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「伏線回収」という問題――エンタメ小説家の失敗学33 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第6章 オチのない物語にしてはならない Ⅲ

「結局、何が言いたいのか」

 僕はおおよそそのような信念(「美学」と言い換えてもいい)のもとに、この作品(『桃の向こう』)をこのような形に仕上げ、自分としてはそれで何ひとつ疑問を抱いていなかったのだが、おおかたの一般読者の反応は、僕自身の狙いとは乖離したところにあった。

「煌子は結局、どうなったのか」「煌子のその後が気になる」「結局、何が言いたいのか」――ネット上には、そうした感想が目立った。「そうした感想がメインだった」と言ったほうが正確かもしれないほどだ。

「こうであった」という確定的事実を明示するよりも、「こうだったかもしれない」「ああだったかもしれない」という想像の余地を残すほうが、物語として美しく、表現としても適切だと思えることが、僕にはしばしばある。物語には、一意的には定められない多義性が必要だと思うからだ。しかしそういう流儀は、エンタメ文芸の一般読者には通用しないことが多い。

 ミステリー小説において、提示された謎は必ず寸分の隙もなく説明し尽くされなければならないように、未解明の問題として提示されたもの(『桃の向こう』においては、「煌子はどうなったのか」という問題)は、作中にそのまま放置してしまってはいけないのだ。

 そうした要素は、読者には「伏線を回収できていない」とみなされてしまう。それによって、ともすれば作品そのものの評価も下げられてしまうのである。

 たしかに、伏線は回収すべきだと僕も思う。ただしそれは、回収する対象が文字どおりの伏線であるかぎりにおいての話だ。僕が作中になんらかの要素を放置しているとすれば、それは回収しそびれたとか、回収を怠ったとかではなく、それがそもそも伏線ではなかったからだ(見落としが絶対にないとは言わないが、事前に詳細なプロットを組み立ててから本稿の執筆に取りかかる僕にかぎって、そういう意味での疎漏はほとんど考えられないと思う)。

 煌子の身の上や、そこに至るまでの経緯が不可知のものに留まることは、思えばこの長篇小説の発端となった、短篇としての『桃の向こう』の段階で、すでに運命づけられていた。その中で僕が何よりも描きたかったのは、桃林の向こうに目撃した煌子の変わり果てた様子と、来栖がそれに対して、手を伸ばして触れることが憚られるような一種の禁忌の感覚を覚えることだった。これに続く章の中で、「煌子はなぜそうなったのか」を逐一説明してしまったら、くだんの場面が持つ詩的な奥行きのようなものが損なわれてしまう――僕はそう判断していたのである。

 その判断がまちがっていたとは、僕は今でも思っていない。しかし、「伏線を回収できていない」と評価されないためには、伏線と見紛われかねない要素(すなわち、オチをつけずに放置しておく要素)は、なるべく作中に挿入しないほうがいいと言うことはできる。

 あるいは純文学としてなら、こうした煌子の位置づけなども許容されるのかもしれない。考えてみれば、原型となった短篇『桃の向こう』は、純文学作家を目指していたアマチュア時代に書いたものだったのだ。「売れている本」を読み漁って、エンタメ文芸の「文法」を習得したつもりになっていた僕でも、あいかわらず純文学的な手法への執着を捨てきれていなかったらしい。もっとも、純文学サイドから見れば、その『桃の向こう』も、「純文学としてはウェルメイドすぎる」という評価になってしまうのかもしれないが(第1章参照)。

『ラス・マンチャス通信』の文庫化

 煌子に関して「オチがついていない」というこの問題点だけに原因を帰せしめるつもりはないものの、先述のように、『桃の向こう』は売れなかった。

 その残念な結果があらわになるまでは、角川書店は本当に僕に期待してくれていたと思う。それは、『桃の向こう』発売に一ヶ月先立って、『ラス・マンチャス通信』を角川文庫のラインナップに入れてくれたことにも表れている。

 このデビュー作の単行本は、日本ファンタジーノベル大賞受賞作として新潮社から刊行されたものだが、第3章で述べたとおり、新潮社は、単行本時代に一度でも重版がかからなかった作品については、文庫化を見合わせるという原則で動いている。したがって、『ラス・マンチャス通信』も新潮文庫には入っていなかった。

 もっとも新潮社も、『ラス・マンチャス通信』は絶対に文庫化しないと宣言していたわけではなく、単行本でも重版がかかったということで先に文庫化された二作目『忘れないと誓ったぼくがいた』の売れ行きを見据えながら検討していくとの意向を示していたのだが、僕としては、デビュー作がいつ文庫化されるかもわからないまま、埋没していってしまうことを恐れていた。

 実は、「新潮社さんが文庫化しないならぜひわが社で」と、『ラス・マンチャス通信』文庫化のオファーを提示してきた版元は、角川書店のほかにも四社あった。しかし、タイミング的に、この際、長いつきあいになりそうな角川書店にお願いするのがいちばんの得策だろう、とその時点での僕は判断したのだ。角川文庫もまた、新潮文庫と肩を並べるほどメジャーなレーベルだったからだ。

 しかしこの作品は、文庫でもやはり売れなかった。そこに、単行本『桃の向こう』の売れ行き不振が重なった。それでも担当編集者は、僕をどうにかして売れるラインに引き上げようとその後もあれこれ骨を折ってくれたのだが、企業としての角川書店が僕を見限るのは、驚くほど早かった(その詳細については、「〈コラム〉文芸出版業界の奇妙な慣行」を参照されたい)。ことに『桃の向こう』は、不遇な目に遭った。文庫化どころか、電子化すらしてくれなかったのだ。したがって現在、この作品を読むには、図書館に赴くか、紙の中古本を手に入れるかしてもらうよりほかにない。(続く)


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