後進たちのネタ元」となるような斬新なアイデアを、惜しげもなく公表し続けていたとも言える。またボウイ自身、パンクにはとても好意的だった。パンク・ロックこそ、長いあいだ僕らが待ち望んでいた音楽じゃないかな、といった主旨の発言もあった。そんなボウイももちろんヴェルヴェッツ・ファンであり、ミック・ロンソンと共同プロデュースしたルー・リードのアルバム『トランスフォーマー』(72年、『名盤100』にランクイン)は、リードの代表作となった。

 グラム・ロックとは、70年代に入ったばかりのイギリスにて誕生したサブジャンルだ。ド派手かつきらびやかな衣装に「わかりやすい」刺激的で劇的なロックンロールを特徴とする。だからパンク・ロックと親和性が高いバンドが、多くいた。

 グラムの天地を開闢したのは、マーク・ボランだったと言われている。ボランは自ら率いるトールキン調の幻想的な歌詞を得意とするヒッピー・フォーク・デュオ、ティラノザウルス・レックスをT・レックスと改名。エレクトリックな「ブギー」を核とした、シンプルかつポップでホットなロックンロールに、キャッチーな標語めいたタイトルや歌詞を乗せて大ヒットさせる。ここから「グラム・ロック」の一大ブームが始まった。ボウイもゲイリー・グリッターも、グラム以外のキャリアからの「転向組」だったのだが、この場所で大きな成功を得た。またパンクへの直接的影響は小さかったものの、ニューウェイヴ界では明らかに「ゴッドファーザー」の位置にあったのがロキシー・ミュージックで、彼らはロックンロール・リヴァイヴァル色も強かった。さらに、スーザン・ソンタグが定義した「キャンプ」美学の表出めいた状態はグラム・ロックの随所で見受けられたものの、それを最も濃厚に体現していたのがロキシーだった。これらのグラム各種が、とくに「年若い」リスナーをノックアウトした。

「子供に受けるロック」 

 前項で記したとおり、初期パンク・ロックの主役となった世代は「ティーンになるか、ならないか」のころに聴いた音楽に、とても大きな影響を受けているようだ。つまり逆に言うと、彼らが子供のころには「子供に受けるロック」があった、ということにほかならない。70年代初頭における「それ」の代名詞こそが、グラム・ロックだった。

 ビートルズら60年代前半デビュー組は、サイケ時代を経て、このころすでに「大人モード」となっていた。髪のみならず髭を伸ばし、子供を作り、農場を買って移り住み、ナチュラル・ライフを指向したりしていた。つまり「子供の側」からすると、まるで自分たちの親の「新しいヴァージョン」であるかのような存在と化していたわけだ。

 そんななか、明らかに「年若い少年少女に向けて」強力な電波を発しながらシーンに登場してきたのが、グラム・ロッカーたちだった。だから77年に急逝するマーク・ボランが、自らのTVショウにパンク・バンドを盛んに出演させ、ダムドとツアーをおこなったのは、たんに新世代に媚びていたわけではない。「自分のリスナーだった」ような若者たちと交流し、あたたかく支援していたのだと僕は見る(実際、ダムドのベーシストであるキャプテン・センシブルは、ステージ上でT・レックスのTシャツを着ていたことがある)。

 だからこう言い換えることもできる。パンク・ロッカーにおける「リープフロッグ型発展」とは、いつもいつも「ガキ向けロック」を触媒として起こるのだ、と。60年代の「第一屈折」組の音楽も「第二屈折」組のそれも、グラム・ロックも、明らかに全部が全部「年若いリスナーに向けて」のものだった。若者が、自分と同じぐらいの若者か、もっと年下の聴き手に対して「歌いかけている」ものが基本型だった。ここに「強く反応する」のが、どうやらパンク・ロッカー特有の心性だと言えるようだ(例として最もわかりやすいのが、ラモーンズだ)。

パブ・ロック

 そのほか、パンク・バンドへの直接的影響のほどは判然としないものの、パンク・ロック・ブームよりも前に(あるいは、直前に)シーンにて稼働していたという意味での「プロト」バンドも多くある。

 たとえばラモーンズのレコード・デビューよりも先に、同じニューヨーク出身のバンド、ザ・ディクテイターズのファースト・アルバム『ザ・ディクテイターズ・ゴー・ガール・クレイジー!』が発売されていた(75年3月)のだが、彼らが影響を受けた音楽は、ラモーンズのそれとかなり近い。ゆえに73年結成のディクテイターズは、たとえばラモーンズよりも早く「サーフ・ガレージのリヴァイヴァル」を果たしたバンドとして、あるいは「直近もの」プロトパンクの代表選手として、今日では再評価されている。

 同様の例をイギリスで見るならば、パブ・ロック・バンドの活躍だ。その名のとおり、イギリス人の魂の寄りどころである居酒屋兼交流の場「パブ」をおもな演奏場所とする、シンプルな編成のロック・バンドが、70年代前半に増殖した。プログレッシヴ・ロックやハード・ロックなど、どんどん重厚長大になっていく「最新の」メジャーなロックのトレンドに辟易した層が「ひと昔、ふた昔前の」音楽へと向かっていった動きがこれだ、と分析されている。つまり音楽的な動機という点では、かなりパンク・ロックと近かった。

