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心理学的決定論とは何か?―僕という心理実験Ⅲ 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmidt
妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。
過去の記事はこちら。

心理学的決定論とは何か?―僕という心理実験Ⅲ 妹尾武治

ベルクソンの「持続」

全ての事象は世界の始まりと同時に用意されており、それが順繰りに我々に提示されているだけのことなのだ。全ては事前に決まっており、当然あるものとして用意されている。

全ての事象は、スライドとして映写機の中に世界の始まりからセットされている。スライドとは「今」を意味する。そして、そのスライドが次から次に切り替わること。これがフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの思想における最重要概念の「持続」である。人間はこの「持続」のことを「時間」と読んだりする。そして、過去・現在・未来という時間の流れの中に、因果関係を感じる。過去は現在の原因となり、未来は現在の結果となるのだ。

私は、ベルクソン哲学の今の“持続”が、意識の自然法則なのかもしれないと考えている。

これと似た知覚現象がある。仮現運動だ。

例えば真っ白な画面の左端に、黒い丸が描かれている。次の画面では、右端に黒い丸が描かれており、左の黒い丸は消えている。この二つの画面を交互に繰り返してみると、黒い丸は左右に飛び跳ねて動いて見える。これが仮現運動と呼ばれるもので、1912年以降にゲシュタルト心理学者のマックス・ヴェルトハイマーが重点的に研究を行った。

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この時、物理的には黒い丸の“運動”は存在していない。黒い丸は、ただ左にある、右にある、を交互に繰り返しているだけだ。しかし、これを脳が見ると左右の黒い丸は因果関係で結ばれる。画面の切り替わりとはベルクソンでいう「持続」だ。そして仮現運動の知覚とは「時間」と等価である。世界は事前に決まっており、今の持続に対して人間側が勝手に時間を見出している。

扉を開けて部屋を移動する。以前いた部屋と今いる部屋、この二つは時間の経過の中で自分の意志で移動したものと、我々は考える。しかし、本当にその前後の関係に結びつきはあるのか? 二つの部屋における「自分」は同一か? いやむしろ、なぜそのように思う「心」(ベルクソンの「持続」)が人間ないしは「世界」に備え付けられているのかが、私にとっては一番の問題だ。時間と意志がバラせる関係であるのか、それとも意志が時間を流すのかと考えた時、意志はますます存在しなくなり、幻覚だったのではないかと思えて来る。

以上が、心理学(脳科学、哲学、精神医学などの周辺領域を含めた心理学)を学ぶことで得られた視座である。

マクロ的決定論とミクロ的未決定論

世界は決まっていないという論拠に量子論やカオス理論を挙げる科学者が多い。この点への私見を前著(『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。』)では全く書けなかったので、今回ここで思うところを書いてみたい。

量子論では確率論的に観測結果が決まる。いわゆる不確定性原理によって、世界の様相は未確定であることが明らかになっている。SF的に言えば「多数ある並行世界(世界線)」、その並行世界のどこに行くかは確率論的に決まるのであって、確定された未来はないとされている。

同様に、カオス理論でも、世界の細部構造にはカオスと呼ばれるどうしても未確定な要素が存在する。そのためそれらの蓄積である全体としての世界も「確定しているはずがない」という主張がなされる。

これらの意見に対して、私は厳密な議論が出来るほど、科学的な素養を持たない。だから素朴な思考実験で回答したい。それは、心理学的決定論はマクロ視点的決定論・結果論的決定論であり、ミクロ視点的決定論では無いという主張である。

カオス理論や不確定性原理が存在しても、明日の天気予報はほとんど当たる。ケーキが大好きなA子さんにケーキを差し入れすれば喜ばれる。この二つの事象の細部にどれだけ不確定な要素があったとしても、マクロ的・巨視的に見れば、過去の特定の時点で未来の世界は決定していたと言える。少なくともものすごく高い精度で予言が可能であったと言える。

ミクロ的に確定しない要素があったとしても、マクロ的に未来を決めることが可能である場合、それは決定論が成立していると私は思う。

現在の人間の知恵では、ミクロレベルでは不確定に見えるものがあるとする。つまり量子論やカオス理論的な未確定性である。しかし、数百年後の人類はその不確定さを新しい法則で(例えば、相対性理論と量子論を統合出来る理論で)、取り去っているかも知れず、本当は決定論が正しいのかもしれない。

現状の人類には不十分な情報と理論しかない。その場合マクロレベルの決定論を否定する方法もあるが、ミクロレベルの不確定性を、現状の人類の未熟さを原因に否定することも可能ではないだろうか?それは今の時代がはまらせた、エアポケットのようなものではないだろうか。私は後者の立場を取りたいと思っている。

不確定性原理があるとしても、明日の天気はほぼ正しく当てられる。どの世界線に進むかに不確定性があったとしても、全ての世界線は事前に用意されている。ベルクソンが言う「映写機の中のスライド」のように。それを持って決定論を主張することは悪だろうか?

むしろ素直な人間ならば決定論が正しいと思うのではないだろうか。世界の本質は、難しい数式が無くとも全ての人間が直感的に理解出来るものだと、私は信じている。特別な訓練を受けた学者にしかわからない言葉ではなく、誰にでも理解出来る言葉で、世界の真実は伝えられるはずだ。

人生というものを知りたい。世界を知りたい。本当のことが知りたい。この気持ちは一部の知性に恵まれて、環境的にも学ぶことが出来た“特権階級”である「学者」だけのものではない。皆で楽しく話し合うための言葉遣いが必要だと思う。知性や存在に優劣は無いと信じたい。

アルバート・アインシュタインは量子論の不確定性原理に対して「神はサイコロを振らない」と批判したことで有名だ。と言っても、アインシュタインにとっての神とは自然法則のことであり、それを解き明かすのが科学者の役目だという言説も残されている。

アインシュタインが言いたかったのは、量子論の不確定性原理は、将来的に神が描いた決まった世界を解き明かす過程の途中で生じたエアポケットに過ぎないということだったのかもしれない。

余談だが、アインシュタインは娘リーゼルに究極の答えとして「Love is God and God is Love. (愛は神であり、神は愛だ。)」と手紙を送っている。究極的な天才科学者の結論は「愛」という、誰にでも理解可能なごく単純な一語だったのだ。

注意書きするが、皆さんには本連載の主張を受け入れる必要は全くない。科学的な正しさも主張しない。読み終えた時、あなたの中に新しい視点が生まれていて、その「思考の引き出し」があなたの人生を生きやすくすることだけを求めている。そのためなら、私の考えをどんどん使ってみて欲しいと思う。あなたが生きやすいと思う形で世界を認識すれば良い。正誤も上下も無く、あなたはこの世界の創造主なのだ。

神の数式という決定論的前提

先のカオス理論や不確定性原理に関連した話をもう一つしようと思う。物理学者・数学者たちは、世界の法則を数式で表すことを目標に仕事をしている。この世は「神の数式」とも呼べる法則に従っており、それを解明するのが学者の仕事であると。突き詰めていけば「世界の全てを数式化したい。それが出来るはずだ」と彼らは思っている。

科学者は意識する・しないの違いはあれど「この世界は数式に落とし込める」という前提で研究活動をしているように思う。心理学者であっても生物学者であっても、世界の本質を数式という形に落とし込むことを目指している。モデルを作る・モデル化するという表現は(経済学を含めた広範な)科学界で、頻出するワードである。言ってみれば科学とは「神の究極のモデル」を明らかにすることを目指しているのではないだろうか。

世界が数式で表せるならば、それは結局のところ「情報」であるということだ。物質的なものばかりが目につくが、世界の本質は数式つまり情報なのだ。この点は前著で提示した思想“心理学的決定論”ですでに述べたことだ。

世界に立ち現れる方法として炭素などで出来た身体のような「物質」に依拠する面は確かにある(そして人間の心もまた、モノに依拠しないと生きていかれない。これについては後述する。)。だがあくまでも世界・生命・意識、その全てで本質は情報なのだ。

そして現代の科学と科学者たちは無意識的にであっても、このことを既に受け入れている。すなわち神の数式を前提に敷くからこそ、科学者たちは「真実」を探求出来るのだ。

同僚の物理学者・数学者と飲み会をすると、世界を統べる神の話がよく出てくる。曰く「その数式・モデルは“美しくない”」と。つまり神の視点での「美しさ」を競うような場面によく出くわすのだ。

この「美しい」という考えの背景には決定論がある。何かしらの「正解に近い」感触がある時に、科学者はそれを「美しい」と言う。学者の研究でいい研究結果が出たときの「正解感」は、まさに神からの承認のように感じられる。決定論的世界が示す正解があるはずだと言う前提がどこかに敷かれているのだ。

中高生たちも受験などで数学の問題が解けた時のピッタリ感と、間違って解いている時のもんやり感を思い出せる人も多いだろう。答えに自信が持てる時の「スッキリ、ピッタリ」した感じも決定論を意識出来た瞬間の一つだと言えるだろう。

振り返ってみると、平安時代の陰陽道は当時の最先端科学であった。方違えなどを本当に信じていたし、健康に良いと信じて水銀を飲んだりしていた。今の我々からみると、陰陽道は宗教である。では今から500年後の人が今の科学を見た時、それが宗教になる可能性はどの程度あるのだろうか? 

人間はより正しい「拠り所」を見つけるために、サイエンスすなわち知識を蓄積して来たのである。現在のそれはかなり確からしく見えるし、極めて客観的にも見える。しかし結局のところ、それは依然として“心の拠り所”に過ぎない。「神を殺した」はずの科学が、今その座についているだけのことだ。(続く)



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