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Q7「パンクは親ナチなのか? それとも、逆?」——『教養としてのパンク・ロック』第11回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ

〈8〉Q7「パンクは親ナチなのか? それとも、逆?」

「ナチ・パンクス・ファック・オフ!」

 これについては「残念ながら」との枕詞を置いた上で、パンク・ロックとナチの関係は浅からず、と言わざるを得ない。全体的には、あらゆる意味でナチ思想と戦うパンクスが圧倒的大多数ではあるものの、しかし「親ナチ」どころかネオナチそのもののパンクスも、いまもなお、少なからずいる。

 たとえば81年には、米ハードコア・パンク・バンドのデッド・ケネディーズが「ナチ・パンクス・ファック・オフ!」というタイトルの曲をシングルで発表して、戦いを挑んだ。「目を醒ませ」とキッズに呼びかけた。つまり、わざわざ呼びかけざるを得ないほどの状況があったのだ、と理解していただきたい。

 タイトルのとおりこの曲は、ナチ・モチーフを身に付けたり、ナチ思想にかぶれたりするパンクスをストレートに批判したものだ。全編たった1分強という短さながら、すさまじく速いテンポのもとで幾度も幾度も「ナチ・パンクスくそくらえ!」と繰り返される。こんなラインもある。「まだスワスティカ(Swastia=カギ十字という意味の英語)がクールだと思ってんのかよ/本物のナチがお前の学校仕切ってるぜ/運動部のコーチやビジネスマンや警官だ/本物の第四帝国なら、お前まっさきに特攻する奴だ」――。

 印象強いこの曲は、93年にはグラインドコアの雄、ナパーム・デスにカヴァーされた。また2015年には、A24製作のホラー映画『グリーン・ルーム』でも使用された。劇中、ワシントンDCの売れないパンク・バンドが、ポートランド郊外のライヴハウスでこの曲を演奏する。しかしよりにもよってそのハコは、暴力的な白人至上主義ネオナチ・スキンヘッド集団で満杯。奴らは殺人まで犯す。襲いかかってくるそんな連中からバンドは逃れられるか?――というストーリーの一作だった。

 要するに、80年代も90年代も、現代においてもなお――いや、さらに勢いを増して――ナチ・パンクス的な連中は存在し続けている。極右スキンヘッズのなかに「パンク流れ」の層がいる。つまり、こういうことだ。かつて図らずもキッズの「ナチ化」を推進してしまったのもパンクだし、ナチ化したキッズやその主張に対抗する最前線に立ち、身を挺して戦うのもまたパンクだった――というのが、偽らざる現実だ。

 そんな構図が、パンク・ロック文化のなかには連綿と存在し続けていた。そしてこのような分裂が起こってしまった起点は、パンクの歴史のごく初期に生じた。 

「ナチ・モチーフ」への安易な接近

 まずはっきりしているのは、とくにムーヴメント黎明期において、パンク・ロック界隈における「反ナチの気運」は低かった、ということ。つまり脇が甘かった。だから「過激なモチーフ」という点で、あろうことか、ナチ・イメージへと安易に接近していくという愚を犯す者が、少なくなかった。ゆえにパンク・ロック由来の一部スタイルが「未来のネオナチの温床」とも、なってしまった。この顛末について、具体的に腑分けしてみよう。

 最初に着目すべきは、パンク・ファッションにしばしば見受けられる「ナチ・モチーフ」だ。たとえばハーケンクロイツ(Hakenkreuz=カギ十字という意味の独語)は、Tシャツの柄やパッチ、缶バッジなどで、パンク・ロック初期より頻繁にそのスタイルのなかに登場していた。これを流行らせた元凶はというと、やはりヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンだった、と見るのが正しい。彼女らがセディショナリーズの商品である「アナーキー・シャツ」に、ハーケンクロイツのパッチを縫い付けたのが大流行のきっかけだった、とも言われている。

 とはいえ、ふたりはとくにナチ信奉者というわけではない。マクラーレンに至っては、母方がユダヤ人だ。なのに、なぜ?――というところの「考え落ち」にこそ、じつは「教養」の毒が、失敗があった。教養ゆえの、頭でっかちの、上滑りだった。

