見出し画像

ネットのレビューに打ちのめされる――エンタメ小説家の失敗学28 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第5章 「編集者受け」を盲信してはならない Ⅴ――漂流する原稿

巨大な壁

 さしあたっての問題は、大見栄を切って新潮社から引き上げてしまった『ネオテニーたちの夜明け』の引き取り先をどうするかだった。とりあえず、『プロトコル』を出してもらった実業之日本社の担当編集者にメールで率直に経緯を明かし、かけあってみたところ、担当者本人は驚くほどの好反応で、「前のめりに検討させていただきます!」と即答してくれた。

 ところが、ほっとしたのもつかのま、その次のステップで、事態はひと息に暗礁に乗り上げてしまった。社内の企画会議に通らなかったのだ。理由は明瞭だ。この年にはまず『ブロトコル』のスピンオフである『有村ちさとによると世界は』の単行本が、次いで『プロトコル』の文庫版(当時創刊したばかりだった実業之日本社文庫の、創刊ラインナップに加わっていた)が出たが、どちらもまったく売れていなかったのである。もちろん『プロトコル』は、単行本時代にも売れていない。

 この時点ですでに、少なくとも実業之日本社内では、「平山瑞穂は売れない(だからこれ以上、平山瑞穂名義で本を出すことはできない)」というジャッジが下されていたのだと思う。担当者個人の評価や思いだけではどうにもならない巨大な壁が築かれてしまっていたのだ。

 二つ返事で原稿を引き受けるようなことを言ってしまっていた手前、実業之日本社の担当は非常に申し訳ながってくれて、個人的な伝手を使って、PHP研究所の若手編集者を紹介してくれた。PHP研究所といえばビジネス書のイメージが強かったが、この頃には、すでに文芸書にも手を広げ、専門の部署も設けられていたのである。

 そして、紹介されたK氏は、僕とは面識もなかったにもかかわらず、原稿を非常におもしろがってくれて、改稿もほとんど求められないまま、わりとトントン拍子に刊行が決まった。しかも、数年後の文庫化も、最初から織り込み済みになっているという。願ってもないありがたい話で、捨てる神もあれば拾う神もあるのだな、と実感したことをよく覚えている。

 ただし、編集長の意見もあって、改題は余儀なくされた。『ネオテニーたちの夜明け』では作品の内容が想像しにくいので、もっと直截的なものにしてはどうかと提案され、いくつかの案を示された。そのどれも、僕としてはちょっと違和感があったのだが、この際、本にしてもらえるのなら細かい点にはこだわるまいと考え、ある案で応諾した。結果としてこの原稿は、二〇一二年六月、PHP研究所から、『大人になりきれない』として刊行された。

『大人になりきれない』改題。

衝撃の指摘

 無事、刊行に漕ぎつけられたことはよかったのだが、原稿がこちらに引き継がれてから、僕が最初に衝撃を受けたのは、原稿に対する担当K氏の反応だった。もちろん、おもしろがってはくれたし、だからこそ本にもしてもらえたわけだが、それに際して、彼はこういう意味のことを言い添えたのである。

「こういう人はたしかにいるなと思う一方で、 “これはひょっとして自分のことなんじゃないか、人からは、自分はこう見えているんじゃないか”と不安になります」

 正直に言うが、この感想を聞かされるこの瞬間まで、読者の中にそういう反応を示す人がいるかもしれないという発想は、僕の中にはかけらも存在しなかった。いたとしてもわずかであり、おおかたの読者は、「こういう奴、いるいる!」と同感してくれるだろうと思っていた。僕は、彼らにそうして笑ってもらうことだけを想定して、例の三人を描写していたのだ。

 N氏の反応に一抹の不安を覚えながら、僕はこの本を世に放った。身近な人々の間では、おおむね好評だった。それはひとつには、同じ職場だった元同僚などの場合(この時点で、僕はすでに勤務していた会社を退職していた)、モデルが誰であるかが自明で、それがおもしろかったからという楽屋オチ的な側面もあったとは思うし、いずれにしても、僕が日ごろ親しくしている人々は、ものごとの感じ方などが自分と同質であることが多いから、それもある意味で当然のことだったのだ。

ネットのレビューに打ちのめされる

 ところが、ネットでレビューを見たとき僕は、多くの読者が、むしろN氏と似たような反応を示していることにわが目を疑った。いわく、「この三人はたしかにイタいけど、自分も陰では同じように言われているのかなと怖くなる」「誰だって大人になりきれない部分は持っていると思う。自分も含めて、誰しも似たり寄ったりなのでは?」「自分も会社勤めしていた頃はこうだったのかもしれないけど、自分なりに一所懸命だった」などなど。

 僕は唖然として、ある意味でそれに打ちのめされてしまった。

 某ネット書店にアップされたレビューは特に手厳しく、「私は書かれている側の人間にシンパシーを感じて、筆者の傲慢に腹が立った。作家にも関わらず、イタいという、個性を殺す言葉を好む筆者に(ママ)軽蔑した。おそらく二度と読まないだろう」と★ひとつで一刀両断していた。

 一応、弁明しておくが、僕が本作で「イタい」という語を使用したのは、「黒いランチ」などにおけるカギカッコ内の話し言葉の中だけのことだ。それは、主人公三人のような人々に対して、こうした文脈で使用される嘲りの表現として、その言葉が現在の世相に照らして最もアクチュアルなものだという認識に根ざして採用したものにすぎず、僕個人がこの語彙をことさらに「好んで」いるわけではない。

 また、「傲慢」と謗られることにも、最初は違和感を覚えた。僕はただ単に、「こういうタイプの人も存在するよね」と指摘しただけのつもりだったからだ。しかし次第に僕は、自分がたしかに「傲慢」であったことを認めざるをえなくなり、このレビュアーが言っていることもゆっくりと胃の腑に落ちてきた。

 僕は、世間の多くの人々は、僕と同じ視点で、三人の主人公のことを笑ってくれるものと思い込んでいた。ところが実際には、彼らの多くは、むしろこの三人に近い側にいたのだ。そのことが僕には、まるでわかっていなかった。それをわかったつもりになっていた僕は、たしかに「傲慢」きわまりなかったのだ。

 くだんのレビュアーは、こうも言っている。「自分の尺度が頑丈で、強い人間から見れば、大人になっても未熟で、未だ青春を送る人間が痛く見えるのだろう」――そうなのかもしれない。僕は、なにかにつけ迷ってはしくじってばかりいる自分のことを、ことさらに「強い人間」だなどと思ったことはないが、僕が見立てていたよりも、世の中の人々の多くは「弱い」のかもしれず、僕は自分が思いのほか「強い」ことを、少なくとも、彼らから見れば「強い」人間に見える側に属しているということを、自覚していなかっただけなのかもしれない。(続く)


光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!