淘汰時代の農業サバイバル【Vol.3 十勝清水コスモスファーム】難しくておもしろい「鮮やかな撤退」と「心地よい縮小」
『農家はもっと減っていい 農業の「常識」はウソだらけ(光文社新書)』の著者である(株)久松農園代表の久松達央さんによる個別無料コンサルティング。第3弾は、北海道十勝地区で肉用牛の一貫生産をしている十勝清水コスモスファームの安藤智孝さんが、公私にわたる今後の方向性について相談しました。
6刷決定!
コンサルレポート第1弾はこちら。
コンサルレポート第2弾はこちら。
今回の相談内容
農業を始めてから7年間、目の前の課題を解決しながら経営を続けてきた。しかし、いざ借金の返済の目処が立ち先が見えてくると、今後どうすればよいのかわからなくなった。
『農家はもっと減っていい』著者の久松達央さんによるコンサルティング
TPPの議論を契機に公務員から経営者へ
――北海道へ入植してからずっと農業をされているのですか。
安藤智孝(以下、安藤)北海道開拓の歴史としては4代目ですが、うちの牧場の経営者としては2代目です。父方も母方も入植以来農家だったのですが、父も母も外で働いていました。父は農協の職員でしたが、1986年、父が33歳のときに一念発起して、「肉牛をやりたい」と働きながらお金を借りて立ち上げたのが有限会社コスモスという農業生産法人です。
久松達央(以下、久松)なるほど。80年代後半の十勝は、先駆けて、これから日本国内でも起こっていくであろう集約が進んでいましたね。集約が進んで離農する人も多かったし、規模拡大する人も多い時代だったと思うんです。夢もありますよね。
安藤 その時代に、父は1億円くらい借金して牛舎を建てました。この地域は酪農が盛んで、ホルスタインが多いので、雄牛が生まれたときに肥育する牧場として素牛80頭でスタートしました。(註:素牛は9カ月齢程度の子牛)
久松 いきなり80頭ってのは“十勝感”だね。
安藤 始めて2年後に父が交通事故で亡くなりました。私が小学校5年生のときでした。熱意があって、知識も技術も持っている人が急にいなくなってしまって…。やめたくても借金が1億円あるんですよ。やるしかないねって。
久松 子どもの頃から重いものを見ていますね。
安藤 母が精神的に追い詰められているのを小さい頃によく見ていたので、「絶対にビジネスなんかやるか」、「絶対に継がないぞ」って子どもながらにすごく思っていましたね。高校から札幌で寮生活を始め、その後、東京へ、さらにアメリカへ留学しました。大学の先生になりたくて大学院へ進学しました。
久松 継ぐことは考えていなかったんですね。
安藤 まったく!ゼロです。大学院を修了してから神奈川県庁のアカデミックな財団で3年間働いて、「公務員も悪くないな」と思い、28歳で試験を受けて帯広市役所に入りました。
久松 なぜ、帯広だったんですか。
安藤 妻は、留学時代に知り合ったアメリカ人です。財団で働いていたときに長女が生まれることになり、神奈川で2人だけで子育てするのは大変なので、どちらかの実家があるシアトルか十勝か…。それで十勝へ引っ越しました。ただ、その時点では死んでも継ぐ気はなかったので、公務員になりました。
久松 市役所ではどのようなことをされていたのですか。
安藤 色々なことを経験させてもらいましたが、そのうち2年間は、市役所からの出向で帯広信用金庫にお世話になり、農産物や加工食品の販路拡大や商品磨き、物産展の支援などの食関連産業の支援の仕事をさせてもらいました。
――なぜ、そこから就農したのですか。
安藤 2013年、僕が33歳のときにTPP(環太平洋パートナーシップ:12カ国間で、交渉が進められてきた経済連携協定。日本は2017年にTPP協定を締結。牛肉に関する合意内容は、牛肉の関税率38.5%を、16年目の最終税率9%へ)の議論が持ち上がり、「このままだと十勝農業は大打撃だ」という空気が醸成されていました。外国産の牛肉が安く入ってくるようになると、ホルスタインの雄牛と輸入牛のマーケットが完全にバッティングするんです。そうなったら、母の牧場はつぶれると思いました。当時、従業員数も多かったので、昔から知っているお世話になったおじちゃんやおばちゃんたちはどうするのかという気持ちもありました。「僕がやってダメならみんなも納得してくれるかな、やらずに市役所にいる人生よりいいかな」って。
