7:そしてパンクが終わって、ロックが終わる——『教養としてのパンク・ロック』第21回 by 川崎大助
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第2章:パンク・ロック創世記、そして、あっという間の黙示録
7:そしてパンクが終わって、ロックが終わる
ピストルズは「カネの成る木」
ロナルド・アーサー・ビッグズは、このとき48歳、逃亡中の犯罪者だった。イギリスでは「大列車強盗(Great Train Robbery)」の名で知られる事件の、強奪犯の一員だ。63年、ビッグズを含む15人が、バッキンガムシャー州メントモアはレッドバーンの鉄道橋プリデコ橋にて、グラスゴーからロンドンに向かって走る郵便列車を襲い、現金およそ260万ポンドを奪った。
もっとも、ビッグズの役割は小さかった(代わりの機関士を連れてくる、というもの)。そんな彼が、一躍この強盗団の代名詞のごとき存在となったのは、服役後に脱走したからだ。65年7月にワンズワース刑務所を破獄、それからパリ、オーストラリアの各地を転々としたあと、ブラジルはリオデジャネイロに潜伏。そのときどきにマスコミに追跡されていたせいで、有名になった。しかし、伯英間の犯罪人引き渡し条約そのほかの事情によって、ビッグズはかの地に留まり続けることができた。つまり逃亡中なれど自由の身だったのだ。世界屈指の美しいビーチがあると賞賛される、リオにおいて。
そんな男が、ジョニー・ロットンの後釜として、一時的にセックス・ピストルズのシンガーとして起用された。もちろん「話題性だけを狙った」マルコム・マクラーレンによる人選だった。そしてスティーヴ・ジョーンズとポール・クックがブラジルまで赴いて、ビッグズとともに録音したナンバーが「ノー・ワン・イズ・イノセント」として、ロットン脱退後初のピストルズ正式シングルとなった。発売は78年6月30日。当たり前のこととして、悪評ふんぷん、世間はあきれ果てていた。しかし全英7位にまで達した。カップリングは、フランク・シナトラなどで有名なスタンダード・ナンバー「マイ・ウェイ」をシド・ヴィシャスが俺流に歌ってカヴァーしたもの。
つまり、マルコム・マクラーレンの奸計は継続していた。ジョニー・ロットンというカリスマを欠いたあとであっても、彼にとってのピストルズは、まだまだ「カネの成る木」だったのだろう。このブラジル行の模様は撮影されて、映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』(80年)に織り込まれた。バンドはたんなる操り人形であり、マルコムこそがピストルズを「捏造」した天才詐欺師なのだ、という筋書きに沿ったフェイク・ドキュメンタリー(モキュメンタリー)が同作だった。ヴィシャスが「マイ・ウェイ」を歌うMVも、映画のなかに収録された。
ロックの「聴きかた」
そして僕は、このひどい評判だったシングルのB面、シド・ヴィシャス版の「マイ・ウェイ」にて、ロックの「聴きかた」を初めて理解したのだった。13歳だった僕でも、この曲のオリジナル版はすでに知っていた。学校のブラスバンドが演奏しているのを、幾度か聴いたこともあった。それが「こんなふうに、変わるのか」と、とても驚いたのだ。
ヴィシャスのヴァージョンも、ヴァース1までのアレンジ、トラの部分はオーソドックスなものだ。歌だけが違う。わざと大仰に歌おうとして失敗したかのようなしつらえの、小馬鹿にしたような節回しで、彼は曲のなかへと登場してくる。あえて「ちぐはぐ」なままに、曲は進行していくわけだ。そしてひとつ目のコーラスが終わった途端、ギターのカッティングがビートを刻み、一転ロック・アレンジへと変化する。ここで水を得た魚のように、ヴィシャスの「やくざな」ヴォーカルが躍動する!――これだけ。そう。「たったこれだけ」の仕掛けから生み出されたものが、想像を絶する鋭さで僕の心臓を挿しつらぬいていったその瞬間、稲妻に打たれたかのようなショックを全身に感じた。
「これが、ロックというものなのか」と、僕は体感した。
