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世界が消えても、なくなることはありえない……本が好きな人たちの大切な場所【第6回】世界の書店と図書館を巡る旅|駒井稔


メルボルンの書店の充実ぶり、ロンドンの書店員の驚きの接客


私は編集者として、欧米を中心に、ブックフェアや観光で訪れた都市では必ず書店巡りをしてきました。

ニューヨークの大型書店や個性的な書店、フランクフルトの古書店では、深い感銘を受けたこともありました。最近ではメルボルンの書店の古典の棚の充実ぶりに驚きました。

メルボルンで訪れた書店の古典の棚
19世紀イギリスのブロンテ三姉妹の著作が並ぶ



しかし、一番強く印象に残っているのは、ロンドンの大きな書店での出来事です。

ふと気づくと、前方のレジのところで、女性の書店員がお客を相手に、大きな身振りとともに熱弁を振るっているではありませんか。

書店員が客に話している内容は、「この本を買ったら、次はこの本がお勧めよ。あの本は読みましたか。それなら次はこれ。さらにはこの本を……」。――次々と書名を挙げていって、終わることがありません。

レジの前に並んでいる客たちは、当然のように黙って待っています。日本では見たことのない光景でしたので、私は思わずじっと観察してしまいました。

書店員の熱量は尋常なものではありませんし、このような行動が、その書店員や客にとっても当たり前のことなのだということも理解できました。そして、これこそが書店なのだなと深く納得したことを、よく覚えています。


書店の未来形を体感――台湾・台北の「誠品書店」


コロナ禍が始まる直前の2019年の暮れには、台湾の台北市に旅行しました。発展著しい台湾を体感しようという旅でしたが、もう一つ、ぜひ訪ねてみたい書店があったのです。

その名は「誠品書店」。台湾の新しいタイプの書店チェーンとして評判になっていました。確かに大きな書店でした。日本の子どもたちに大人気の『おしりたんてい』をはじめ経済書まで、翻訳された日本の本がたくさん並んでいるのに驚きました。こんなに日本の本が並んでいる海外の書店は、記憶にありません。

台北の誠品書店にて。『おしりたんてい』(『屁屁偵探』)を夢中で読む少女


そこは、本のアミューズメントパークといってもよいような、多様な楽しみに満ちた場所でした。私は、書店の未来形の一つが確実に発展しつつあることを認識しました。

素敵なカフェテリアもあり、何度も食事に訪れました。併設という規模ではなく、書店の大切な一部となっているのです。扱っている雑貨の種類の豊富さにも圧倒されました。ちょっとしたカルチャーショックでした。

一方で、台湾でも、独立系の小規模な書店が増えているそうです。そういう書店ばかりを紹介した面白い本があります。『書店本事 台湾書店主 43のストーリー』では、素敵な独立書店がたくさん紹介されています。次回の台湾旅行でぜひ訪ねてみたい書店が増えました。


あなたを世界へつなぐのは、書棚に挟まれた狭い回廊だ


今回は、世界の書店と図書館を紹介した本を取り上げましょう。

まず、その名もずばりの『世界の書店を旅する』という本からご紹介します。タイトルを読んで、「世界」とは言うけれど、きっと欧米を中心にした書店をたくさん訪ねたのだろうと思った方も多いのではないでしょうか。

ところが、これが看板に偽りなしの内容なのです。著者の住むバルセロナから、アテネ、パリ、ロンドン、中国や日本を含むアジア、北米を横断するかと思えば、南米も北から南に縦断しています。さらには、オーストラリアや南アフリカといった、今まであまり知られることのなかった土地の書店を、自ら旅をしながら紹介した驚異的な本です。


著者のホルヘ・カリオンは、1976年、スペイン生まれ。現在はバルセロナ大学で文学と創作を教えています。この本は、日本での翻訳が出た2019年の時点で16カ国で翻訳され、スペイン本国でも2万部以上売れているそうです。

確かにこんな本は、私も読んだことがありませんでした。ですから、著者の行動力に驚嘆すると同時に、内容の豊かさに魅惑されました。

 どんな書店にも世界が凝縮されている。あなたの国とその言語を、異なる言語が話される広大な地域へとつないでいるのは、飛行経路ではなく、書棚に挟まれた細い回廊だ。

第一章はこんな素敵な書き出しで始まります。そして書店と図書館の相違については次のように解説します。

 書店の歴史は図書館の歴史とはまったく別物である。書店は連続性を欠き、制度的な支援もない。公共のニーズに応えようとする起業精神に富んだ個人の事業としてかなりの自由が許されるが、一方で、まじめな研究の対象とはならず、観光ガイドブックにもめったに載らず、学術論文のテーマとなるのは、ついにとどめの一撃が下され、神話の領域に入ってからである。

