1:日本パンクのゆりかごは、『ポパイ』と『ミュージック・ライフ』と原宿だった——『教養としてのパンク・ロック』第33回 by 川崎大助
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第5章:日本は「ある種の」パンク・ロック天国だった
1:日本パンクのゆりかごは、『ポパイ』と『ミュージック・ライフ』と原宿だった
「東京ロッカーズ」
最後に日本におけるパンク・ロック受容史をまとめてみよう。端的に言って、非英語圏であり非欧米圏でもある国と地域のなかで、ここまで巨大なる「広義の」パンク・ロック文化が花開いた例はほかにない。ある意味一時期の日本とは、豊かすぎる「パンク天国」だった。それは後述する「日本ならでは」の特性が大きく作用したせいだった。
そんな日本におけるパンク・シーンの「最初」について評するならば、音楽アーティスト、DJ、文筆家の高木完の簡潔なこのひとこと以上のものはない。
これは1978年5月当時の東京の、その片隅にあった状況を彼が振り返ったときの言葉だ。具体的には、「東京ロッカーズ」と呼ばれるバンド集団およびムーヴメントが動き始めていたころのことを指している。
すでにしてそこには、ニューヨークやロンドンの最先端の、その「背中」ぐらいは目視できる位置に、日本の若きミュージシャンたちの少数がいた。フリクション、LIZARD(リザード)、ミラーズ、ミスター・カイト、そしてスタジオの運営者であるS-KENらが「東京ロッカーズ」との名のもとに幾度もイベントを開催した。六本木の「ライヴができる貸しスタジオ」だったS-KENのスタジオが会場となったりした。いずれのアーティストも、78年のこの時点で、たしかにもはや、ストレートかつ素朴な「初期パンク・ロック」のスタイルではなかった。パンク精神は濃厚ながら、ポストパンクの、そしてニューヨークの「ノー・ウェイヴ」の影響大なる音楽性を、それぞれがそれぞれの方向で探求し始めていた。またそうなることは「必然」でもあった。
というのも、たとえばフリクションの「ノー・ウェイヴ」解釈は、ほぼ直輸入だったからだ。ベースのレックは77年に渡米、ニューヨークにてコントーションズとティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークスに参加していた。またドラムスのチコ・ヒゲも同地に飛んで、双方のバンドで活動した。つまり、まさにかの地のシーンの渦中にいた面々が帰国後の78年に結成したバンドがフリクションだったのだ。ゆえに「個人輸入されてきた」その波動は、当然にして周囲にも伝播していくことになる――のだが、なぜこれが「最初」となったのか、そこのところから解説が必要かもしれない。
パンク・ロック情報の軽視
妙なことだな、とあなたは思っただろうか。だって70年代の当時だって、ポップ音楽を扱うメディアは日本にもたくさんあったのだから。なのに75年、76年、それにあの77年にアメリカやイギリスで起こっていた大騒動を、リアルタイムでは、誰も報道していなかったのか? メディアの報道から影響されて「すぐにパンク・ロックを始めてみる」人は、いなかったのか? そんな妙な!――と思った人の直感は、じつは、正しい。じつはとても「妙なこと」が起きていたのだ。当時の日本では。
つまり、こう言うことができる。「70年代中盤当時の日本では、当初、海外のパンク・ロック情報は『おそろしく軽視されていた』のだ」と。
とくに日本の主流の音楽メディアや、一般的な音楽評論家のあいだでは、その傾向がひどかった。たとえば、日本における洋楽ロック音楽評論の本流と目すべきだろう『ミュージック・マガジン』(当時は『ニューミュージック・マガジン』)は、当初とくにパンクには注目していない様子だった(78年以降は、多少状況が変わる)。『ロッキング・オン』も、この点はとくに変わらない。なぜそうなったのか? それは簡単で、一般的な日本の音楽雑誌やそこに寄稿する評論家とは、原則的に「日本のレコード会社から」情報提供を受けてから動き出すもの、だったからだ。つまり日本盤の、たいていはアルバムのリリースが決まってから、その宣伝への対応としての記事があり、雑誌には広告が出る――といったシステムが基本型だった。ゆえにパンク・ロックという、シングル1枚、あるいはその前のデビュー・ライヴで旋風巻き起こるような、とてつもなく「素早い」動きから生み出されていたムーヴメントに対しては、手の打ちようがなかった。つまり初っ端から「出遅れて」いたわけだ。だからごく普通に、誕生時のパンク・ロックについては「軽く流して」いた。