ごく普通の「マイ・ウェイ」と、ヴィシャスが吠える「それ」とのあいだにあるはずの距離を、一気に縮めてしまうようなジャンプ力。あらゆる「壁」を踏み越える突破力――こういったもののエネルギーと、聴き手側の感情の波動が同期することがある。同期したそれらは、お互いを容易に増幅していく、ことがある。この相互作用、一体化のありかたこそが「ロック音楽にのみ固有の特殊事情」だということが、僕はわかった。生まれて初めて、体でわかった。それまでにもロック・ソングは幾度も聴いていたのだが、しかし「サントラ小僧」の耳でぼんやりと鑑賞していたにすぎなかった。ヴィシャス版の「マイ・ウェイ」に反応してしまった僕は、感化され、言うなれば一瞬にして自分自身が「ロックの一部」と化していた。波動のなかに全意識が転送されていた。だから僕は自らがパンク・ロックの門を叩いたことを自覚した。あるいは長く続くロックの道の、その最初の入り口に、門徒として佇んでいる情景を幻視した。
シド・ヴィシャス急逝
シド・ヴィシャスが急逝したのは、1979年2月2日。ニューヨークにて、ヘロインの過剰摂取による死亡だった。本人が以前に語っていたとおり、21歳までしか生きられなかった。前年の10月、ガールフレンドのナンシー・スパンゲンをニューヨークのチェルシー・ホテルにて刺殺した容疑で逮捕され、のちに保釈されたものの、その後も自殺未遂事件など問題を起こし続け、精神病院や拘置所を出たり入ったりしていた。この夜も、保釈パーティーがおこなわれていた。ヴィシャスはパティ・スミスの弟トッドに暴行を加えたかどで逮捕され、7週間勾留されたのち、2月1日に保釈されていた。そのパーティーにて、彼は打ちすぎた。このときのヘロインはシドの母親、アン・ビヴァリーが買い与えたものだった(釈放パーティーそのものも、基本的に彼女が仕切っていた)。「あの子は有名人だし、もし自分で街に買いに出て行ったら、人目につくから」という理由で、彼女が売人からドラッグを買ってあげたのだった。そして「あまり打ちすぎないように」とヘロインの多くは自分のバッグに仕舞っていたという。もうこれ以上だめよ、と。ゆえに彼女は「自分が眠ったあと、あの子が残りのドラッグをどうやって見つけたのか、わからない」とのちに語っている。
さすがにこうなっては、セックス・ピストルズはその残骸まで含めて、もはや木端微塵だった(マクラーレンの『映画』が残っているだけだった)。そしていつの間にか、パンク・ロックは「終わって」いた。
パンクの終わりとポップ音楽の隆盛
パンク・ロックが、少なくともロンドンを発祥地とする「オリジナル・UKパンク」が終わったのは、一体いつだったのか。多くの人が「79年の暮れには、もうなかった」と言う。いや78年、ロットンの脱退でなにもかも終わったのだ、という人もいる。あるいは、パンクが美しかったのは77年の1月から6月まで(クリッシー・ハインド談)。もしくはピストルズがアルバムを出した瞬間に終わったんだ、との声も――。
当事者の意見としては、これがとても有名だ。クラッシュのジョー・ストラマーが「変質」してしまったパンクを嘆く発言が、英サウンズ紙の79年7月6日号に掲載された。
このころのクラッシュは、ありとあらゆる音楽性を取り込んで、なおかつそれが「パンク・ロックとしてあり得る」という離れ業に挑戦し続けていた。その最初の集大成と言える、彼らのサード・アルバム『ロンドン・コーリング』は、この79年の12月に発表される。しかしこれを指して「あんたらこそ、もうパンクじゃない」と非難する声も、世に少なくはなかった。新しいローリング・ストーンズみたいになってしまうつもりなのか、と。
もっと踏み込んで、ロックそのものを「否定」したのが、ジョニー・ロットンあらため、本名のジョン・ライドン名義で活動していたあの男だった。79年、パブリック・イメージ・リミテッド(PiL)としてポストパンクの最前線に立っていたライドンは、セカンド・アルバムである『メタル・ボックス』発売直後に受けたファンジンのインタヴューのなかで、ロックの終焉について、簡潔にこう述べた。
話の流れとしては、ピストルズとPiLの音楽性の違いについて質問されたライドンが、かつての同僚スティーヴ・ジョーンズを非難し始めて、そこで出てきた発言だった。つまり具体的には、ジョーンズのような音楽性を否定したと言えるものだったのだが――もちろん「この部分」だけがひとり歩きして、話題となった。ここ日本でも、注目された。あのパンク・ロックの革命児が「ロックの終焉を宣告した」のだ、と。