これは、書店と図書館の違いを、じつに見事に表現した文章だと思います。そして後ほど紹介する、パリのオデオン通りにあったアドリエンヌ・モニエの「本の友の家」と、シルヴィア・ビーチの「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」を、その「神話化された例」として挙げています。

また同じように神話となった、ロンドンの古書街であるチャリング・クロス通りにあった書店を舞台にした書簡集、ヘレーン・ハンフの『チャリング・クロス街84番地』を、書店について書かれたノンフィクションでは最高傑作として挙げています。こちらも後ほどご紹介します。


書店を巡るために、世界を巡る


さて、この本(『世界の書店を旅する』)の凄いところは、旅の本でもあるところです。大学で教鞭を取っている人間が、これほど書店の現場を訪ねて歩いたことは、驚き以外の何物でもありません。

第3章の「世界最古の書店」のなかで紹介されている、1700年か1703年か1710年(いくつかの出典による)に開業したパリのドラマン書店が、世界最古の書店ではないか、という一節を読んだ時には、著者の執念に驚きました。

かと思えば、第5章の「政治的であるべく運命づけられた書店」では、キューバの故カストロ首相が、人生を変えた書物『共産党宣言』とレーニンの『国家と革命』を買った書店が、ハバナのカルロス三世通りにある共産主義系書店であったことが書かれています。

こんなトリヴィアが無限に散りばめられた本なのです。


東方の書店では、イスタンブールの書店が紹介されています。かと思えば、日本では「リブロ」を訪れて、村上春樹さんの本を発見しています。北米はニューヨークから始まり、カリフォルニアで終わります。中南米の書店巡りも、興味深いエピソードが満載です。

書店について、著者のホルヘ・カリオンの言葉が心に残ります。

私は読者としての悩みを解決したいとき、バルセロナ現代文化センターのライエ書店にいるダミア・ガリャルドのもとを訪ねるようになった。よい書店員には医者や薬剤師やカウンセラーに通じるところがある。

この言葉には、著者が世界中の書店巡りをした動機の一つが、上手に表現されていると思います。書店という場所がなにかを与えてくれる。そんなことを教えてくれる好著です。是非ご一読をお勧めします。

アメリカの作家とロンドンの古書店員との、20年にわたる書簡集


さて、ホルヘ・カリオンが、「書店について書かれた最高のノンフィクション」と絶賛した、イギリスの古書街を舞台にした『チャリング・クロス街84番地』という魅力的な本をご紹介しましょう。

チャリング・クロスはロンドンの有名な古書街ですが、そこにあったマークス社と、アメリカのニューヨークに住んでいたヘレーン・ハンフという女性作家との往復書簡集です。


この本は大きな評判を呼び、映画化もされたそうです。私自身も何度も読み返している本です。10年ほど前になりますが、ロンドンへ行った時に、わざわざチャリング・クロス街に行き、古書店巡りを楽しんだことがあります。

翻訳を手掛けたのは、あの江藤淳です。解説で以下のようにこの本の魅力を書いています。

『チャリング・クロス街84番地』を読む人々は、書物というものの本来あるべき姿を思い、真に書物を愛する人々がどのような人々であるかを思い、そういう人々の心が奏でた善意の音楽を聴くであろう。世の中が荒れ果て、悪意と敵意に占領され、人と人のあいだの信頼が軽んじられるような風潮がさかんな現代にあってこそ、このようなささやかな本の存在意義は大きいように思われる。

『世界の書店を旅する』のホルヘ・カリオンが褒めるのも分かりますね。先ほども書きましたように、アメリカ在住のヘレーン・ハンフという女性作家と、ロンドンの古書店・マークス社の従業員であるフランク・ドエルという男性との手紙のやり取りがそのまま残された本ですが、他の従業員やフランク・ドエルの妻などの手紙も入っています。