「シチュアシオニスト(状況派/状況主義者)」

 1968年のフランスでは、いわゆる「パリ五月革命」の嵐が吹き荒れていた。学生層を中心とした体制への異議申し立てであり、街頭でのデモや騒乱そのほか、戦いが繰り広げられていた。そのなかには、芸術を通しての「闘争」もあった。若き日のマクラーレンとウエストウッドは、この闘争に大きな影響を受けていた。具体的には「状況主義」と日本では呼ばれるものだ。あるいは、フランス語の発音に準拠して「シチュアシオニスト(状況派/状況主義者)」と呼ばれる立場――これはフランスの文化批評家、映像作家、マルクス理論家のギー・ドゥボールが中心人物となった運動に関わる者たちの総称だった。

 シチュアシオニストとは、まず資本主義社会を否定する。大量消費や商業主義、マスメディアによる洗脳が浸透した状態を「スペクタクルの社会」として敵視する。とはいえ「東側」の共産主義的国家主義をも否定する。だから巨大な怪物(=スペクタクル社会)に対抗する状況(Situation)を芸術を用いて構築、もって革命的「意味の改変」をおこなうことを目標とする。状況の構築については、20世紀初頭の芸術運動であるダダやシュルレアリスムの発想や手法が、ここで再活用された。

 たとえば「剽窃(Détournement)」と呼ばれる手法。これは「社会的に強力な象徴」を芸術的モチーフとして再現してみることで、まったく別の(ときには逆の)意味の表象へとすり替えてしまう、というもの。「あまりにも資本主義的な」マクドナルドのロゴや、ディズニー・キャラクターのイメージを、表現上での処理方法により「忌まわしいもの」へと化けさせてしまうような方法論だ。資本主義の懐に入り込んで、まるで資本主義を礼賛するかのようにして――しかし確実に「内部から腐らせていく」ような戦法だ。

 そしてこの「剽窃」こそが、マルコム・マクラーレンの十八番、得意技だった。言うなれば、服屋の経営もピストルズへの関与も、彼がおこなった行為はすべて、この「剽窃」手法による芸術的表現だった、と解することもできる。シチュアシオニストとしての彼の、まさに十年戦争の帰結こそが、ピストルズだったのかもしれない。若きバンドを、まさに彼の思想という弾丸を世に広めるための「ピストル」に仕立て上げて……。

凶悪なデザイン

 そんな意図のもと、ハーケンクロイツのパッチはアナーキー・シャツに縫い付けられた。シャツには同時に、中華街で買ったカール・マルクスの肖像画パッチが縫い付けられていることもあった。ナチと共産主義を「隣り合わせ」で並べる――というシチュアシオニストの方法論によって「混沌」を表現しようとしていたわけだ。しかし当然のことながら、両者のうち、より刺激性の高いモチーフだったハーケンクロイツばかりが人目を引いて、おそらくは作り手側の思惑をはるかに超えて「流行」してしまう。

 ピストルズのメンバーのなかでは、シド・ヴィシャスがハーケンクロイツを身につけた写真が多く残されている。またライドン(ロットン)も、セディショナリーズの人気商品「デストロイ」ガーゼ・シャツを着せられている(「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」MVのなかでも着用している)。これは一連の問題モチーフのなかでも群を抜いて凶悪なデザインの一品で、こんなグラフィックが胸いっぱいにプリントされていた。まずは十字架にかけられたキリスト像が逆さに刷られ、そこにハーケンクロイツが「多重的」に乗っかり、最後に上部に大きく「DESTROY(ぶっ壊せ)」と文字が記されているもの――だからまあ「ナチ(やアンチ・キリスト?)なんてぶっ壊せ」と言っているようにも見えるし、たんに「ナチ(やアンチ・キリスト?)の名のもとに『破壊せよ』」と言っているようにも見える――というデザインだったので、大いに物議をかもすことになった。

 そして、あまりのインパクトゆえにこのデザインは流行ってしまい、有名なところでは、大成功したローリング・ストーンズの78年「サム・ガールズ」アメリカ・ツアーの際、ミック・ジャガーがテキサス公演のステージ衣装としてデストロイ・プリントのTシャツを着用していたことが、写真や映像に残されている。