しかし彼らがなにを言おうが、パンクの影響下にあるポップ音楽、とくにニューウェイヴは、いまが旬と咲き誇っていた。イギリスどころか、アメリカでもメインストリームに大きく食い込み始めていた。たとえば80年には「アメリカの恋人」であるスーパースター、リンダ・ロンシュタットが「ニューウェイヴな」アルバムを発表している。『マッド・ラヴ(邦題は『激愛』)』と題された同作は、エルヴィス・コステロのナンバーを3曲もカヴァーしていた。前年のコステロ作「アリソン」をカヴァーしたシングルが200万枚を売り上げるヒットとなったことを受けての「転身」だったのだが、『マッド・ラヴ』も大成功。のちにこの手法――カントリー・ロック調の「歌姫」から、とんがったポップ・クイーンへの転身――は、81年のオリヴィア・ニュートン=ジョン「フィジカル」をブリッジして、2010年代のテイラー・スウィフト、あるいはケイティ・ペリーにまで引き継がれていく。
反転された「ノー・フューチャー」
ポップ音楽界だけではなく、イギリス社会も大きく変貌しようとしていた。その変化は、77年にすでにあらわれていた。ジョン・サヴェージに言わせると「パンクスとサッチャー夫人とが、対立しながらも共存していたのがこの時代である」ということになる。
74年より保守党党首となっていたマーガレット・サッチャーは「フリーダム」という言葉を再定義した。パンク・ロックが推進した、自由主義者的な、あるいは無政府主義者的な概念、つまり個人主義の色が強い主張にて、彼女は有権者にアピールしていった。それに「ニュー・ライト」が強く反応していた。
ゆえに、若きジョニー・ロットンが吐き捨てた「ノー・フューチャー」というあの一節が、まるで未来を見据えた革新的な予言のようにして、静かに世に広がっていった。これを黙示録的警句としてとらえたのは、極左だけではなく極右の政治家も同様で、それぞれが口々に「(このままでは)未来はない」と述べるようになっていた。
そして1979年5月の総選挙で、サッチャー率いる保守党が大勝する。労働党は下野して、「ヨーロッパの病人」だったイギリスは、ここから、血も涙もない新自由主義を先頭に立ってリードしていく国家へと、大きく舵を切っていく。海の向こうアメリカでは、彼女のカウンターパートと呼ぶべきロナルド・レーガンが、81年より大統領に就任する。
パンクとポール・マッカートニーの切っても切れない関係
しかしそもそもパンク・ロックは、すでに77年の冬には大きく勢いを落としていた、のかもしれない(もっとも「波」はあったろうから、上がったり下がったりは、繰り返されていたのだろうが)。僕がそう感じた理由は、暮れも押し迫った12月27日、ロンドンで『スター・ウォーズ』がついに公開されたからだ。焦らされていただけあって、大変な騒ぎになった(英全土での公開は、年をまたいた1月29日からだった)。
そしてクリスマスの前には、どこででもポール・マッカートニー率いるウイングスの「マル・オブ・キンタイア(邦題「夢の旅人」)」がかかっていた。11月11日に発売された同曲は、全英シングル・チャートで9週連続1位を独占。売れて売れて、売れに売れて、売れに売れていた。ビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」が保持していた、イギリスでの最多売り上げシングル記録を破ってしまうほどの、超絶ヒットだった。スコットランド西部のキンタイア岬の美しき自然への思慕を歌い上げた、これぞ「クリスマスにぴったり」な、心あたたまる名曲だった。
そんなクリスマスには、じつは、あのピストルズも慈善活動をおこなっていた。12月25日の日中、西ヨークシャーはハダースフィールドにて、バンドは子供たちのためにベネフィット・ライヴをおこなった。その会は、ストライキ中の消防士やレイオフされた労働者、片親の家族のための催しだったという。さらにその夜、彼らはマンチェスター・ロードにあるクラブ、アイヴァンホーズにてライヴをおこなったのだが、これが(のちに再結成するまでの)セックス・ピストルズの事実上最後のUKパフォーマンスとなった。