本を媒介にした20年にわたる手紙での付き合いは、ちょっと類例がないように思います。そしてフランク・ドエルの突然の死によって、この二人は結局一度も会うことなく終わってしまうのです。最初の手紙の日付は1949年10月5日となっていますから、第二次世界大戦が終わって間がない頃です。

容赦ない本の催促と、厳しい批評


付き合いは、このようにはじまります。ニューヨークに住むへレーンが、古書店への挨拶とともに欲しい書籍のリストをロンドンへ送ると、さっそく返事がありました。もちろん相手はフランクでしたが、この段階では分かりません。

余談ですが、本書の解説で、訳者の江藤淳がもう一つ指摘しているのは、ヘレーンの読書の趣味は一流であることです。

最初はビジネスライクな付き合いから始まりますが、だんだんと親密さが増していきます。そしてヘレーンが、イギリスでは戦争の影響で食糧が配給制になり肉や卵に不自由している事情を知って、ロンドンへクリスマスプレゼントを送るあたりから、人間的な交際が始まります。もちろんその間も、本の催促は容赦なく続きます。

 お送りいただいたこの本は、サミュエル・ピープスの日記なんてものではありません。こんなもの、だれか出しゃばりな編集者がでっちあげた、ただのあわれな抄録です。こんなもの作った奴はくたばっちゃえばいいんだわ。こんな本、私、鼻もひっかけないことよ。

日本でも読まれている『ピープス氏の秘められた日記』の短縮版に対して、こんな厳しい言葉で、ヘレーンはフランク・ドエルに抗議します。


このヘレーンの激しさとフランクの落ち着いた対応の妙が、この本に彩りを添えています。1950年代から60年代を通じて、ヘレーンとフランクの心温まる手紙での交流は続いていきます。

しかし、1969年の年明けにマークス社の秘書から届いた手紙には、フランクが前年末に急病で死去したことが書かれていました。一度も会うことなく、フランクは旅立ってしまったのです。

経済的な理由でイギリスにいくことも叶わず、20年間に及ぶ手紙のやり取りだけで終わってしまった関係ですが、ヘレーンの喪失感はいかばかりだったでしょうか。

ようやく訪れることが叶った「チャリング・クロス街84番地」


実はこの本には続編があります。ヘレーン・ハンフの『続・チャリング・クロス街84番地――憧れのロンドンを巡る旅』という本が刊行されているのです。


1970年のアメリカでの発売に続き、1971年、ついにイギリスでも『チャリング・クロス街84番地』が発売されることになり、そのPRのために、ヘレーンもロンドンを訪ねることができたのです。到着翌日の新聞の取材の後、閉鎖されているマークス古書店での写真撮影にでかけます。

 私たちは八四番地に着いた。空のウィンドウが私の本で埋め尽くされていた。窓越しに見た店内は暗く何もなかった。カルメン(出版社の広報担当者)が隣のプール古書店へ行き鍵をもらってきてくれたので、私たちはかつてマークス古書店だった場所に入ることができた。

ヘレーンは店の外で写真撮影に応じました。その時の彼女の心情に思いをはせると、複雑な感懐を抱いてしまいます。古書店という場が、私たちを含めて、人びとの心に大きな贈りものを届けてくれたといえるでしょう。

発禁処分の『ユリシーズ』をいきなり刊行、伝説の書店


次は本物の神話となった、パリの「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」を訪ねてみましょう。

店主は、シルヴィア・ビーチというアメリカ人の女性。この書店に集うた作家たちの名前を聞くと、ここがまさに20世紀文学の重要な舞台になったことがお分かりいただけると思います。『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』は、パリに英米文学の専門書店を開いた女性が書いた自伝なのです。


シルヴィア・ビーチは、フランスが大好きな両親のおかげで、たびたび彼の地を訪れていましたが、1917年のパリ再訪が、彼女の運命を決めました。ある日、オデオン通りにあるアドリエンヌ・モニエという女性が経営する書店を訪ねたことで、シルヴィア・ビーチの人生は変わります。

フランスの作家たちもいつも立ち寄っていたこの書店では、たびたび読書会が開かれ、会員になると、例えばジッドがヴァレリーを朗読するのを聴くことができるのです。

もともと書店を開きたいと思っていたシルヴィア・ビーチは、パリで英米の書物を売る書店を開くことにしました。開店は1919年の11月。本を売るだけでなく、貸し出し文庫も運営することになりました。