久松 かなり重い選択だ。
安藤 いや、重かったです。
久松 金融機関にいたし、経営上の数字も見ることができたんですか。
安藤 わりと見れるだろうとは思っていましたが…後悔しました。2年先に出荷する牛を今作っているのですが、2年先がどんな状況かなんて想像できないですよ。肉牛の場合、どんな相場になっているのかわからないのに、牛舎を空けておくわけにはいかないので、今、買わなきゃいけない。完全に博打なんですよ…。為替でも大打撃で、餌代も高騰しています。
久松 TPPで輸入物が入ってくるどころじゃないっていう(笑)。
安藤 そうそう、全然(笑)。輸入牛が入ってきても、このくらいの価格なら戦えるわって。予想と全然違いましたね。
牧場以外の赤字事業からの撤退
――安藤さんが入られてからの変遷を教えてください。
安藤 軽い感じで入って、なんとかなるだろうという見通しはあったんですよね。でもその時点で、パートさんも含めて従業員が30人ほどいました。当時は牧場だけでなく、レストランとガソリンスタンドの経営もしていたのですが、牧場以外は全て赤字でした。母に「そっちをなんとかしなさい」と言われまして…。「牛をやるために戻ったのに」とは思いましたが、まずはレストランとガソリンスタンドからスタートしました。
久松 今もあるんですか。
安藤 クローズしました。ガソリンスタンドは危険物の免許まで取得してガッチリやってみましたが、やればやるほど無理だとわかりました。2014年4月に僕が入って、同年の11月に閉店しました。
久松 ああ、すごい。
安藤 レストランは、その後2年間は頑張ってみましたが、こちらも閉店しました。
久松 立ち入ったことを聞きますが、お母さんはまだいらっしゃるんですか。
安藤 2018年に代表を交代して、母と共同経営者には4年前に卒業してもらいました。母に「借金と社員は僕が背負うから、やりたいことやっていいよ」と言ったら、「牛を極めたい」って言われたんですよね(笑)。「それなら僕が代表にならなくてよくない?」って。62歳でまた金を借りて、母と共同経営者で小さい牧場を始めたんですよ。ふざけんなと思いましたが、幸せそうなんです。だからね、ある意味でよかったなって。
久松 安藤さんの人生の前半戦のテーマは「超える」かもしれませんね。でも、それがモチベーションにもなっていたんでしょうね。
安藤 そうですね、いつか超えなきゃいけない存在だとは思っていましたね。そうでもなければこのエネルギーは出ていなかったでしょうね。
ブラウンスイスをきっかけに「自分で売る」ことをはじめる
――安藤さんが入られてから牧場一本にしたんですね。
安藤 はい。2014年頃から同時並行で加工部門をスタートさせて、コンビーフやビーフジャーキー、カレーを作りはじめました。
久松 加工と販売に力を入れてやってこられたんですね。
安藤 たまたまです。ブラウンスイスという全国で5,000頭しかいない牛がいるんですが、ざっくりいうと雄が生まれると持って行く場所がないので、すぐに処分されていました。2010年に、当時の代表だった母が、「ブラウンスイスの雄が生まれたら全部引き取る」と宣言しちゃって、北海道中の酪農家からブラウンスイスがくるようになりました。母としては「農協に売ればいい」と思っていたらしいんですけど、農協は「買いません」と。まあ、そうですよね、誰も買わないんだから処分されていたわけなので。
そんな経緯で、自分たちでブラウンスイスの雄を売らなくてはいけなくなり、それで加工品を作って、ブランディングに手を染め始めました。
久松 なんでホルスタインの雄牛は肉として売れるのに、ブラウンスイスは売れないんですか。
安藤 一番は、数が少なすぎて知名度がないからですね。
久松 そんな話か。
安藤 はい。世の中、誰も知らない肉がポンと出されたときに「これなんですか?」と思うと、誰も買わない。そうなると、お肉屋さんは扱わない。売り先がないので、肥育農家は育てない。肥育農家が買わないから、酪農家で生まれた雄は行き場所がない。
久松 じゃあ、肉質の話ではないんですね。
