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ポスト・ポストモダンの文学|佐々木敦『90年代論』第5回

80年代の文学

 90年代の文学は、80年代とはかなり異なったものであったと言えます。デケイドは――特に日本の場合は――直前の十年間からの転換、しばしば反転を志向する(あるいは見出そうとされる)傾向があります。「もはや○○年代ではない!」ということです。文学にかんしても基本的には同じで、90年代の文学シーンには百花繚乱だった80年代とは色々な面で違った価値観や特色が求められる空気があったと思います。

 80年代を代表する作家といえば、まず何といっても村上龍と村上春樹の「W村上」が挙げられます(この呼称もすっかり使われなくなりましたが)。正しく言うと二人は70年代後半のデビューで、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が1976年、村上春樹の『風の歌を聴け』が1979年に発表されています。W村上に続いて、1981年に高橋源一郎が『さようなら、ギャングたち』で、1983年に島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』で、1987年に吉本ばななが『キッチン』で、それぞれデビューしています。この五人が「80年代を代表する作家」であることに異を唱える人はほとんどいないのではないかと思います(現在は小説家としての活動をあまりしていませんが、1980年に『なんとなく、クリスタル』でデビューした田中康夫も、典型的な「80年代作家」です)。

 私は以前『ニッポンの文学』(講談社現代新書、2016年)で、W村上の登場に始まる日本の現代文学史/小説史を通覧してみたので、詳しくはそちらを参照していただきたいのですが、今から振り返ってみても、多くの意味で、80年代作家たち、とりわけ村上春樹の出現は、日本文学史の重要な結節点だったと思います。文学というジャンルに留まらない米英文化からの影響、ライトでポップな読みやすい文体、描写の減少と会話の増加、そして「僕」というカジュアルな一人称など、春樹が日本文学に持ち込んだ要素は、もちろん前例がないわけではないですが、その後の日本語小説に多大なる影響を及ぼしたと言えます。

 先に名前を挙げた他の作家たちも、もちろんさまざまに異同はありますが、おおむね同様の傾向を持っています。つまり、基本的にはエンターテインメントや中間小説とは一線を画した高級芸術ということになっていた「純文学」をより幅広い読者層に押し開いたこと(もちろんこれも先例はありますが)、すなわち文学の大衆化と、輸入文化(海外文学)との共振です(吉本ばななはちょっと違うかもしれませんが)。そしてそのような変化を準備し、底支えしたのは言うまでもなく、この時代の日本の経済的な上昇曲線でした。高度経済成長からバブルへと突き進んだ80年代の空前の好景気は、文学の世界にも決定的な影響を与えたのです。

「ポストモダン」とは何か

 「80年代作家」は、80年代の日本社会のありようと切り離しては考えられない。むろん、それはいつの時代にも言えることですが、戦後日本でもっとも経済的に豊かだった80年代という(今から思えば)特殊なデケイドに次々と登場した「ニッポンの文学」の書き手たちは、とりわけ時代状況と緊密な関係を結んでいたと言えます。

 80年代は、しばしば「ポストモダン(の時代)」と呼ばれています。この言葉自体、かなり厄介なものであり、特に日本では定義も用法も定まっているとは言えませんが、私は『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009年/増補新版、ちくま文庫、2023年)で、次のように述べておきました。