ジッドはすぐに、この貸し出し文庫の会員になってくれました。こういう気遣いをするジッドさん、本当に偉いですね。

1920年の夏にアイルランドの作家、ジェイムズ・ジョイスにパーティで出会ったことが、シルヴィア・ビーチの人生を大きく変えることになります。

 私は、ジェイムズ・ジョイスを大層崇拝していましたので、彼がきているというこの予期せざるニュースを聞くやいなや吃驚(きっきょう)してしまい、逃げ出したくなってしまいました。

ジェイムズ・ジョイス(1915年、33歳ごろ)


翌日、ジョイスはシルヴィアの店を訪ねてくるのです。この時期のジョイスの主な関心事は、自らの『ユリシーズ』の運命でした。掲載誌が何度か押収され、廃刊になってしまっていたのです。

店にやって来たジョイスは、このニュースをシルヴィアに語ります。大きな吐息をつくジョイスに、シルヴィアは「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店であなたの『ユリシーズ』を刊行させて頂けないでしょうか」と尋ねたのです。

もちろん、シルヴィアには編集経験はありません。書店が出版社になることは珍しくありませんが、いきなりジョイスの作品を刊行するのは大変なことだと、編集者として私は考えてしまいます。

発行禁止処分ということで、英米での出版の可能性が閉ざされた事態のなかですから、ジョイスは即座にうれしそうに承諾しました。初版千部でと、シルヴィアは考えます。現在からみると、とても少ないようですが、シルヴィアにとっては大きな冒険だったでしょう。

『ユリシーズ』の購買予約は大変好調でした。真っ先に駆け付けて予約してくれたのは、例によってジッドでした。ヘミングウェイも数冊の予約を入れてくれます。出版は遅れましたが、やっとのことで『ユリシーズ』は1922年に刊行されます。

1922年の初版の『ユリシーズ』のカバー


客として小さな書店を支えた青年ヘミングウェイ


こうしてスタートした企画でしたが、シルヴィアは書店経営と出版社の両方をこなしていかなければならず、経済的な苦境に立たされます。ですからシルヴィアには、ヘミングウェイは理想的なお客だったのです。

 私たちが愛し、少しの迷惑もかけないお客様であったのは、毎朝、シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店の片隅で、雑誌類、あるいはキャプテン・マリアッツ(イギリスの小説家)やその他の本を読み耽(ふけ)っていた一人の青年でした。これがアーネスト・ヘミングウェイでした。(中略)定期的に訪れるだけでなく書籍購入のためにお金を使ってくれるお客様、これは小さな書籍販売店を営む主人にとっては大変有難いことでもあったのですが、こうしたお客様に対する私たちの感謝の気持は大変なものでした。


若き日のヘミングウェイ(1918年、19歳ごろ)



こうしている間にもますます、シェイクスピア・アンド・カンパニイは有名になり、世界中から訪れる人が増えました。それこそ神話になりつつあったのです。

もう一人、シルヴィアと友人のアドリエンヌの仲が良かった作家は、フィッツジェラルドでした。

フィッツジェラルド(1921年、25歳ごろ)


このように、古き良き時代のパリで、世界中から集まってくる客たちを相手に書籍を売るだけではなく、作家たちのための大きな場所を作り出していったのです。

錚々たるメンバーが守った、作家たちのための場所


1920年代は、こんな平和な日々が続いていましたが、30年代になると、不況により、書店経営は深刻な打撃を受けました。30年代の中頃になると、もう店じまいをしようということころまで追い詰められます。

その話を聞いて、ジッドは驚愕します。そしてすぐに救済のプランを立ててくれたのです。

ジッドやヴァレリ―が救済のための委員会を結成し、200人の会員に、年に200フランの寄付を呼び掛けたのです。そして会員のために、この委員会の作家たちが書店で、未刊の作品を朗読する計画を立てました。寄付も集まりました。

ジッド(1920年、51歳ごろ)


最初の朗読は、もちろんジッドでした。そしてアンドレ・モーロア、ロンドンから駆け付けた詩人T・S・エリオット、ヘミングウェイなど、信じられないような豪華メンバーが、朗読を披露したのです。

こうしてシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店は生き残ることができました。

しかし、やがて第二次世界大戦がはじまり、1940年、ドイツ軍がパリに入ってきました。ある日、店にやって来て『フィネンガンズ・ウエイク』(ジェイムズ・ジョイスの最後の小説)を欲しがったドイツ人将校に、シルヴィアは本を売ることを拒否しました。