『ロック・アゲインスト・レイシズム(RAR)』

 そんなことになったのだから、当然、模倣品も含めて、パンク・ファッションのそこらじゅうにカギ十字が使われまくることになった。そしてこんなモチーフを付けて悦に入っているうちに、思想的に感化されて、本当に国粋主義者になるパンクスも増えていく。このころちょうど、どんどん勢いが増していたイギリスの極右政党、国民戦線(ナショナル・フロント)と、一部パンクスの蜜月も始まっていく。

 つまり頭をスキンヘッドにして、米空軍由来のフライト・ジャケットMA-1やサスペンダーで吊ったリーヴァイス、ドクターマーチンのブーツなどで身を固めた青少年たち――元来これは60年代中盤、モッズの後継のひとつとして世に広まった、スカやロックステディ、レゲエを好む労働者階級のスタイルだったものが、世代が下っていくにつれアイデンティティが変化し、サッカー・フーリガンの流儀も合流した上で、極右化していった――が、ユニオン・ジャックのモチーフを好んで身に着けては、ナチス・ドイツ式敬礼をしながら集団で行進する光景が目立つようになったのは、このころが最初だ。だから今日にまで国際的に蔓延する「ネオナチ」スタイルとしてのスキンヘッズの原点は、イギリスの「ここ」だった。同国のユース・カルチャーが、結果的に生み出してしまった化け物がスキンヘッド・ファシストであり、パンクにて結実した「戦後のそこまで(モダン)の総決算」が、影の領域の総決算をも促進してしまったのかもしれない。

 であるから当然、UK産の国粋主義や人種差別思想や言説への反駁や対抗策には、数多くのパンクスが積極的に関わった。そして前述の『ロック・アゲインスト・レイシズム(RAR)』が、パンク・ロック初期における、同趣旨の最大イベントとなった。

 パンク隆盛の背景には、絶望的な不況に苦しむイギリス社会があった。人々の不満の捌け口を、黒人やアジア系などのマイノリティや移民への差別や暴力へと求める層がいた。ここに「NO!」を突きつけた運動体がRARで、その活動のハイライトとなったのが、78年4月30日、10万人を動員したデモ行進と最終目的地でのコンサートだった。ここにザ・クラッシュ、トム・ロビンソン・バンド、X・レイ・スペックス、レゲエのスティール・パルス、フォーク・パンク創始者のパトリック・フィッツジェラルド、さらには「Oi!(オイ!)」と呼ばれるスキンヘッド・パンクスに人気のバンド、シャム69のジミー・パーシー(クラッシュといっしょに「白い暴動」を歌った)も参加した。その模様は『白い暴動』(19年)というドキュメンタリー映画にもなっている。

 【今週の2曲と映像3つ】

 dead kennedys - nazi punks fuck off (live)

デッド・ケネディーズによる元祖「ナチ・パンクスくそくらえ」を82年のライヴで。MCも必聴。

 

The Rolling Stones: Some Girls, Live In Texas: Trailer


ミック・ジャガー「デストロイ」Tシャツ着用の証拠。78年のテキサス公演が映像作品になったときのトレイラーがこちら。全編でジャガーは脱いでいるか「デストロイ」のどちらか。これで大丈夫だったのかアメリカ人。

 映画『白い暴動』予告編


日本では20年に公開された映画『白い暴動』のトレイラーがこちら。ただ日本側で結構作り込んでいるので、映画本編の雰囲気は、オリジナル・トレイラーのほうがよくわかるかも。 

 White Riot UK Official Trailer | In Cinemas 18 Sept

こっちがオリジナル。危機的な状況にあった77年から78年当時のUKの様子が垣間見える作りとなっている。

Sham 69 - If The Kids Are United ( Promo video)

と、そんな状況下で、好漢ジミー・パーシーが渾身の力を振り絞ったのが79年のこのナンバー。「俺らキッズが連帯すれば、絶対に分断されはしない!」と歌い、お互いを認め合うこと、あらゆる差別を乗り越えて「共に立つ」ことを訴えた。のちの世の2005年にもこの曲は話題となった。当時の英首相だった「クール・ブリタニア野郎」ことトニー・ブレアが労働党大会で演説する際の入場曲として使用したからだ。このときはパーシーもBBCにコメントしていた。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki


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