子どもの文化人類学|馬場紀衣の読書の森 vol.56
ものすごく大切なことが、とてもていねいに、とても分かりやすく書かれている。子どもの育ちかたも育てかたも社会によってさまざまで、その子どもがもつ面白さや悩みや才能は親ですら計り知れないのだ、ということが実証的かつ直感的につづられた本だ。
たとえば極北の雪原に暮らす狩猟民ヘヤー・インディアンの子どもは、小さい時から自分のからだとどう付きあうべきかを学んでいる。冬になれば氷点下50度にもなるこの地で、テントをねぐらにする彼らのからだはしんそこ冷えきってしまうことがある。食物となる動物が獲れなくなると、彼らはテントを畳み、荷物と子どもを犬ぞりに乗せて移動するのだけど、そりで運ばれるような子どもはまだ歩けないから、凍結した湖を進むときなどは眉毛もまつげも霜がおりて白くなる。でも、泣いたりしない。涙を流すと、目や鼻が凍って凍傷になることを知っているから。眠くても、眠らない。死んでしまうことを知っているから。だから睡魔と一生懸命に戦うのだ。
たき火をするときも、どんなにからだが冷えていても、小さい子どもはすぐには火に近寄らせない。「まず、自分で雪をかたくかためて顔にあて、凍りかけた顔をとかし、足ぶみをし、からだをほぐしてから、はじめて火のそばに行かせてもらえる」のだ。でないと、半ば凍傷になりかけた状態の肉が落ちてしまう危険がある。
文化人類学、というタイトルが示すとおり、この本は著者みずからのフィールドワーク経験をもとにして書かれている。ヘヤー・インディアンのほかにもインドネシアのジャカルタ・アスリ(ジャカルタ生まれの人たち)やオラン・ジャワ(ジャワ人)、アメリカ東部の子どもたち、そして著者自身の子育てについても言及される。環境や習慣の異なる社会で暮らすたくさんの親子を見てきた著者は、国柄や時代差について語りながら、それでいて、どの国の子育てが優れている、というような書きかたは決してしない。優しい言葉で、私たちが当たり前と思いこんでいる(あるいは思いこまされている)学びの在りかたに疑問を投げかけるにとどめている。そういう意味では、著者の観察眼には容赦がないともいえるかもしれない。それはたとえば帰国して、日本の教育制度について述べた文章に表れている。
「日本に帰って来て、まわりを見まわしたとき、子どもも、青年も、『教えられる』ことに忙しすぎるのではないかと思うようになりました。もちろん、はじめに述べたように、私たちが住んでいる現代日本の文明社会においては、一定のカリキュラムにもとづいた教育が必要であることは認めます。しかし自分の心に浮かぶ好奇心を自分のペースで追求していくためのひまがない子どもが多いことは、悲しいことだと思います。」
教育のために自発的な喜びが犠牲にされているとしたら、これはとても不幸なことだと思う。本自体は古いものだけれど、今まわりを見まわしてみても教育の「ペース」は遅くなるどころか加速していくばかりだ。地球上のあちこちで花火のようにあがるトピックについていくのもやっと、という慌ただしさを理由に子どもたちのことをないがしろにするわけにはいかない。そういう大切なことが、ここにはたくさん書きつけられている。