すると、2週間後に同じ将校がやって来て、再び『フィネンガンズ・ウエイク』は何処だと尋ねます。

ないという答えを聞くと、怒って品物を没収すると脅されました。しかしシルヴィアは、僅かな時間で、書店そのものをたたんでしまいました。1941年のことでした。

シルヴィアは連行され、6カ月間捕虜収容所に入れられます。戻った彼女を友人たちが匿(かくま)ってくれました。やがてパリ解放の日がやってきます。1944年夏のことです。

ある日のこと、幾台かのジープの列がやって来て私の家の前で停りました。「シルヴィア!」と叫ぶ太く低い声を私は耳にしました。通りにいる人は皆、この「シルヴィア!」という叫び声に気を惹かれました。
「ヘミングウェイだわ! ヘミングウェイなのよ!」と、(盟友の)アドリエンヌが叫び声を上げました。私は階下に飛んで行くと、互いに激しく抱き合いました。彼は私のからだをもち上げると、ぐるぐる振り回し、私に接吻しました。一方、通りにいる人々や窓から覗いていた人々はやんやとはやし立てました。

感動的な再会の場面です。まるで映画を観ているようです。

このような人生を生きたシルヴィアは、1962年に、書店のあったアパートでその生涯を閉じました。

ちなみに、シルヴィアの盟友であったアドリエンヌ・モニエも本を残しています。『オデオン通り――アドリエンヌ・モニエの書店』には、ジョイス、ヴァレリー、ベンヤミンなどが登場しますので、シルヴィアの本と併せて読むと楽しいと思います。


さて、ヘミングウェイの遺作『移動祝祭日』に「シェイクスピア書店」という短編が収められています。そこにはヘミングウェイが描いたシルヴィアの肖像が残されています。こんな書き出しで始まります。

 その頃は本を買う金にも事欠いていた。本は、オデオン通り十二番地でシルヴィア・ビーチの営む書店兼図書室、シェイクスピア書店の貸し出し文庫から借りていたのである。(中略)シルヴィアは生き生きとした、彫りの深い顔立ちをしていた。茶色の目は小動物のようによく動き、少女のそれのように活気があった。ウェイヴのかかった茶色の髪は、秀でた額から後ろに撫でつけられており、耳の真下、いつも着ている茶色いビロードのジャケットの襟の線でふっさりとカットされていた。とても脚のきれいな人で、優しく、快活で、何事にも関心を持ち、ジョークを交わしたり、人の噂話をしたりするのを好んだ。


『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』


次にご紹介するのは、イタリアの本の行商人たちの話です。ジャーナリストの内田洋子さんが書いた『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』です。魅力的な装幀の美しい本なので、思わず手に取ってしまいました。


ヴェネツィアの古書店での会話から、物語は始まります。週末になると店に出る先代の店主に、この店の出自を聞いて驚くのです。

「いいえ、私の祖父が創業しましたので、息子でまだたったの四代目です。それに父の家系はヴェネツィアではなく、トスカーナ州が出処でしてね」
 トスカーナ州ですって? フィレンツェ?
 いえいえ、と頭を振ってから、晴れ晴れと誇らしげな顔で言った。
「モンテレッジォです」


この会話から、著者の旅は始まります。モンテレッジォについて徹底的に調べ、サイトから関係者にコンタクトして、ついには山のなかにある、その小さな過疎の村を訪ねることになります。

そして何度かの訪問を経て、モンテレッジォの秘密を解き明かすのです。そこに至る過程がじつに見事に描かれていて、自分もその村にいるような気持ちになってくるから不思議です。

モンテレッジォ(2020年、Photo by Wasquewhat, CC BY‐SA 4.0)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Montereggio-1.jpg より


そのモンテレッジォの村民が、本の行商に出かけるようになった大きな理由には、以下のような切実な背景がありました。

 長年、貧しさに慣れてきた村だった。自給自足の暮らしに不足が出れば、男たちは北イタリアの農業地帯へ長期間、働きに行った。しかし一八一六年の異常気象で北部イタリアの農業が壊滅的な被害に遭い、モンテレッジォにも大きな変化が訪れる。
〈他力本願では駄目だ。自分たちの力で生活を守らなければ!〉
 しばしば不運は、底力と未来への好機を連れてくる。
 どん底で、村人たちは籠を担いだ。売れるものは何でも売ろう。買ってくれる人が見つかるまで、進もう。売り切れたら仕入れて、もっと前へ行こう。

