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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟…
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#生活

暗闇の効用|馬場紀衣の読書の森 vol.67

「我々は昼を夜にすることも、夜を昼にすることも望まない」これは啓蒙主義の時代の作家、ジャン=ジャック・ルソーの言葉だ。生きものが一日を光と闇の交替に合わせて暮らしていることも、昼と夜が等しく大切な時間だということも理解しているはずなのに世界はますます明るいほうへと引きずられていく。神が街路を明るく照らす許可を私たちに与えていないことを知っていたルソーとちがって、現代人が暗闇の重要性に気が付いたのは街がすっかり明るくなってからだ。 人工の光は人体のリズムと調和を乱し、鳥を真夜

読書入門|馬場紀衣の読書の森 vol.66

読書ほど孤独な営みはないと思う。本を読んでいる人は静かだ。本が開かれている時、彼らはここではないどこかにいる。どこか、手の届かない場所に。この本を読んで、そんなことを考えた。 私は、からだ、というものにずっと惹かれているのだけれど、読書はまぎれもなく身体的な経験だと思う。表紙をめくるときの指先の感覚、紙の手触り、文字を追う眼の動きやページの擦れる音。そして、匂い。じっさい、古い本と新しい本とでは匂いがまるでちがう。本の一冊一冊が、まるで一人一人の人間のように孤立している、と

ルポ 筋肉と脂肪|馬場紀衣の読書の森 vol.65

いつも、すこしだけ空腹でいるように意識している。一日に三度も食事をする(というのがどうやら一般的らしい)というのがせわしなくて、私はしょっちゅう食事のタイミングをのがしてしまう。だから空腹状態という食べすぎの現代人にはちょうど良い習慣も、健康のため、美容のため、総じては自分のためにしてあげられる「健康的な選択」というよりも、なにしろ生きていくので精一杯なので、ふと気がついた時にはエネルギーが底をついているという状態なのだ。なにか食べなくては、と、とりあえず消化の良いものを選ん

「腹の虫」の研究|馬場紀衣の読書の森 vol.61

「腹の虫がおさまらない」というのは腹が立って仕方がなくて気持ちが昂っている状態をさすのだろうけれど、この場合、興奮しているのは私なのか、それとも腹の中にいる虫のほうなのかどっちだろう。そんなことを考えていると可笑しくなってきて、しまいには笑ってしまうのだけれど、この場合も笑っているのは私ではなくて、腹の中にいる虫だったりするのだろうか。「虫が好かない」とか「虫がいい」とか「虫の知らせ」とか、虫にまつわるいろんな言い回しがあるけれど、一体全体虫って何のこと。それって、どんな虫な

チベット高原に花咲く糞文化|馬場紀衣の読書の森 vol.60

森林限界よりも標高の高い場所。冷たく、乾燥したチベット高原に暮らす人々にとってヤクの糞(牛糞)はもっとも重要な生態資源だ。ヒトと動物の暮らしの関係を考えるとき、動物の毛皮や乳や肉が取りあげられることはあっても糞に注目することはそう多くないのではないだろうか。さらにいえば、牛糞の有用性についてこれほど詳しく書いた本というのも珍しいように思う。 この資源の乏しい高冷地において、牛糞の果たす役割は想像以上だ。牛糞なくして人は生き抜けない、と言ってもいい。それほどまでに牛糞は人々の