 そんなパブ・ロック・シーンを代表するバンドのひとつが、ドクター・フィールグッドだ。「殺し屋の目をしている」個性派ギタリスト、ウィルコ・ジョンソンを擁する、ソリッドで切れ味いい「特殊な」R&B調ロックを得意とするバンドだ。つまりフィールグッドに代表される「R&B寄り」のバンドがすでにそれなりにパブ・ロック・シーンで成功をおさめていたがために、すこし年下のピストルズらパンク世代は「ブルースからは距離をとった」という側面があったのではないか、とも僕は考えている。

 また同シーンには、カントリー音楽寄りのバンドも多く、ニック・ロウを擁したブリンズリー・シュウォーツが有名だ。こっち系統の「卒業生」はパンク/ニューウェイヴ・シーンに多く、エルヴィス・コステロもそのひとりだ。ジョー・ストラマーはロカビリー寄りのバンド、ザ・ワンオーワナーズ(The 101'ers)の一員だった。イアン・デューリーも、キルバーン&ザ・ハイ・ローズを率いて、パブ・ロック・シーンからキャリアを開始した。

レゲエの大波

 そしてこれは「プロトパンク」と呼ぶわけにはいかないのだが、パンク勃興期直前にイギリス全土を「レゲエの大波」が襲っていたことも忘れてはならない。クリス・ブラックウェルのアイランド・レコードから、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのメジャー・デビュー・アルバム『キャッチ・ア・ファイア』が発売されたのが73年。翌74年にはエリック・クラプトンがマーリーの曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカヴァーして、全米1位のヒットとしたため、世界の音楽シーンに「レゲエ・ブーム」が引き起こされたのだが、そもそも60年代からずっと下地があったイギリスでは、とくにすごいことになっていた。そんな「波」のなかから吹き出してきたのがパンク・ロックだった、という見方すら可能だ。そして実際に、こんな人物もいた。パンク・ロックのオムニバス・ライヴでバンドが入れ替わる幕間のDJタイムにレゲエ・ソングをかけ続け、パンクスに「レゲエを教化」していった第一人者が、映像作家でもあるドン・レッツだった。マクラーレンとウエストウッドの店のライバルと目されることもあったクロージング・ストア〈アクメ・アトラクションズ〉の経営者でもあったレッツは、ドキュメンタリー映画『パンク・ロック・ムーヴィー(原題:The Punk Rock Movie)』(78年)を撮り、クラッシュのMVの多くを監督した。この界隈では、パンクとレゲエの境界線は、事実上、まったくないに等しかった。

【今週の8曲】

The Velvet Underground - Sister Ray

『ストレンジャー・シングス』よろしく「裏側の世界」にて燦然と輝く黒い太陽こと、元祖・闇の帝王ヴェルヴェッツが、最も豪快に針を振り切った68年のセカンド・アルバム『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』に収録。全17分超、ジョン・ケイル謹製のノイズ奔流とルー・リードのロックンロールがからみ続ける官能のナンバー。

The Modern Lovers - Roadrunner

幾多のパンク/ガレージ・バンドがカヴァーした「ロードランナー」の、これぞモダン・ラヴァーズによるオリジナル。ロゴTシャツも、いまでも人気。

New York Dolls - Jet Boy (1973 UK TV OGWT Performance)

BBCの「夜のヒットスタジオ」こと『ジ・オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』出演時のニューヨーク・ドールズ。おそらく、のちのパンク・ロッカーのかなりの数が「このパフォーマンス」を観ていたはず。

David Bowie - Starman (Top Of The Pops, 1972)

そして72年、これぞシド・ヴィシャスもスティーヴ・ジョーンズも魂焦がした(はず)の、伝説的テレビ・パフォーマンス。BBCの「ザ・ベストテン」こと『トップ・オブ・ザ・ポップス』にて、ジギー・スターダスト化したボウイが「スターマン」を熱唱!

T. Rex - Get It On (1971)

といった時代の先駆けにして「グラム・ロックの代名詞」とくればこちら。この艶やかさ、いかがわしさ、そして「身の軽さ」! キッズの好む要素をてんこ盛りに。

The Dictators - California Sun

64年にザ・リヴィエラズがヒットさせたサーフ・ガレージ・クラシックを「ラモーンズに先駆けて」カヴァーして70年代に転生させたトラックがこちら。プロレスラーでもあったヴォーカリスト、ハンサム・ディック・マニトバを擁する彼らのファースト・アルバムに収録。

Dr.Feelgood - She Does It Right

R&B系パブ・ロッカーの雄、ドクター・フィールグッドのTVライヴ。ソリッドにして、やくざちっく。地廻り系スーツ姿も、ウィルコ・ジョンソンの「高速前後移動」も、すべてにおいてストリート臭ふんぷん。このありさまが「パンクの引き金」になった。

Bob Marley & The Wailers - Punky Reggae Party (1978)

77年7月に発表のシングル曲だったこちらは、ロンドンのパンク・ロック・シーンとレゲエの混淆について、御大ボブ・マーリーが高らかに称揚した讃歌。ダムドやジャム、クラッシュにドクター・フィールグッドの名も歌詞に登場。パリでのライヴ録音である当ヴァージョンでは、フランス人観客による「ニューウェイイイイヴ!」大合唱の声も。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki


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