こうしてやがて本も売ることになります。1800年代の半ばからは、イタリア統一運動が始まります。情報が欲しい。本が必要になります。ここでモンテレッジォの行商人たちの出番がやってきます。

 当時の出版社の多くは小規模で、印刷も行っていた。編んで、小部数を刷り、売る。在庫を抱えている余裕はない。モンテレッジォの人たちは、そういう版元から売れ残りや訳ありといった本を丹念に集めて、代わりに売りに歩き始めたのである。

記録によれば、1858年当時のモンテレッジォの人口は850人でしたが、そのうち71人が、職業は本売りと記載されていたといいますから、すでにかなりの人数になります。イタリアが統一されたのは1861年。1877年には5年間の義務教育が制度化されたといいますから、いよいよ読書人口は増えていったわけです。

本の行商人たちの目利きぶり――出版社も一目置く


20世紀の記録によると、本の行商人たちは、春の同じ日に村から旅立っていったといいます。ちなみに一番本が売れた町はボローニャでした。やはり大学町でもあり、当時から本を読む人が多かったのでしょうか。

出版社は規模や有名無名に関わらず、モンテレッジォの行商人たちを大変に重宝した。既成の書店からはけっして知ることができなかった新興読者たちの関心や意見を、行商人たちのおかげで詳細に把握できたからである。大きな町ならまだなんとか市場の動向も読めたものの、いざ地方の小都市ともなると販売網の外である。


ボローニャの街


これは大変面白いエピソードだと思います。出版もビジネスですから、行商人たちの情報がいかに重要だったかがよく分かります。しかももっと大きな信頼を勝ち得ていました。

 ミラノの老舗出版社ボンピアーニの創業者ヴァレンティーノ・ボンピアーニは機会あるごとに、
「モンテレッジォの行商人から本を買うということは、独立への第一歩を踏み出すということでした」
 と、言っていた。イタリアの独立運動のことだけを指したのではなく、一人前の大人として自我に目覚める、という意味合いも含めて言ったに違いない。

これだけではありません。ミラノのリッツォーリ出版社の創業者であるアンジェロ・リッツォーリは、なんと行商人たちに校正紙を読んでもらってから、本にするかどうか決めていたと言います。編集者として気持ちは分からなくはないのですが、なんという信頼感でしょう。

さらに、有名なモンダドーリ社の創業者であるアーノルド・モンダドーリは、ミラノの露店に毎朝自社の本を託して、夜に再び売れ行きをチェックに来たそうですから、行商人たちは出版人にとって、非常に重要な存在であったことが分かります。

しかも冬になって行商人たちが帰郷すると、モンテレッジォに出版人が訪問して、翌年の商談をまとめたり、新刊企画の参考にとイタリア各地のお客の反応を聞いたというのです。

 本を手に取っただけで、「これはあまり売れないでしょう」「すばらしい出来です」「ヒット間違いなし」と、読まずに次々と言い当ててみせる行商人もいた。まるで本の行く末占いで、どうしたら売れるのか、秘訣を請いに出版人たちが引きも切らずに詰めかけた。

編集者として、ちょっと信じられない話ではありますが、しかし愉快な気分になってくる話でもあります。本を買う客を一番知っている、いわば書店員ですので、そういう勘が働く行商人もいたかもしれません。

これはこの本全体に言えることですが、イタリアに根を下ろして活動する著者ならではの本の話は、本当に読んでいて楽しいものです。この本を読むもう一つの愉しみは、たくさんの人との出会いが丁寧に描かれていることです。


ウェールズの田舎町に誕生した『本の王国』


さて、最後は、イギリスのヘイ・オン・ワイというウェールズの田舎町を、イギリスから「独立」させて、自ら王になった破天荒な古書店主を紹介しましょう。

リチャード・ブースという人物が築いた「本の王国」が、誕生・発展するまでの詳細が書かれた大変ユニークな本です。


過疎化が進むヘイ・オン・ワイで、1938年生まれのリチャードが、消防署だった建物を買い取り、古書店を開いたのは1962年のことでした。

リチャードは次に、なんとお城を買います。どれだけ本を買っても保管場所に困らないからです。さらに食糧倉庫を購入して、2店目を開くことになりました。やがて映画館だった建物も買い取り、シネマ書店とします。

