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【リレーエッセイ】Charaさんも愛読! 『ガウディの伝言』外尾悦郎さんからの運命の電話

アランちゃん4歳時のこの一冊は、彫刻家・外尾悦郎さんの『ガウディの伝言』(2006年7月刊)です。

外尾悦郎さんにいきなり会う

アントニオ・ガウディは、スペインのバルセロナにある「サグラダ・ファミリア贖罪聖堂」で知られる世界を代表する建築家です。サグラダ・ファミリアの建設は19世紀の終わり、1882年にスタートしましたが、着工から135年以上の歳月を経たいまでも未完のまま工事が続いています。この壮大な聖堂の建設に、日本人として参加してきたのが本書の著者である彫刻家の外尾悦郎さんです。

サグラダ・ファミリア贖罪聖堂「生誕の門」

サグラダ・ファミリア贖罪聖堂「生誕の門」。アントニオ・ガウディが1893年に着工し、外尾さんが15体の天使像を制作したことで完成した。

外尾さんと初めてお目にかかったのは、2002年か2003年くらいだったでしょうか。

当時、フランク・ロイド・ライト研究の第一人者、建築史家の谷川正己さんとライトに関する本づくりを進めていたのですが、あるとき谷川さんが「外尾さんと会うんだけど、あなたも一緒にどう?」と唐突に話されたのです。そのとき外尾さんは日本に一時帰国されていて、願ってもないチャンスと、ご挨拶に伺いました。記憶は定かではないのですが、挨拶に伺ったのが谷川さんにそう言われた当日だったか翌日だったか、とにかく心の準備もないまま会いに行ったことをよく覚えています。初めてお目にかかったときは立ち話程度しかできなかったのですが、滞在先のホテルを教えてもらい、後日、ホテルのフロントに執筆の依頼の手紙を預けました。すると外尾さんから編集部に電話がかかってきて、「ぜひご一緒したい」とのありがたいお申し出をいただき、本づくりがスタートしました。

フランク・ロイド・ライト研究の第一人者、建築史家の谷川正己さんと一緒に作った一冊『フランク・ロイド・ライトの日本』(2004年)。谷川さんが私に外尾さんを紹介してくださいました(谷川さんは2019年に他界されました)。

当時はZoomなどはなく、Skypeや電話でバルセロナに在住の外尾さんにお話を聞く日々が続きました(バルセロナと日本の時差は7時間。日本の深夜にあたる時間帯での取材が続きました)。まとめてくださったライターの古瀬和谷さんにはたいへんなご苦労をおかけしました。感謝の気持ちでいっぱいです。

本書は、お陰様で現在まで長く読まれる一冊になりました。

余談ですが、シンガー・ソングライターのCharaさんが本書を取り上げてくださっているのを、つい最近知りました(ご自宅のキッチンに本書を置いて愛読してくださっているとのことです)。

この本を読んでいたのが、ちょうど2011年の東日本大震災の頃。2011年の8月にチャリティーソングとして発表した『伝言』という曲の歌詞の一部には、この本の影響が出ていますね。3.11がきっかけで生活が大きく変わった人も多いと思いますけど、日本は地震が多い国だっていうことに改めて向き合ったし、「明日死ぬかもしれない」って私は強く思ったんです。そこで、身勝手に生きるんじゃなくて、「私が本当にやるべきこと、私の役割って何だろう。それをやったほうがいい」と意識し始めて。この本によってそれを植え付けてもらった気がしました。それに、言葉って一度口に出したら引っ込められない。この本を読んだ後から、そういう話をするようになりましたね。(日経xwomanTerrace「人生に効く逆転の一冊」2021.04.02)

『99・9%は仮説』『若者はなぜ3年で辞めるのか?』

アランちゃん4歳時に刊行された主な光文社新書はこちらです。

・『ニューヨーク美術案内』千住博・野地秩嘉(2005年10月)
・『「ニート」って言うな! 』本田由紀・内藤朝雄・後藤和智(2006年1月)
・『99・9%は仮説』竹内薫(2006年2月)
・『神社の系譜』宮元健次(2006年4月)
・『行動経済学』友野典男(2006年5月)
・『企画書は1行』野地秩嘉(2006年6月)
・『人体 失敗の進化史』遠藤秀紀(2006年6月)
・『若者はなぜ3年で辞めるのか?』城繁幸(2006年9月)
・『アンダースロー論』渡辺俊介(2006年9月)

この期間には『99・9%は仮説』や『若者はなぜ3年で辞めるのか?』というベストセラーが誕生します。本書の担当は「カッキーちゃん」こと柿内芳文さんです。

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『99.9%は仮説』『若者はなぜ3年で辞めるのか?』
担当はともにカッキーちゃん

ちなみに2006年の2月には、冬季五輪トリノ大会フィギュアスケート女子で荒川静香選手が日本フィギュア界初の金メダルを獲得しています。自由演技ではプッチーニのオペラ「トゥーランドット」の曲に乗った華麗な演技を披露、コーエン(アメリカ)やスルツカヤ(ロシア)らのライバルを抑えて逆転優勝。このとき荒川選手が自由演技に取り入れた得意技「イナバウアー」は2006年の流行語大賞に選ばれています。

「石」が外尾さんをバルセロナに連れて行き、サグラダ・ファミリアに引き合わせた

さて、外尾さんは、なぜ日本を離れてバルセロナに渡ったのでしょうか。

外尾さんは1953年に福岡県で生まれます。1977年に京都市立芸術大学の彫刻科を卒業し、美術の非常勤講師をされていました。それなりに忙しい生活を送られていたそうですが、あるとき車を止めた交差点で、路側帯に積まれていた石材にスーッと心を奪われてしまったそうです。そのときの心境を外尾さんは次のように語っています。

「学生時代に打ち込んだ、石を彫るという忘れかけていた魂が、自分を抜け出して石に乗り移ってしったような感じです。それからというもの、石が彫りたくて仕方がない。そればかり考えて、心穏やかならぬ講師生活になってしまいました」

1970年代というのは、まだ「洋行」という言葉が生きていた時代でした。外尾さんは、ピカソやダリといった芸術家たちが吸っていたかもしれない空気を吸い、強いエネルギーを持った異国の若者たちと交流しながら、自分を磨きたいという憧れを抱くことになります。

そして、スペイン・バルセロナへ――。

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バルセロナの町並み Photo by Logan Armstrong

当時のサグラダ・ファミリアは、今日のように有名ではなく、旅行者もまばらで、建設が続いているかどうかもよく分からなかったような状態だったそうです。そしてある日、サグラダ・ファミリアの「生誕の門」(ガウディが1893年に着工し、外尾さんが15体の天使像を制作したことで完成)の傍らに無造作に積まれていた石材の山を見て、外尾さんはこう尋ねました。

「それを一つ彫らせてほしい」

無謀にもそう交渉したのがきっかけで、外尾さんはその後、プーチ・ボアダさんやルイス・ボネットさんという、ガウディの直弟子の方々と会い、サグラダ・ファミリアに彫刻家として雇われることになります。

生誕の門。左から「希望」「慈愛」「信仰」の扉口

生誕の門。左から「希望」「慈愛」「信仰」の扉口

本書「プロローグ」から2節を特別公開!

本書は、ガウディ、そしてサグラダ・ファミリアに隠されたメッセージを外尾さんの視点で読み解いていくものですが、未読の方のために「プロローグ」から二節ほど抜粋して紹介いたします。

現代人がガウディに学ぶべき知恵とは?

ガウディは1852年、日本でいえば江戸時代の末期に生まれていますが、決して過去の人ではありません。むしろ現代人よりもはるか先へ行っていた人だったと思います。

当時のヨーロッパ史を外観してみると、18世紀後半から19世紀にかけて各地で産業革命が起こり、工業の力が飛躍的に増大していきます(スペインで最初に産業革命に成功したバルセロナは、19世紀後半にかけて大発展を遂げました)。

それに伴って人口が爆発的に増え、想像を絶するような貧富の格差が生まれ、それがさまざまな争乱の火種になっていく。ヨーロッパの社会全体がマグマのように煮えたぎりながら膨張し、あちこちで火を噴いていたような時代だったと思います。

その中からキラ星の如き天才たちが次々に生まれ、現代の礎となる、多くの発見や発明がなされていく。また、それがすぐに実用化されて普及し、文明がダイナミックに、目まぐるしく変化していく。

ガウディはそういう時代の真っ只中に生まれ、日本でいえば昭和元年の1926年まで生きた人であり、科学技術の可能性に期待と確信を持っていました。当時の先端技術に注目するだけでなく、それをどう使うか、何のために使うかということを考え抜き、また、「こういう方向に科学が進んでいけば、こんなこともできるようになるはずだ」ということまで見通していた人です。

同時に、ガウディは、中世ヨーロッパに片足を置いていたような人でもあります。

現代のように機械が普及する以前、ものづくりの主役を担っていたのは、ヨーロッパでも職人たちです。自身も伝統的な職人の家に生まれたガウディは、彼らの力を最大限に引き出す術をよく知ってました。特に石を自在に操る石工や鉄を思い通りの形にする鍛冶職人。彼らの優れた技術がなければ、ガウディの作品は存在し得なかったでしょう。

ガウディは現代の効率主義とはまったく違う、本当の意味での合理的な精神を持っている人だったと思います。古いか新しいかにかかわらず、そのときある方法の中から最高のものを選び取り、組み合わせていることもそうですが、それだけではありません。

ガウディが考え出したアイデアの中には、当時は奇妙に見えたものの、プレキャスト工法や破砕タイルによる曲面の被覆(ひふく)、廃材を利用するエコロジカルな建築など、今日ではその価値が疑いなくなっているものがたくさんあります。現代人がガウディに学ぶべき知恵は、まだまだ多くあるでしょう。

グエル公園の正面

グエル公園の正面。1900〜1941年にかけて建設されたガウディの代表作。奥に見えている中央広場と列柱は雨水を濾過する機能を備えている。

人間にとって大切なことは何か?

ガウディの作品は、人類が向かうべき方向性についても、多くの示唆を与えているように思えます。私はサグラダ・ファミリアでガウディの考えた彫刻をつくりながら、そのことをずっと感じ続けていました。

ガウディは波乱に満ちた、見る人によっては悲惨とも取れるような人生を歩んだ人です。

当時は、思想面でも、いろいろと革新的なものが生まれた時代でした。たとえば、ダーウィンの『種の起源』(人間がサルから進化してきたという進化論は、キリスト教世界では今日でも論争の種になっています)やマルクスの『資本論』などが、ガウディの幼少期から青年期までの間に書かれています。

そういった新たしい、強い影響力を持つ思想が、熱せられた社会の中で人々を揺り動かし、世相が混沌としてくる。一部の若者たちが手に武器を持って暴走する。バルセロナは19世紀の終わり頃から、アナーキズムの吹き荒れる時代になっていきました。そのエネルギーがやがてスペイン市民戦争の中で爆発することになります。

一方、そういう不穏な時代の中で、聖ヨセフ帰依者協会のようなものが興(おこ)り、拠り所を求める信者たちが殺到する。サグラダ・ファミリアは嵐の中で船出しました。

ガウディは、そういう状況の中で、自らも数々の困難に見舞われながら、人間にとって大切なことは何かということを、冷静に考え続けていたと思います。そして生涯最期の数ヶ月間は、サグラダ・ファミリアに住み込み、その建設にすべてを捧げました。

1906〜1910年にかけて建設されたカサ・ミラ

1906〜1910年にかけて建設されたカサ・ミラ。バルセロナのグラシア通りにある。直線部分をまったくもたない建造物で、外観の波打つ曲線は地中海をイメージして作られた。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。

ガウディが残した最後の言葉

1926年6月7日の夕方、ガウディはバルセロナ市内で路面電車に撥(は)ねられます。駆けつけた市民がガウディを病院に運ぼうとしましたが、ガウディがあまりにも貧しい身なりをしていたため、4台ものタクシーが乗車を拒否したというエピソードが伝えられています。

ガウディがサグラダ・ファミリアに残した最後の言葉も伝えられています。

それは1926年6月7日、ガウディがミサに向かう前に職人たちに語った次の言葉です。 

「諸君、明日はもっと良いものをつくろう」

6月10日の午後5時8分、ガウディは永遠の眠りに就きました。

アントニオ・ガウディ・コルネット。享年74。

こうして、サグラダ・ファミリアの建設は次の世代に託されたのです。

石を彫る著者 写真提供:リヤドロ

石を彫る外尾さん(写真提供:リヤドロ)

アランちゃん4歳時のこの一冊

*写真はバルセロナの町並みの写真以外、すべて本書で使用したものです。

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