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アートとフェミニズムは誰のもの?|馬場紀衣の読書の森 vol.31

18世紀の後半に女性の政治参加を求めて始まったフェミニズムは、さまざまなトピックと結びついて社会に浸透しつつある。今や議論の中心にいるのは女性だけではない。子どもにも男性にも開かれたこの言葉を耳にしない日はないし、火種はあちこちにくすぶっているし、というわけで、それに対して好意的であれ否定的であれ、無視はできない状況にある。ただ、それが「何か」と問われると、ぼんやりとした印象があるばかりでよくわからないという人も多いのでは。現代アートもそう。どちらも分かりづらく、すこし窮屈で、一部の人が熱をあげているように見えるのだ。

そもそも、よく見えない、ということが私たちを戸惑わせている。アートもフェミニズムも「そこにあることはわかっているのだけど、見通しが悪くてその実態がよく見えない」から困るのだ。見えにくいものなら、まずはよく見てみよう。目的地は美術館。美学研究者である著者が現代社会の差別的な構造をていねいに紐解いた本書も力になってくれる。そうして注意深く観察すると、やたら裸の女性が多く描かれていることに気づくだろう。

イメージの歴史の転換点で女性の裸はひとつの基準のようなモチーフとして、新しい表現にトライするときに使われてきたのです。例えば、ピカソの《アビニョンの娘たち》もそのひとつの例と言っていいでしょう。ルネサンス以降は特に、ヌードの作品に着目することで、美術史におけるそれぞれの時代の表現の特徴が見えてくると言っていいほど、女性の裸はよく描かれてきました。
ここからわかるのは、女性の裸が長らく「見られる対象」として一般的な「モノ」だったということです。

村上由鶴『アートとフェミニズムは誰のもの?』光文社新書、2023年。


たとえば「男性のまなざし」の観点からいえば、「萌え絵(萌え系のちょっとエッチな絵)」をめぐる問題は、イメージのエロさやその度合いにあるのではない。性的欲望を喚起するようなイメージがいたるところにある現象と、イメージの置かれる場所の権威性や公共性こそが問題なのだ。ジェンダーステレオタイプな描写が広告に用いられることで、男性中心主義的な社会がより強化される可能性もある。このように視覚芸術における女性の肌や露出へと向けられる「男性のまなざし」への着目は、ジェンダーの視点から作品を読み解くひとつの指針になる。

著者は、アートには「みんなのもの」になろうとするエネルギーがあるという。男性至上主義という癖が、ひとりひとりの態度、ひとつひとつの価値判断と意思決定の積み重ねによってつくられてきたものであるなら、ひとつひとつの選択が大きな変革を作り出すかもしれない。

「フェミニズムを使ってアートを読み解くことは、批判的に考える勇気を持つこと」であり「あらゆる対象について、差別的な構造を温存する読み方をしない」ということだ。まずは、読み解きかたを身に付けること。そうすれば、美術館の外でもさまざまな事象に応用できるようになる。フェミニズムはけっして額縁の内側だけで起きているのではないのだから。本書によって、アートワールドだけでなく社会生活を批判的に考えられる読者が増えてほしいというのが作者の望みだ。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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