しかし、いかに精力的に莫大な量の古書を集め続けても、売れなければ仕方がありません。

偶然、従業員の男性から「これからは観光の時代だ」と言われて納得したリチャードは、すぐにウェールズ観光局の局長に会いに行きます。話し合いは大成功でした。リチャードが構想を練っていた「古書の町」計画に、観光局長の応援を取りつけることができたのです。

ある日、サンデーミラーの記者と話している最中に、私は突然、突拍子もないことを口走った。
「ヘイはイギリスから独立する!」
「住民は君の考えを支持してるのかい?」。記者が小鼻をふるわせながら尋ねた。
「ああ、みんな賛成してくれている」。本当はつい五分前に思いついたばかりだった。
「それじゃ、カメラマンを送ろう」

リチャードの面目躍如です。すぐにカメラマンがやってきて、12人の従業員がにわか作りの国旗を掲げ、吹雪のなかでポーズをとりました。これがきっかけとなり、イギリス中のメディアから取材が殺到します。

独立宣言の日は1977年4月1日と決まりました。関係者による夕食会が開かれ、リチャードは世界で最も多くの本を持つ「リチャード書籍王」となることが決まります。

笑ってしまうような事態ではありますが、なんと組閣は、パブで5分で終了したといいます。ここまでくれば「痛快」の一語に尽きます。洒落でやっているのは分かりますが、普通の人間には、なかなかここまではやれません。

大臣たちの演説が終わると記者たちの質問が飛びます。

「これは真面目にやってるんですか?」
「もちろん違います」。私は思わずむっとして答えた。「しかし本物の政治よりはずっと真面目です」


12世紀に建立されたヘイ城。(1999年、Photo by Humphrey Bolton, CC BY-SA 2.0) https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9164195 による


ところで、余談になりますが、レポーターとして世界を旅していた兼高かおるをご存じでしょうか。すでに故人となってしまいましたが、世界を駆け巡る有名な女性でした。リチャードはあるとき、その兼高かおるの取材を受けることになります。

「ケネディ大統領やサウジアラビアの国王もインタビューしましたけど、あなたは私がこれまでに会ったなかで一番おもしろい方だわ」と兼高かおるは言ったそうです。彼女はリチャードから、公爵の称号を授与されました。1979年には、その兼高かおるの番組に招待されてリチャードは来日を果たしますが、この時に神保町を歩き、丸善にも足を運んでいます。

世界各地に生まれ観光名所となった「古書の町」


1980年代に入ると、リチャードはついに破産を宣告されます。結局、何とか持ちこたえたのですが、この騒動の間に、ベルギーの起業家であるノエル・アンスローという人物が、母国のルデュという森の中にある小さな美しい村で「古書の町」作りを進めていました。もちろんリチャードも協力しました。

次には、南フランスのモントリューという村が、「古書の村」になるために、ノエルとリチャードにアドバイスを求めてきました。この村を、1992年には、当時のミッテラン大統領が視察したと言いますから、大きな注目を集めていたことは間違いありません。

フランスの本の町、モントリューの通り(2019年)
(Photo by  Héctor J. Rivas)


さらにオランダやスイス、ついには一九九二年にアメリカでもミネソタ州に、「古書の町」が誕生しました。

リチャードはその後、大病をしますが、なんとか復帰。体調が回復すると「古書の町」に対する意欲が戻ってきます。観光業と書店業を相互的に発展させていくビジネスモデルが大成功を収めたのは間違いありません。ヘイが独立して21年目の1998年、リチャード・ブースを皇帝にしようとの声が上がり、ついに皇帝になったのです。

じつはこのヘイ・オン・ワイに、作家の逢坂剛さんがわざわざロンドンから足を伸ばして訪問しているのです。『世界の古書店』という興味深い本があるのですが、その冒頭で紹介されています。


この本にはその他にも、ヨーロッパが中心ですが、文字通り世界中の古書店について書かれた文章が満載で、読んでいるだけで楽しくなってしまいます。

日本にも「古書の町」ができたら素敵だと思いませんか。神保町は世界でも有数の古書街ですが、地方の小さな町で、ブースが言うような古書の町ができたら、どんなに素晴らしいでしょう。観光でも栄える場所になるかもしれません。


世界の書店の話はこれで終わります。

最近よく、書店の置かれた苦境が報道されます。しかし、本の好きな人たちの「場」としての書店がなくなることはあり得ないのではないでしょうか。これだけの伝説的な書店をご紹介したあとでは、その思いが一層深くなりました。

『世界の不思議な図書館』――ゾウが司書!? 冷蔵庫が本棚?