 「ポストモダン」という言葉は、もともとは60年代後半にアメリカの社会学や芸術批評の文脈から出てきたもので、70年代末から80年代にかけては建築や文学などの分野でも盛んに標榜されました。日本語にすれば「近代以後」です。つまり「近代=モダン」の「後=ポスト」ということなわけですが、その意味するものは、はっきり言って論者によってまちまちです。
 しかし「80年代ニッポン」の「ニューアカ」の時代に導入されてひとしきり喧伝され、その後、東浩紀の『動物化するポストモダン』まで、さまざまな変奏を経てゆくことになる「ポストモダン」論のきっかけははっきりしています。それは間違いなく、ドゥルーズやデリダと並ぶ「ポスト構造主義」の哲学者であるジャン=フランソワ・リオタールによる『ポスト・モダンの条件』とう本が翻訳されたことです。この本は1979年に原著が出版され、1986年に邦訳が刊行されました。(中略)
 リオタールは、この本のなかで、「モダン」の時代を支えていた、「人間」の理念と実践の一致を「正当化」する「普遍的」な「価値」を担う「大きな物語」群、たとえば「自由」「革命」「正義」などといった概念が、今日の現実においては失墜し、もはや成立しがたくなってしまっていると述べ、それが「ポスト近代」の特徴だと言っています。「大きな物語」とは「理想」や「大義」と言い換えてもいいものだと思います。他にも色んなものが代入出来るでしょう。「マルクス主義」とか「美」とか「文学」とか、そもそも「人間」や「正当」や「普遍」や「価値」だって「大きな物語」です。
 そして、ここからはリオタール自身の記述というよりも、『ポスト・モダンの条件』出自の「ポストモダン」論の「ニッポンの思想」におけるパラフレーズということになるのですが、「大きな物語」が終わった後には、無数の「小さな物語」が散乱したまま残されることになります。この「小さな物語」を、リオタールはウィトゲンシュタインに倣って「言語ゲーム」と言っていますが、もっと大まかな意味で、それは「小さな価値観」というか「それぞれの価値観」というか、たとえば「趣味嗜好」に代表されるような「個別的相対性」とでも呼べるだろうと思います。こうして「ポストモダン」は、いわゆる「価値相対主義」(すべての価値判断は相対的であり、絶対は絶対にない)を導き出すことになります。これをどう評価するのかが、これ以後の「思想」の歴史では重要なポイントになっていきます。
 「大きな物語」が終わって「小さな物語」の時代が始まるという「ポストモダン」の「物語」は、すぐに二つの壁にさらされます。第一に、それが当たっているのかどうかということ。ここには「大きな物語」は本当に終焉したのかという問いと、そもそも「大きな物語/小さな物語」という二項対立の問題設定がおかしいのではないか、という問いとが含まれます。第二に、もしも当たっているとしたら、それは肯定すべきことなのか、それとも批判するべきなのか、ということです。
 リオタールの母国であるフランスや、あるいはアメリカではどうだったのかはともあれ、「80年代」なかばのニッポンにおいては、「70年代」以来の政治性やイデオロギーへのアレルギーと、折から急速に進行していた大衆化と消費社会化との掛け合いによって、第一の壁は難なく乗り越えられました。プレ・バブルという浮き足立った状況のなかで、「ニューアカ」の「思想」自体がそうだったように、「ポストモダン」もまた「現在」を肯定する便利な用語として受け入れられていったのです。そうして第二の壁も、あっけないほど簡単に越えられてしまいました。とにかく「80年代」は、かつてないほどにモノとコトが溢れかえる時代だったのですから。「大きな物語」なんか別に要らなくて(というかもう沢山で)、よりどりみどりの「小さな物語」さえあればよかったのです。
 こうして「ポストモダン」は、あっという間に流行語みたいになってしまいました。何よりも、自分たちが「昔(=近代)」とは決定的に異なる「新しい時代=ポスト近代」を生きているのだという感覚は、素朴な意味でも何となく心地よいものだったのだと思います。

(『ニッポンの思想』)


ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』小林康夫訳、書肆風の薔薇、1989年。


 「ニューアカ(デミズム)」とは、80年代前半に浅田彰と中沢新一という二大スターの登場によって巻き起こった、主に海外の現代思想を研究する若手のアカデミシャンが専門領域を超えてメディアで持て囃された流行現象です(ニューアカも「輸入文化」のひとつです)。80年代の「ニッポンの思想(=ニューアカ)」と「ニッポンの文学」はポストモダンというキーワードによって結びつき、人脈的にもさまざまな交流がありました。そして「ニッポンのポストモダン」は何よりもまず第一に経済的な要因によって生じた。「80年代作家」たちも、大なり小なりバブルの恩恵を蒙っていた。つまり日本の「ポストモダン文学」は「バブルの時代の文学」でもあった、ということです。『さようなら、ギャングたち』や『なんとなく、クリスタル』のような小説は、この時期でなければ書かれることはなかった。いや、書かれることはあるとしても、あれほどの評価や人気を獲得することはなかったのではないかと思います。

 さて、では、バブル崩壊後の90年代になると、日本文学の状況はどのように変わっていったのか。この変化の象徴ともいうべき作家が存在します。保坂和志です。

保坂和志の「何も起こらない小説」

 保坂和志は1956年生まれ。1990年に『プレーンソング』が「群像」に掲載されて小説家としてデビューします。彼は西武百貨店の社員として池袋コミュニティ・カレッジの企画運営を行なっていました。いわゆるカルチャースクールの走りである略称コミカレは今もありますが、保坂は人文系、芸術系のカリキュラムの講師選定などに携わっていました。しかし本人もインタビューなどで度々言っているように、小説家を目指していたので、なるべく書くための時間を確保できるようなラクな仕事を選んだのだそうです。もともと文学以上に哲学や思想に関心があった保坂は、自分のアンテナに触れた気鋭の学者を進んで講師に起用していました。彼がコミカレで辣腕をふるっていた時期はほぼ丸ごと80年代に相当しています。時代はニューアカでポストモダンでした。当然ながらそのような文脈に属する顔ぶれも講師のラインナップには含まれていたでしょう。保坂自身もそこから得るもの、学ぶものが多々あったのではないかと思います。前にも触れましたが、西武百貨店=セゾンは「80年代文化」の最大のインフラでした。保坂はそこに勤めながら小説を書き続け、新人賞ではありませんでしたが縁あって「群像」の編集者の目に止まり、ちょうど90年代が始まった年に『プレーンソング』で世に出ることになったわけです。


保坂和志『プレーンソング』中公文庫版。


 こうしてみると保坂和志は、ややデビューが遅かったとはいえ、むしろ「80年代」的な作家になっていてもおかしくなかったと思えてきます。彼は村上龍(1952年生まれ)とは4歳、高橋源一郎(1951年生まれ)とは5歳しか離れておらず、島田雅彦(1961年生まれ)や吉本ばなな(1964年生まれ)よりも年上です。しかし『プレーンソング』は、多くの点で「80年代」とはかなり異なる価値観やモードを体現した、90年代の日本文学の新たな気風の始まりを告げる作品になっていたのです。冒頭を引用してみます。

 一緒に住もうと思っていた女の子がいたから、仕事でふらりと出掛けていった西武池袋線の中村橋という駅の前にあった不動産屋で見つけた2LDKの部屋を借りることにしたのだけれど、引っ越しをするより先にふられてしまったので、その部屋に一人で住むことになった。

(『プレーンソング』)

 なんともサラリとした書き出しです。口語体ではないのだけれど、「いたから」「だけれど」といった言葉遣いのそっけなさが、かえって妙に新鮮に感じられる。この調子でずっと進んでいくのですが、文体だけなら村上春樹とそれほど違わないのでは、と思われるかもしれません。しかし、春樹のデビュー作『風の歌を聴け』は、明示的に書かれていないだけで、語り手の「僕」にとって極めて重要な過去の出来事を回想するという構えになっており、その意味ではドラマ=物語が実は明確に存在している。しかし『プレーンソング』は読み進めていっても「ドラマ」と呼べるような出来事は特に何も起こりません。描かれるのは執筆当時の作者と同年代(30代前半)と思われる語り手が自分より年下の20代の若者たち3人と共同生活を過ごす日々ですが、女性が含まれているからといって恋の鞘当てのようなことは起こらない。80年代に一世を風靡したトレンディドラマ『男女7人夏物語』(1986年)や、あるいはのちの時代の『テラスハウス』みたいな展開にはまったくなりません。