さらに奇妙な縁が、パンク・ロックとポール・マッカートニーのあいだにはあった。ジョン・ライドンいわく「マッカートニー夫妻は自分たちのカレンダーを俺に送りつけて、家に招待しようとしたんだ」という。マッカートニーはかなりライドンにご執心で、いっしょにレコーディングしたがっていた。しかし「ジョニー・ロットンがジョニー・ショウビズに成り果てちまう」と警戒したライドンは誘いを無視。しかしあるとき、彼と妻のノラがクルマでハロッズ百貨店の脇を通りがかったとき、同店から出てきたマッカートニー一家がライドンの姿を見つけて、追ってくる。すかさずライドンはドアをロックする。
まるで大ボラ話みたいなのだが、しかしこれは真実なのだろう。ビートルズ時代より、アンダーグラウンドな音楽、突端的なポップにつねに胸襟を開いていたのがマッカートニーで、このころもまだ、その姿勢は顕著だった。ゆえにパンク/ニューウェイヴには、かなり耳を傾けていた節がある(「ノー・ビートルズ」なんて言われてもいたのに)。
とくにピストルズについては、彼らのアルバムのプロデュースをクリス・トーマスが手がけていたことが大きかったのかもしれない。トーマスは79年発表のウイングスのアルバム『バック・トゥ・ジ・エッグ』の共同プロデューサーでもあった。そして、同年12月27日に発表されたプリテンダーズのデビュー・アルバムも、ニック・ロウが担当した一曲を除いてトーマスの手によるものだった。
『カンボジア難民救済コンサート』のラインナップ
そんなプリテンダーズが、デビュー作発売と「ほぼ同時に」踏んだ大舞台が、79年12月26日から4日間、ロンドンのハマースミス・オデオンにて開催された『カンボジア難民救済コンサート』だった。マッカートニーが中心になって企画が組み立てられたベネフィット・コンサートがこれで、つまり「バンドの人選」には、彼の意向が大きく反映されていた。その顔ぶれは――まずクイーン、ザ・フー、スコットランド出身の人気コメディアン/俳優/歌手のビリー・コノリーまではいいとして、レゲエのマトゥンビ、あとは基本的に「パンク/ニューウェイヴ組ばかり」だった。プリテンダーズ以外には、クラッシュ、イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズ、ザ・スペシャルズ、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ、ロックパイル……そしてとどめが、ウイングスは当然として、『バック・トゥ・ジ・エッグ』のなかでマッカートニーが試みていた、大人数で「オーケストラのように」ロックを演奏してみる、という「ロッケストラ」の実演だった。ここには、ザ・フーのピート・タウンゼントとケニー・ジョーンズ、レッド・ツェッペリンのロバート・プラントとジョン・ポール・ジョーンズとジョン・ボーナム、ロニー・レイン、デイヴ・エドモンズほか、20名のロッカーが顔を並べていた。この約2年半後に急逝するプリテンダーズのギタリスト、ジェームズ・ハニーマン・スコットも、弱冠23歳でここに参加していた。マッカートニーらしい、無邪気で闊達なロック大会で、騒々しくも華々しく、79年は、いや1970年代は幕を閉じた。
ポールの逮捕、そしてジョンの死
そして、明けて80年の1月16日、日本の成田空港の税関で、ポール・マッカートニーが逮捕されてしまう。微量のマリワナが荷物のなかにあったがゆえの、現行犯だった。彼は9日間勾留された上で国外退去処分となり、予定されていたウイングスの来日公演はすべてキャンセル。そのままバンドも自然消滅してしまう。仲間とともに駆け回るロックンローラーとしてのマッカートニーは、このとき、大きな挫折を体験する。
さらに同80年12月8日、ジョン・レノンが、彼がこだわって住み続けていたニューヨークの自宅前の路上にて、ファンを自称するマーク・チャップマンによって射殺される。
ロックンロール音楽の幼年期というものがあったなら、このころそれは、強制終了させられてしまったのかもしれない。まるで曲の最後に突然に、余韻もなくカットアウトされたときのように。
【今週の4曲】
Sid Vicious - My Way
Linda Ronstadt - Alison
Pretenders - Tattooed Love Boys (Official Music Video)
Wings - Mull Of Kintyre (Official Music Video)
(次週に続く)