安藤 全然ないですね。結局、ホルスタインは何10万頭もいて、安定的に雄が生まれるので、いわゆる安定供給ができるんですが、ブラウンスイスは全国で5,000頭しかいないので安定供給に対応できないんですね。そうすると、そこは物流にならないというか。マスに対応できないから、そこにマーケットが存在しなかったんでしょう。なので、自分たちでマーケットを作ってきました。ただ、正直言うと、7年、8年やってきて、今までお肉を無駄にしたことは1回もないんですけれど、黒字かっていわれると、まあ。
久松 牧場のブランディングにはなってるけれど、それが柱として育っていない。
安藤 おっしゃる通り、本当にうちのフラッグシップとしてしか存在していなくて。実は、このブラウンスイス事業は、去年宣言して今年度でやめるんです。2010年から12年やっているんで、「ブラウンスイスといえばコスモスファーム、コスモスファームといえばブラウンスイス」にはなったのですが。
ただ、コロナ禍で高級レストランが休業して肉が動かないし、加工品を作っても物産展も中止になったので売る場所がない。その分をオンラインの販売だけでは相殺できない。苦しい1年が続きました。さらにこの1年に、円安、その前に餌代がぐっと上がった時期がありました。牛は毎日そこにいるわけで、餌を食べるんですよ。これはもう無理だろうと、全ての関係先にも周知して去年の5月で新しい子牛の受け入れはやめました。
久松 結果的に、ブラウンスイスはフラッグシップになったし、大事なことだった。けれども、今考えると安藤さんがブラウンスイスでやろうとしてたことは、もう少し規模が小さい農場がやることですよね。もしくは、何か主軸となる組立ができた上で、二の矢として放つみたいなものかもしれませんね。
安藤 あとは、最初の価格設定をもう少し慎重にやればよかったです。2017年時点で、「うちがプライスリーダーだ」と気づいたのですが、当時は価格設定とマーケットがわかっていなかったし、使ってくれるところに頭下げてそれなりの価格で出しちゃったという反省はあります。在庫が積み上がることにビビっちゃって。「とにかく売らないと!売れればいいや!」と。あれが失敗でしたね。痩せ我慢ができなかった。1回それをやると、軌道修正がすごく難しくて。今思えば反省です。
久松 確かに。でも、それは参照をするものがないんだし仕方ないですよ。この経験は大事ですよ。安藤さんのように、その不退の決意で、本腰を入れて「自分で売る」ことをやらないと。農協に投げることを保険にして、片足突っ込む形で何かを自分で売って、売れ残った分は全部農協や市場に投げるってことを農産物だけがやっていますが、それじゃだめですよ。調整弁にされる市場に何が起きるかなんて、農業外の人間が考えればわかることじゃないですか。僕は、農家の弱いところは在庫リスクを取らないところだと思っています。
ホルスタインから撤退し和牛メインの牧場へ
久松 今のメイン事業はホルスタインの肥育なんですか。
安藤 実はですね、最も多いときで2,400頭のホルスタインがいて、うちが主軸として30年やってきたホルスタイン事業は4年前に全てやめました。TPPで価格競争力が下がることが予想されたし、性判別液を使ったホルスタインの生み分けで雄の出生率が全国的に年々下がってるんで、これを続けても…と。
久松 すごい規模ですね。いや、僕、十勝の酪農や畜産を知らないから。2,400頭はえぐいな。
安藤 2,400頭のホルスタインを肥育して、年間で1,800頭くらい出荷をしていました。ピーク時でホルスタインの肥育だけで6億円くらいの売上がありました。もちろん関係者にも仁義を切って、やめるのにも2年くらいかかったのですが、順繰り順繰りで少しずつ撤退を進めて、少しずつ空いた牛舎に、和牛と和牛交雑牛を増やしていき、今は総頭数が1,100頭ぐらいです。同じ施設の中でピーク時の半分以下ですね。
――そこまで大きな売上があったのにやめる決断をされたんですね。
安藤 入口と出口の話だけじゃなくて、地域で事業をやっていたこともあります。うちは、生産組合の中の1社なんですね。ほかの農家と同じ規格のホルスタインを出荷していて、年間で5,000頭の出荷のうち、1800頭を出荷していました。最大の供給元ではあったのですが、要は横並びでみんなで会議で意見を出し合って農協にぶつけて、農協がそれを受けるか受けないか、みたいな形で合意形成が進んでいたんです。その合意にうちの経営が全部左右されるわけですよね。そこにうちの経営のオールを任せていいものかと思ったのもあります。
久松 安藤さんの場合は、安藤さんやそのファームが主体性を持った独自の動きができるだけの規模だったことも前提としてあると思う。同じことをしたいと思っていてもできない人もいるだろうから、そこはラッキー。
安藤 そうですね。抜けられるだけの体力があったのはラッキーでした。
久松 とはいえ、なかなか抜けられないと思う。早い段階で、それを持てるのがオリジナリティなんでしょうね。
ところで、ホルスタインと和牛交雑牛、和牛の違いはなんですか。
安藤 ざっくり言うと、肥育期間の違いや餌の違い、それに伴い肥育にかかる価格が違います。
久松 ホルスタインから、和牛と和牛交雑牛の肥育に変えたということは、育てやすさや餌の中身も違うし、肥育期間、要するに餌を与える期間も長いくなるので、よりハイグレードで技術的に難しい方へシフトしたということですか。
安藤 そうです。もう1つ違うのはマーケットです。ホルスタインについては、僕らはただ作って農協へ出せばよかったんですよ。それをしなくなったんで、自分たちで売るという選択をしました。
久松 そこは全然違いますね。
安藤 そうですね。牛は、「1頭当たりで補助金が入るんだから数こなせばいいべ」というのが親の代の考え方なんです。数の原理になってくるので、なんと出すかみたいな。でも、補助金は税金をベースにしているので、いつまであるのかわからないわけです。うちは、最初の30年間は補助金に頼って生きてきたと感じていますが、これからは自分で稼ぐ能力がやっぱり必要だろうということで、新しいことにチャレンジをしているところです。
今、1,100頭のうち、和牛が500頭、和牛交雑牛が600頭です。和牛500頭のうち300頭は母牛で、和牛の繁殖も始めています。
久松 いわゆる自分のところで産ませて、肥育する一貫肥育。
安藤 そうです。うちは3つに分けていて、一貫肥育は超ロングなんですが、そのほかに一定期間、和牛交雑の哺育するもの、短い期間哺育するものなどのショートから超ロングまでを組み合わせています。
久松 牛って、つくづく金融商品だと思うね。その辺の計算ができる人がやらないとたちまち資金繰りがおかしくなるよね。しかも失敗もあるわけだからさ。ショートから超ロングまでの商品を持って上手にマネージしていくのは、やってみてどうですか。
安藤 自分では、得意なタイプだと思ってやってはいるんですが、思った通りにはいかないですよね。いろんなファクターがどんどんこう浮かび上がってきて思ってた通りにはいかない。それをどう解決していくか。「今年はこれが絶対収益出る!」と思ったら、いきなり円安でオイオイってなったりとか、コロナがあったりだとか。コロナも円安も予想できないし。
久松 なるほど。入ってから色々勉強されて、色々見極められながら、本当に駆け抜けた7年間だったんなんだろうな。
安藤 まだ7年ですけどね。僕は創業者ではなく後から会社に入ったので、もともとあった服(会社)に自分を合わせていくようなニュアンスなんですよ。で、自分でなんとか合ってきたなという段階で、自分の着やすいような服に少しずつニュアンスを変えたりもしながら。とにかく駆け出しの頃はサイズが合わなくて、もう全然ダメで。服自体の大きさが、当時の従業員30人という規模から今の10人に縮小したのと、僕自身が経営者としてやっとそれにフィットするぐらいになってきたんじゃないかな。今が一番やりやすいですね。そんな気がしています。
久松 やっぱり0から起こしてだんだん大きくしていくのとはまた違うゲームですよね。それにしても濃いキャリアですね。
トラブルシューティングを続け一段落。「何がしたいんだっけ?」
――安藤さんから久松さんへ何か相談はありますか。
安藤 自分の課題は、僕自身のこの7年間のキャリアの中で、ポジションがどんどん変わっているはずなのに、まだ追いついてない部分があるというか…。To Doリストを作っちゃうんですよ。で、漏れがないようにやっちゃうんですよ。で、やったらやった気になるんですよ。 だけど、寝るときにふと思うんですね。「毎日To Doリストでやるべきことを見つけて、それを1個ずつ潰していって、うちの経営って良くなるのかな」って。「ちょっと違うんじゃないかな」って。僕が経営者の右腕だったらそれでいいような気がするんですけど、社長だと違うんじゃないのって、最近モヤモヤしています。正直なところ、これをどう相談していいかがわからないままここに座っています。
久松 物事を回す存在でいいのかっていうことですよね。
安藤 ああ、そう、それに近いですね。ずっと、トラブルシューティングをしてきた感じなんですよ。だけど、僕はビジョンって示してないよね、とか、じゃあビジョンって何かと言われると…。この後どうしたいのか。
久松 それは私の本の中で言うと、HowとWhyっていう話。
安藤 はい、そうですね。Whyの部分が。 結構うまくいってはいるんですけれど、それでいいのかって。
久松 これが農業というか、いわゆるエッセンシャルな仕事をしている人は全体にそうなのかもしれない。そもそも、世の中に必要なものだとみんなが信じている仕事は、Whyの話になりにくいと僕は思ってるんですよね。
もちろんHowだけを考え、うまくいって自分が自慢気ならそれはそれでいいと思う。ましてや、十勝みたいなきちんとしたインフラがあるような地域においては、それでも成り立つと思う。でも、「今日をどう乗り越えよう」とHowを考えざるを得なかった7年間がある種の踊り場に来て、安藤さんは「さて、そもそも何がしたいんだっけ」と思うようになったのでしょうね。
安藤 そうそうそうそう、そんな感じ!そんな感じです。母と共同経営者の時代に作った借金が億単位だったので、それをコツコツ返している中で、だいぶ見えてきたなと最近感じられるようになりました。やっとですけどね。先が見えてきた感じ。現場も若手が頑張ってくれているので、僕が口出しすることはほとんどない。うまくいってるんだろうと思います。それで、どうしていいのかわかんなくなりました。
久松 うん、それは経営者に内包された悩みというか呪い。達成すると虚しくなるという呪い。踊り場に到達したと同時に、超えたいと思っていた存在を超えてしまった。それで、ストンと終わってしまったっていうか。
安藤 それはあると思います。
久松 僕はそれでいいと思う。これからの自分の人生テーマが問われているんじゃないかな。流れもあって、これまでやって来たけれども、「安藤さん自身がどう生きて行くのか」とか、「分岐点があったけれど、地元に帰って来て経営をしている。それを自分の人生のゴールとして良しとするのか」みたいなことを自分自身で決めなきゃいけないところまでたどり着いたのかもしれないね。
安藤 いや、もうその通りですね。仕事にかこつけてもがいています。「かこつけて」っていう言い方がたぶんしっくりくると思います。なんかね、ピンとこないんですよ。すごい変なニュアンスになっちゃうかもしれないですが…、あんまり…トラブルが無いんですよ。…ない方がいいんですが。
久松 言いよどむことではないけれど、あんまり周りの同業者に言わないほうがいいな(笑)。
安藤 何言ってんだよってボコボコにされますね(笑)。
久松 逆にこの7年間で、すごく夢中になってやったこと、苦しいけれども、アドレナリンが出てたみたいなのは、どの瞬間だったんですか。
安藤 やっぱり最初の立ち上げですかね。とにかくうまくいかなくてうまくいかなくて、レストランとガソリンスタンドを抱えながら、新規事業で加工品を作るのにかけずり回っていた頃ですね。人間関係が全然うまくいかなくて、毎日「これ、どうするんだ」って思ってた頃です。あれは二度とやりたくないけど、でもすごく充実していましたね。
久松 うん、まあ必死ですもんね。120%の力でやるっていう。
安藤 脳細胞焼き切れてましたね、あの頃。ノウハウはないし、頼れる人もいないし、誰を信じていいかわかんない状態の中で、手探りでなんとかしなきゃいけないし。寝て起きたら借金の金額が増えてるわけで。もう怖くて眠れないときもあったし、色々あったなって。まだ7年前ですけどね。
久松 手広く、大きくガチャガチャしている状態で継いで、たぶん本質的にその状態がそんなに好きじゃないんでしょう。それを絞って静かな状態を作っていったんだと思うんですよね。それがある程度達成できたのかもしれないよね。
安藤 そうかもしれないな。うん、そうですね。今は、非常に気分がいいです。自分の会社として、気分がいいですね。
「撤退戦」は最も知的でおもしろい仕事
――ベトナムとタイへ行かれていたそうですが、いかがでしたか。
安藤 先週行ってきました。ベトナムは初めて、タイは20年前にバックパッカーとして旅行して以来でした。エネルギーがすごいですね。20年前とは社会も別物でした。日本の高島屋と向こうの高島屋の客層は変わらない。一方で建物を出ると、上半身裸で原付バイク直してるおじさんと物売りのおばさんが路上に座っていたりして。その所得格差みたいなものが平然とあり、カオスというか、やっぱり衝撃を受けますよね。
久松 うん。日本でも東京オリンピック前夜の1960年頃は似たような状況だった。日本の発展段階と違うのは、テクノロジー。その半裸のおじさんもスマホを持ってたりするわけ。
安藤 そうなんですよ。みんなアプリでタクシーを呼んで、アプリで屋台の食事をデリバリーするんですよね。これはテクノロジーだから一足飛びなんだなと思って。
久松 エネルギーインフラとか道路インフラが来る前に情報と決済の端末をみんな持っている状況なので、ビジネスのパターンが変わってくるじゃないですか。そのダイナミズムがおもしろいですよね。同時に考えられないような貧富の格差が生まれるリスクもある。何というか、その生き馬の目を抜く感情は、たぶん我々の想像のつかないところでしょうからね。
安藤 今回は、うちの和牛を直接かつ比較的高単価で売れるようなマーケットはないものかとタイとベトナムへ行ってきたんですが、そんなうまい話があるわけがなく。ちょっと僕はぬるいなって感じましたね。華僑のバリバリビジネスやっている人たちとガチでやるには、スピードもエネルギーも足りないなと感じて帰ってきました。
久松 なるほど、いい話。気軽に行ったら、そこには全然別世界があった。必死に今日を生きている人たちがいて、危なっかしいけれども、そういうものに何かちょっと火をつけられるみたいなところがあったかもしれないですよね。
安藤 そうですね、それは感じました。僕は、このままじゃダメだとは思わないんだけれども、なんかモヤモヤしていて、何が課題なのかよくわからない。でも、課題がないのならこのままでいいのかな、でも、それがいいとも思わないんだよなという感じです。
久松 今まで必死でやってきて、今日を超えなければ明日が来ないような中でやってきた7年前の安藤さんが今の安藤さんを見たら、「もう達成してるじゃん」って思えるのかもしれない。でも、実際に42歳になると、自分を手放しで褒めてあげられる状況じゃないんだと思う。それは、安藤さんが褒めて欲しい部分や取り組みたい部分が、そこではなかったのかも。すごい山を必死で登ってみたら、その先に、もうちょっと高い山が見えているみたいなことなのかもしれない。でも、山に登らないとその次の景色が見えないから。
もしくは、中年クライシスかもしれない。このままでいいのか、僕の人生って。そうそう、釈迦って今でいう中年くらいの年齢に、自分の王国と家族を捨てて修行の旅に出るわけだから。
安藤 ああ、マジっすか。
久松 うらやましくないですか。出家は全部なかったことにして自分のことだけ考える旅に出るってことだから、むちゃくちゃ勝手な話。僕は仏教がすごく好きなんですけど、釈迦は勝手な人なんですよ。7億円の会社どころじゃないですよ、王国だもん。修業して悟りを開くんですが、悟りを開いたときのお経をみんなに教えてあげてと言われて、「嫌だ!僕は、この気持ちのためにさんざん苦労してやっとわかったから、人に教えたくない」って言うんですよ。
安藤 むちゃくちゃですね。
久松 「そこをなんとか」と頼まれて、ようやく「1週間は楽しませて」と1週間寝てから説法の旅に出たというのが経典に書かれている。そんな宗教はないでしょう。安藤さんも釈迦タイプかもしれないですね。
安藤 …。実は僕も仏教に興味があって…、来年にはちょっと本格的に学ぶ予定なんですよ。
久松 えー!なんと!
安藤 おばあちゃん子だった影響で、動物を殺すことに罪悪感をずーっと持っています。それもあって、実家の肉牛を継ぎたくないと思っていたところもありました。父が亡くなってからお坊さんが毎月来て、家で読経を聞いているうちに、「お経ってなんかいいな」という感覚と、「この辛い人生から逃げたいな」という気持ちから、昔からぼんやりと「お坊さん」に憧れていたんですよ。
久松 なんと! 勝手に安藤さんの人生のテーマを決めると、前半は「超える」で、後半はたぶん「許し」ですから、大乗仏教に向かうのは必然かもしれませんね。
ーーコンサル企画で仏教の話に帰結するとは思いませんでした(笑)。
久松 あと、今、日本で一番知的な仕事は縮みゆくこの国の未来を考えることですよ。行政として関わるのもありだろうし、出家して関わるのもありかもしれない。拡大のときと全然違う、縮小局面での限られた予算の中でどうするかっていうのはものすごく重要。国も産業もどこかに1つのピークがある。発展段階にあるタイやベトナムにもピークが訪れる。そうなると当然ピークアウトがあります。このピークアウトする局面でどうするのかは、安藤さんのこれまでの仕事や、経営で経験をしたことがものすごく役に立つと思う。
安藤 撤退戦こそが、最も高い技術とマネジメントが必要な戦闘だと思うんですよね。攻めるとか拡大するとかの戦線を広げるのは簡単なんですよ。でも、むちゃくちゃ鮮やかに撤退するのが1番おもしろい。
久松 いいと思う。撤退は1番知的でありながら、合意形成がすごく難しいですね。拡大の方が乗っかりやすいに決まってるじゃん。
安藤 そうです。やめるのは本当にハードですよね。
久松 拡大してから減少するときに、産業はどんな経路を辿るのかとか、膨大な公費を投入したインフラは果たして回収できるものなのかというのは、考えるに値するテーマだと思っています。
安藤 興味ありますね。今後、社会がどうなっていくかは、自分、家族、自分の大事な人達とも密接に関わる話です。「まちづくり」というと少しニュアンスが違いますが、要はそういうことがやりたいと思って市役所に入ったので、これが僕の原点なのかもしれないです。
久松 僕と関心領域が似てると思う!友達になりたい感じ。ぜひまたお話しましょう。
安藤 ありがとうございます!こちらこそよろしくお願いします。
(まとめ・紀平真理子)
安藤さんの本の感想
本書で「座組み力」という言葉を知り、農業には欠かせない視点だと感じました。天気などの外部環境に大きく左右される中で、自分の技術、知識、人間関係等を「座組み」として適正に配置し、力や資金の配分を適正化することでどこまで結果を出せるのか。農業は終わりなきグレートゲームですね。
久松さんから安藤さんへの推薦書籍
「つぎはぎ仏教入門」呉智英
久松さんからのコメント:実は悩みが多く人間臭い釈迦に人生を学ぼう!