 作品紹介でも、たとえば「猫と競馬とともに生きる、四人の若者の奇妙な共同生活。〝社会性〟はゼロに近いけれど、神の恩寵のような日々を送る若者たちを書いたデビュー作」(中公文庫版の紹介文)や「特別な事件は起こらず、何気ない日常生活のありのままを述べた作品」(文化庁JLPP(Japanese Literature Publishing Project)翻訳コンクール課題作品紹介文)など、ドラマ性、物語性の希薄さが特長に挙げられていることが多い。要するに「何も起こらない小説」というのが、保坂和志のデビュー作に対する評言でした。そして、なぜこんな言い方がやたらとされたのかといえば、それはやはり当時としてはかなり珍しかったからだと思います。

『プレーンソング』ほど「何も起こらない」小説は、それ以前にはなかった。あるいは、あったとしても評価されなかった。この点は重要です。まず前提として「何も起こらない」という表現が果たして正しいのか、という問いもあります。保坂和志自身はそのような指摘を一蹴しており、この小説の中ではたくさんのことが起こっているではないか、と主張しています。私もそうだと思います。しかし問題は、多くの読み手が「何も起こらない」と感じてしまうような性質が『プレーンソング』には明らかにあったということであり、そしてまた、そんな「何も起こらない」を肯定するのか否定するのか、プロの読み手の評価も二分されたということです。この点にかかわってもう一点触れておきたいのは、また春樹との比較になりますが、『風の歌を聴け』では「僕」がなぜこの物語を書くに至ったのか、という経緯が小説のはじめで語られます。もちろん「僕」は村上春樹その人とは別個の虚構の語り手であるわけですが、それでもそこには『風の歌を聴け』という物語の切実な動機らしきものを読み取ることができる。

 しかし『プレーンソング』には、そのようなものがない、語る/書く動機が不明なのです。強いて言うなら「小説を書きたかったから」であって、それは物語られる内容以前の話に思われる。動機すなわち必然性が不明、おそらくそのようなものはないのではないか、このことが物語性の希薄さとも繋がっている。

 春樹に限らず、村上龍にも、高橋源一郎にも、島田雅彦にも、吉本ばななにも、田中康夫にも、切実さの度合いや種類はまちまちですが、わざわざ小説などという面倒なものを書くだけの動機らしきものが当の小説の内部に埋め込まれており、読者はそれを探り当てることが可能だった。しかし保坂和志には、それと同じ意味での動機がふわっとしているように見える。むろん会社員生活の傍ら地道な執筆を何年も続けてきたのだから切実さがなかったはずはない。けれども『プレーンソング』には、なぜこの小説が書かれなくてはならなかったのかという、まあそれも一種のフィクションなのですが、そうした存在理由を読者に差し出す感じがほとんどない、それはただ、そこにある、という感じなのです。

「神の恩寵」のような時代

 第2章でも書きましたが、『プレーンソング』が「群像」に一挙掲載された時、私はコミカレと同じセゾングループのミニシアターで働いていました。当時の劇場支配人(のちにご自身も作家になった方ですが、現在は筆名で活動されているため、ここでは名前は伏せます)が出たばかりの雑誌を映画館に持ってきて「西武の人が群像でデビューした!」と盛り上がっていたことを記憶しています。私もそれで読んでみたのだと思います。まさに『プレーンソング』の登場人物の年齢だったこともあり、淡い共感を抱きつつ読み終えた覚えがあります(舞台となる中村橋駅がたまたま私が上京して最初に住んだ街だった――当時はすでに引っ越してましたが――ことも感慨深かったです)。あらためて読み直してみると、この小説は「何気ない日常生活のありのままを述べた」どころか、高度に人工的で技巧的な作品に思えますが、私もはじめて読んだ際には、その「何も起こらない」がしっくりきたし、感銘も受けたのでした。