雑誌勢のこうした姿勢が影響したのか、古参のロック・ファンや、ロックには一家言ある音楽プレイヤーのプロやセミプロからも、パンク・ロックはほとんど馬鹿にされていた。「パンク以前からいろんなレコードを聴いていた」人であればあるほど、「あんなファッション先行のものはねえ……」と否定から入るべし!――などというテーゼが、どこかで決定されてしまったかのようだった。
要するにつまり、当初「大人の世界」からは、パンク・ロックは「相手にされていなかった」のだった。ゆえに、情報の偏在があった。「いかにもバンドをやっていそうな」層には、最初期にはパンク・ロック情報がろくに伝わっていなかった――もしくは「ろくな形では」伝わっていなかったきらいがあった。だから日本人のミュージシャンが正しく「パンクに感染」するには、すこし時間が必要だった。後述するように「ミーハー」な風俗現象だと切って捨てられているような傾向が強かったのだ。76年あたりの時点で、すでにして。
『ミュージック・ライフ』
そんななか、メジャー音楽雑誌のなかでほぼ唯一独走していたのが『ミュージック・ライフ』(シンコーミュージック)だった。これは編集長が水上はるこだったことが大きい。74年に半年ほどニューヨークに暮らした彼女は、駆け出し時代のテレヴィジョンの面々やパティ・スミスらと親交を結んでいた。だから「現地直送」の個人的なネットワークがあった。そして彼女がカセット・テレコで録音した、リチャード・ヘル在籍時のテレヴィジョンのライヴ・テープが、75年ごろフリクションのレックの耳に入り、彼のニューヨーク行きへとつながった話は有名だ。つまり当初、日本におけるパンク・ロックとは、ほとんど人から人への「手渡し」のネットワークによって、徐々に広がっていったのだった。そんな際には、前出の森脇美貴夫の『ZOO』(のちの『DOLL』)といったリトル・マガジンやファンジン、ミニコミなども、さまざまな役割を果たした。こうしたネットワークの頂点にあったのが、水上はるこの『ミュージック・ライフ』だったとも言える。
70年代当時、売上部数という意味で洋楽ロック雑誌界のトップを走り続けていたのが『ミュージック・ライフ』だった。そんな同誌の誌上で、ニューヨークやロンドンからの情報を中心としたパンク・ロック記事が定期的に掲載されていたことの意義は、とてつもなく大きい。この路線の最初の集大成と言うべきなのだろう、77年12月号の表紙は、大写しになったジョニー・ロットンだった。「ジャンボ特別付録」としてカラー・パンク・ポスターまで付いていた。つまりパンク・ロッカーが、まるでアイドル・バンドみたいなあつかいだったわけだ。同号のメイン記事はチープ・トリックで、フリートウッド・マックやロッド・スチュワートの記事があり、パット・マックリンとスコッティーズの来日グラビア、マーク・ボランの追悼フォト集も掲載されていた。
要するにこれは、そもそもの『ミュージック・ライフ』の編集方針の反映だった。つまり「大人の男」の音楽評論家などからは「ミーハー」だと揶揄され、蔑視されるようなタッチにて――その線でパンクも推されていたわけだ。ティーンの女子受けするアイドル・ロッカーの「(ちょっと過激な)最新型」、あるいは「グラム・ロックの後継」といったニュアンスで、オリジナル・パンク・ロッカーたちは同誌で紹介されていた。『ミュージック・ライフ』にはかなり引き離されながらも、『音楽専科』も、この線の次点といった位置付けでパンクを追っていた。
平凡出版(現マガジンハウス)の雑誌群
そしてこれらの方針(ミーハー)が基本的に間違っていなかったことは、イギリスのティーン向け雑誌がほぼ同様の路線だったことで証明できる。初期パンク・ロックとは「ガキの遊び」として、大人から煙たがられるという側面も強かったからだ。そしてその「遊び」が、ロンドンという街の流行現象となっていった。それゆえにこっちの観点、「街の流行」との切り口から、平凡出版(現マガジンハウス)の雑誌もパンク普及に大いに貢献した。
たとえば週刊誌『平凡パンチ』77年11月14日号では「総力特集LONDON NOW特大号」として、全24ページの大特集が組まれ、そこにはセックス・ピストルズの世界独占インタヴューが掲載されていた。表紙には大きく「パンクロック旋風ふきすさぶロンドン/熱狂? 退廃? NEW WAVE? いまロンドンが問題なのだ!!」と大きくコピーが入っていたのだが、しかしカヴァー写真は夏目雅子で、最上段には「あゝ結婚(ハートマーク)初夜のパンティ(ハートマーク)メモリアルショット」と惹句が入っていたから、全体的には通常営業の「パンチ」らしい誌面ではあった。つまり逆に言うと「そんなところにまで」入り込んでしまうほどの「風俗現象パワー」を、パンク・ロックのなかに見て取る人がこのころ同編集部内にはいたということだ。講談社の雑誌『アパッチ』創刊号(77年7月)にも「現地取材」されたピストルズ・インタヴューが掲載されていたのも、ほぼ同じメカニズムからだったと想像できる。「海外の『過激な』社会風俗現象」として、このころのパンクは日本の週刊誌ネタや、新聞ネタにすら時折なっていた。硬派で高尚な音楽雑誌が完全に出遅れているあいだに。
さらにパワフルだったのは、すでに引いたとおり、『平凡パンチ』と同じ平凡出版の『ポパイ』だった。初期の『ポパイ』とは、じつはパンク・ロック情報をコンスタントに発信し続けている媒体だったのだ。77年の一年間だけでも、短信も含めると、かなりの頻度でパンク・ロック関連ニュースを取り上げていた。しかも隔週刊だったから、うまくはまると、その情報鮮度はかなり高かった。そこまで力を入れた理由は、前出の第19号(1977年11月25日発行)の記事タイトルを見てみればわかる。「パンクはスウィングしなけりゃ意味がない!」――今日の目で見てみると、奇異に感じる人は多いはずだ。なぜにパンクに「スウィング」なのか? 普通スウィングといったら、ジャズ用語だ。だからパンクとは、普通まったく、なんの関係もない。なぜなのか??
その答えは「思い出ゆえ」だったのだと僕は読む。ここのスウィングとは、あの「スウィンギン・ロンドン」から来ていたものなのだ、と。きっとその当時の記憶から「引っ張ってきた」フレーズだったに違いない。ゆえに僕は、このタイトルは、筆者であった森脇美貴夫ではなく、編集部が付けたものだったと推測するのだが。
「スウィンギン・ロンドン」
「スウィンギン・ロンドン」とは、60年代の中期から後期に猛威を振るった、ロンドン発の「新しい」ポップ文化の奔流となった一大現象を指す。ビートルズらによる音楽面はもちろん、007映画の大成功、デザイナーのマリー・クワントによるミニ・スカートほかの革新的ファッション、モッズ風俗の流行、ヘアカットに革命を起こしたヴィダル・サスーン、ツィッギーやジーン・シュリンプトンら「時代のアイコン」となったモデル、スター・フォトグラファー、百花繚乱のグラフィック・デザイン……などなどが同時多発的に登場し、それぞれが連携して「ブーム」を巻き起こしては、消費を喚起し、次々に世界を席巻していった――そんな時代が、77年の時点から見てみると「ほんの10年足らず前」だったわけだ。そこで、とくにファッション寄りの日本の雑誌側からすると、あの夢よもう一度的なニュアンスで、このときのパンク・ムーヴメントに接していたのではなかったか、と僕は想像する。「あのときのように」華々しいビジネスがまた発展していくという期待感があったのでは、と。これは『平凡パンチ』や『anan』などで「海外の街や人取材」のノウハウを長年蓄積してきていた平凡出版だからこその「読み」だったのかもしれない。
しかし実際には、すでに述べたように初期ロンドン・パンクはものの見事に短命に終わった。それによく考えてみるまでもなく、あんな極端かつ挑発的なアイデアが、たとえばマリー・クワントのミニ・スカートやカラー・タイツや化粧品みたいな国際的ビッグ・ビジネスへと成長していくわけがない(ジョーダンみたいなOLが丸の内を闊歩するわけがない)。それに、そもそもマルコムとウエストウッド組などは、とくにファッション面では「スウィンギン」な先達には敵愾心以外なにもなく、「あの時代に確立した権威および体制」を根こそぎ破壊するために、日々体当たり攻撃を繰り返していたようなものだった(ただしウエストウッドは、フェミニズム的観点からはクワントの影響を受けていたし、ビジネス手法などもしっかりと参照していたのだが)。だからパンクと「スウィンギン・ロンドン」を重ね見るのは、おそらくは日本特有の勘違いだったような気もするのだが……しかし、読者の側はそれでものすごい得をした。ロンドンの「街ネタ」最新情報のつもりで(新しい商売のタネになる、との思い込みのもとで)パンク・ロック情報が『ポパイ』のようなメジャー雑誌に、大きくページまで割いて、頻繁に取り上げられていたことは――日本全国の潜在的パンク・キッズにとって、まさに天佑だったと言うほかない。
たとえば『ポパイ』の19号では、前出記事以外にも別のロンドンの現地取材ものが全19ページの特集「Swingin' new LONDON スウィンギン・ロンドン! 今いちばん面白い都市!」として掲載されていた。レディング・フェスを取材した音楽評論家の伊藤政則とともに、同じく音楽評論家の大貫憲章がロンドンに飛んでいたのだ。大貫が『ポパイ』の音楽欄、新作アルバムの小さな短評ページを担当していた時期もあり、そこではもちろん、パンク/ニューウェイヴの「日本盤新作」が、一般的な音楽雑誌よりもはるかに高い比率でフィーチャーされ続けていた。
大貫憲章
日本におけるパンク・ロック布教者としての大貫憲章の功績は、計り知れない。彼がいなかったら、どうなっていたことか。一切想像できない。77年以降も幾度も渡英しては『ポパイ』に寄稿していた大貫は、決定的な「邂逅」を果たす。それが『ポパイ』の75号(1980年3月25日発売)に掲載された「クラッシュのUKツアー同行記」だった。イギリスにて、メンバーと同じクルマに乗って「16トンズ」ツアーを取材した大貫は、ライヴ会場でブリストルの人気DJバリー・マイヤーズのプレイを体験する。ここから彼の「ロックDJ」としてのキャリアがスタートする。
当時の日本においては、DJというとディスコもしくはソウル音楽をプレイする「お店付きの人」というのが一般的だった。そんななかで「パンク・ロックやニューウェイヴ、ポストパンクのレコードをプレイしては、踊らせまくる」ことを始めたDJ大貫憲章は、またたく間に日本のパンク・キッズのあいだで唯一無二の信頼できる兄貴分として人気を得る。そしてキッズは、クラブで彼がプレイするレコード群から、パンク文化の躍動を身体で憶えていった。ゆえにパンク・ファンや後進のDJのみならず、ミュージシャンのあいだにも大貫の信奉者は多い。彼が主宰するパーティー『ロンドン・ナイト(London Nite)』は、開催するヴェニューを変え、途中休止期間を挟みながらも、2020年代の今日もなお、キッズや元キッズを沸かせ続けている。
「パンクスのゆりかご」原宿
街について見てみよう。歴史的に、日本においては原宿が最初の「パンクスのゆりかご」となっていた。輸入レコード店にまだイギリスのパンク・ロック・シングルやパンク・ジンなどほとんど置いていなかった時代、古着やパンク・ファッションといっしょにそれらを売っていた店が、原宿地域にはあった。竹下通りの〈赤富士〉が拠点のひとつで、77年、学生時代の高木完はそこでセックス・ピストルズの7インチを購入したという。原宿ロックンロール文化の総本山となる〈クリームソーダ〉は、そもそもがマクラーレンとウエストウッドの〈トゥー・ファスト・トゥー・リヴ、トゥー・ヤング・トゥー・ダイ〉がアイデア元のひとつだった。だから同店総帥の山崎眞行がパンク・ショップを原宿セントラルアパートの裏にオープンしたときには、やはりマクラーレンとウエストウッドのショップ〈SEX〉に敬意を表して、その店は〈SUPER SEX〉と名付けられていた。神宮前2丁目には〈SMASH〉もあった。ハリウッドランチマーケットの創設者である垂水ゲンが千駄ヶ谷にオープンした〈極楽鳥〉もパンク・ファンに人気があった。だからこの地にプラスチックスが降臨し、のちに「裏原系」と総称されるストリート・ブランドの興隆があったのは、当然のことだった。なによりもまず「街の音楽」であるパンク・ロックは、たとえばスケートボード・ショップから新しいスケート・テクニックや着こなしのスタイルが発信されていくようにして、若い世代へと浸透を始めていったのだった。
【今週の4曲】
Friction - Gapping
Lizard - SA・KA・NA
Mirrors - Passenger (Live in Tokyo 1979)
Mr. Kite - Crazy or Lazy
(次週に続く)