『死体は今日も泣いている』|馬場紀衣の読書の森 vol.19
「死」は、人間にとってもっとも普遍的なテーマだ。でも、「死体」について考える機会はあまりないかもしれない。法医学者として日夜、死体と(物理的な意味でも精神的な意味でも)向きあっている著者はなにを考えているのだろう。
本書を手にした読者のおおくは、犯罪性の疑われるような死体に出合うことなく暮らしているだろうし、法医学の世界を映画やドラマで描かれるようなスリリングな現場だと思っているかもしれない。そのような読者の期待を、この本はことごとく裏切っていく。法医学の世界からあぶり出されるのは、現代日本が抱えている社会問題だ。
いまでもよく覚えていることがある。エンターテイナーとして最高の評価を誇ったマイケル・ジャクソンが亡くなったとの報道があって、誰もが死因を知りたくてうずうずしているなかで、たしかな死因が発表されるまでに2ヶ月もの時間がかかったこと。ずいぶんと時間がかかるんだなあ、そう感じたのは、私だけではなかったと思う。
ファンたちが「待たされている」と感じたこの期間に、解剖や薬物検査、内臓の病変、薬物の影響などを徹底的に調べていたということ、このくらいの「長さ」が国際的には普通であること、そして日本では死因判定にかかる時間が異常なほど速すぎることを、この本ではじめて知った。私はすっかり、日本の死因究明制度に慣れきっていたらしい。
日本の死因究明制度の成り立ちをたどると、驚くことに江戸時代まで遡ることができる。江戸時代の捜査は、関係や被疑者の供述をもとに行われた。なにより重要視されていたのが「自白」で、遺体の状態を調べるのは、自白を得るための手段に過ぎなかった。
事実、日本の制度は海外のそれとかなりちがう。著者によると、戦後の日本ではGHQの指示で米国と同様に、異状死した遺体は犯罪性の有無の関係なしに監察医がすべて検死・解剖する制度が検討されていたらしい。ところが日本政府は「従来の司法解剖制度を残し、新しく実地する監察医による解剖を公衆衛生の向上を目的とした行政解剖」に位置づける。これによって、司法解剖と行政解剖という2種類の解剖ができ、死因究明の制度が骨抜きの状態になってしまったのだと著者は説明する。
腐乱した遺体に触れる危険性の高い業務であるにも関わらず、それに対する補償がないこと。解剖や検査の費用が不十分なこと。人材が少なすぎること。専門的な知識が求められる厳しい職場だが、収入は開業医の半分程度で、職員のおおくは非正規職員だという。
正確な死因を突きとめることは、死者の尊厳を守るためでもある。その人の亡くなった経緯を明かすことは、遺族の気持ちを救うことになるだろう。日本の死因究明制度が抱えている山積みの課題をまえに語られる著者の言葉が胸に響く。犯罪が見逃されず、伝染病が広がらず、身元確認ができる。「死体が泣かない国」とは、生者も死者も安心できる国のことだ。