 それにしても、中公文庫の「〝社会性〟はゼロに近いけれど、神の恩寵のような日々を送る若者たちを書いたデビュー作」というフレーズは(誰によるものかは知りませんが)実に見事な評言だと思います。「社会性」のなさは当時の作品評でも度々指摘されており(先の言葉はそれらを踏まえてのものだと思います)、あとで述べる「保坂スクール」のより若い作家たちに対してもしばしば向けられることになる、端的に言えば批判的な言辞です。

 しかし、ここで注目すべきは「神の恩寵のような日々」というところだと思います。この「神の恩寵」とは――書いた人の意図は不明ながら――非常に卑近に言ってしまえば「バブル」のことです。まさに私自身がそうだったのですが、バブル景気とは、一義的には高額所得者と豪奢な生活を意味しているわけですが、それと同時に、当時の私のような非常に低収入(週6でフルに働いていても映画館員の収入など知れたものでした)の明日をも知れぬ若造もそれなりに暮らしていける、ということでした。使えるお金は少ないが生活はできるし時間だけはある(私はそれもあまりありませんでしたが)ということです。それはバブリーという形容詞によって表されるような浮き足立ったライフスタイルとは似ても似つかないものでしたが、それでもバブル景気の「恩寵」を受けていなかったとは言えない。「何も起こらない」とは「何もすることがない」ということであり、何もすることがなくても生きていけるということ、やや身も蓋もない言い方になりますが、それこそが「神の恩寵」だった。そして、そのような生活を送る青二才に「社会性」を要求しても、それはいささか無理ゲーというものではないでしょうか? 

 『プレーンソング』での保坂和志の登場は、このような「バブルと、その終焉」の時代、90年代のとば口の気分を(結果として、かもしれませんが)見事に表象しています。正確に言えば、保坂は「80年代の終わり」と「90年代のはじまり」を架橋するようにして現れた書き手であり、「バブル」と「バブル以後」、「ポストモダン」と「ポストモダン以後」の、いわばシームレスな断絶を、いち早く示し得た作家だと思います。『プレーンソング』という「何も起こらない」だけではない、そしてほんとうは「何も起こらない」わけではない、新しい種類の小説が1990年という年に出現したことの意味/意義は極めて大きなものだった。保坂和志はその後、1993年に『プレーンソング』の続編に当たる『草の上の朝食』で野間文芸新人賞を、1995年に「この人の閾」で芥川賞を受賞、その後も数々の文学賞を受賞し、文壇(という旧態依然とした呼称は保坂には似合いませんが)での地位を盤石なものにしていきます。保坂が選考委員を務めた文芸各誌の新人賞など彼の周囲からデビューを果たした作家たち、柴崎友香、青木淳悟、磯崎憲一郎、山下澄人などを、かねてより私は「保坂スクール」と(敬愛を込めて)呼んでいます。この中でもっともキャリアの長い柴崎友香のデビューは1999年であり、ちょうど90年代の終わりに当たっています。そして柴崎の小説も「何も起こらない小説」と評されることになるのです。

 「90年代の文学」を語る際、保坂和志は疑いなく最重要作家のひとりです。ここにもう一名、保坂より4年ほど遅れてデビューを果たした、同じく「90年代作家」の代表的存在と言える重要な作家がいます。そう、阿部和重です。

(つづく)


佐々木敦(ささき・あつし)
1964年、名古屋市生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。多目的スペースSCOOL運営。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学、立教大学などで教鞭もとる。文学、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで批評活動を行っている。『ニッポンの思想 増補新版』(ちくま文庫)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『映画よさようなら』(フィルムアート社)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)、『「教授」と呼ばれた男 坂本龍一とその時代』(筑摩書房)など著書多数。最新刊は『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)。

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