次は図書館をご紹介しましょう。

私は編集者という仕事柄、図書館にかなり行く方だと思います。学生時代は学校図書館も頻繁に利用しましたし、現在も近くの公共図書館にかなりの頻度で訪れます。いろいろな本が揃っている市立中央図書館は、仕事を含めて気分転換にも最高の場所です。

そんな私でも、驚きで目を瞠(みは)った本があります。最初に紹介する、世界の個性的な図書館を写真付きで紹介した『世界の不思議な図書館』がそれです。



著者はイギリス人のジャーナリスト。とにかく世界中の驚くべき図書館を、写真付きでこれでもかというほど紹介してくれます。

スペインのマドリードの地下鉄図書館、オランダの駅の図書館から始まって、2章はなんと「動物図書館」。ロバやラバ、ラクダが本を運んでくるのです。ラオスのゾウの図書館では、文字通りゾウが本を運んできます。

3章は「小さな図書館」。ニュージーランドの古い冷蔵庫を利用した図書館などなど。

とにかくこんな図書館が世界にはあるんだと、ページを繰るごとに驚いてしまう本です。そして図書館というものが果たすべき最初の仕事である「万人に等しく本を届ける」ということが、世界でどのように実践されているのかが、写真とともに解説されています。

楽しい本ですが、それだけではありません。世界には、私たちが存在するのが当然と思っている公共図書館すら、なかなか手が届かない人々がいることを知ることになります。お勧めの一冊です。

ニューヨーク公共図書館は未来をつくる


さて、ドキュメンタリー映画『ニューヨーク公共図書館――エクス・リブリス』をご覧になったことはあるでしょうか。

2017年に制作された映画で、日本で公開されたのは2019年のことでした。これは、噂に聞いていたニューヨーク公共図書館の真実を、余すところなく伝える一流のドキュメンタリーです。

ニューヨーク公共図書館(2013年、Photo by Ingfbruno, CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USA-NYC-New_York_Public_Library2.jpg による


図書館で行われる講演、コンサート、読書会、各種のイベントなどを紹介しつつ、図書館の運営に関する会議の模様なども知ることができます。最初に観た時は驚きの連続でした。というより深甚(しんじん)なる衝撃を受けました。あまりにも日本と違う図書館の在り方が紹介されているからです。

2003年に刊行された『未来をつくる図書館――ニューヨークからの報告』で、この世界的にも有名な図書館は、詳細に紹介されています。20年近く前の本ですが、本質に変化はありません。


ここに書かれてあるニューヨーク公共図書館の真実を知ると、私たちの知っている図書館とのあまりの違いに愕然(がくぜん)とすることと思います。なによりも重要なことは、1895年に開設されたニューヨーク公共図書館は、公共といってもNPOであって、いわゆる私たちが普通に考える公共図書館とは違うのです。

これはアメリカでも珍しい存在だそうです。市からもお金をもらっていますが、自分たちでも寄付を募り、多種多様なサービスに繋げていくのです。


アクションのための図書館、自立と共生のための図書館


まず、最先端のビジネス図書館から紹介しましょう。これこそ日本人には一番衝撃的で信じられない存在であると思います。ニューヨーク公共図書館の4つある研究図書館の一つです。

 一般に図書館と言えば「知の殿堂」としての学術的な色彩が強いのに対して、この図書館ではビジネスの成功者が学者になり代わり「賢人」として崇められているのである。こうした演出はシブル(科学産業ビジネス図書館)が目指すところと無関係ではない。世界経済の中心ニューヨークがその経済力をさらに強化するために、ニューヨーカーを企業家として育て、キャリアを強化し、ビジネスで成功することを奨励するという明確な目標を掲げる図書館なのである。ここで思索にふけるのは似合わない。むしろアクションのための図書館なのだ。

ここには膨大な資料があり、専門家によるビジネス講座が開かれ、ネットワーク作りの場としても機能しています。この研究図書館のオープンは1996年。日本では公共図書館とビジネスは相いれないイメージがありますが、アメリカでの歴史は、20世紀の初頭に遡(さかのