見出し画像

編集者の視点や受けとめ方は、世間一般と必ずしも一致しない――エンタメ小説家の失敗学29 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第5章 「編集者受け」を盲信してはならない Ⅵ――『夜明け前と彼女は知らない』(『大人になりきれない』より改題)をめぐって

致命的な欠陥

 新潮社のGさんのもとでこの作品を構想した段階では、なんなら直木賞も射程に入れるくらいの勇み足な心構えだったが、版元が文芸大手ではないPHP研究所になった時点で、当初のその目標はだいぶ遠ざかってしまっていた。しかし、その点を度外視しても、この作品がそうした水準に達することは、きわめてむずかしかっただろうと今では思える。

 なぜなら、そうした大きな賞を獲得する際に求められる「普遍性」において、この作品には致命的な欠陥があったからだ。一部の読者には受けたと思うが(ネット上にも、僕の狙いどおりに受けとめてくれているレビュアーがわずかながら見られた)、多くの読者が共有できるなにかをこの作品が持っているとはとうてい言えなかった。僕は、一般読者の像というものを、根本から見誤っていたのだ。読者が求めているものが、まるで見えていなかった。僕が作家になって最も反省させられたのは、このときだったと思う。

「受賞レース」に参戦するに際して最初に参照した『女たちのジハード』もまた、ある意味では残酷な視点で描かれている作品だと今でも思う。しかし、篠田節子の筆致には、登場人物たちが、さまざまな不如意に翻弄されながらも、どうにかして自分なりの最善の道を切り開こうとしているさまを、親身になって辛抱強く見守るようなやさしいまなざしも同時に備えられていた。それに比べて僕の書きぶりが、あまりにサディスティックな方向に寄りすぎていたことは、どうにも否めない。

 当然の帰結として、この作品が多くの読者からの支持を得ることはなかった。それでも二〇一五年一月には文庫化されたが、その際にはやはり編集部の意向で、『夜明け前と彼女は知らない』と改題されている。新潮社時代の原題である『ネオテニーたちの夜明け』よりさらに、内容が想像しにくいタイトルになっているのではないかと疑問に感じたが、僕の異論はあえなく却下された。単行本が売れなかった分、とにかく「装いを変えて巻き返しを図りたい」という意向が強かったようだが、文庫の売れ行きも悲惨だったのではないかと思う。

「強い」人々

 この作品に関してただひとつ、引っかかる点があるとすれば、新潮社の管轄下にあった時期には、担当のNさんからも、編集長のGさんからも、「これでは一般読者からの共感を得られないのではないか」といった視点からの懸念は、いっさい示されていなかったということだ。

 それに近いことがあったとすれば、Nさんから、原稿の構成についてある意見をつけられたことくらいだろう。

 当初僕は、一人目の主人公の一人称による章から原稿を書き起こし、それが終わってから初めて、三人の主人公を女子社員らが陰口で吊し上げにかかる断章「黒いランチ」を挿入していたのだが、Nさんは、冒頭部分にまず「黒いランチ」をひとつ配置したほうがいいと言ったのだ。それがないと、読者はおそらく、まずは最初の主人公に感情移入しようとして読みはじめてしまう。その主人公は「笑っていい存在」なのだと最初に示しておいたほうが、読者の当惑を避けられるというのが、彼女の意見だった(僕はその意見に従った)。

 そこには、読者の当惑を見越すという形で、くだんの懸念につながりうる視点がほの見えなくもないが、それ以上、その点が取り沙汰されることはなかった。それはとりもなおさず、新潮社の編集者たちも、僕と同様、一般読者の像を必ずしも正しく認識できてはいなかったということを示唆しているのではないだろうか。

 思うに、彼ら・彼女ら(編集者や書評家など、プロフェッショナルな人々)の多くは、一歩距離を置いて、批判精神をもってものごとを斜めから、シニカルに見る余裕のある「強い」人々なのだ。もがきながら生きていくので精一杯なのであろうくだんのレビュアー――それは、おそらく一般読者の代表でもある――とは、視点の位置が違う。

 そういう意味で、「編集者受け」を盲信してはならないと僕は言うのだ。編集者は、ざっくり言えば小説家自身と同じ側にいる。その視点や受けとめ方が、世間一般と必ずしも一致はしないということを、忘れてはならない。(続く)


光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!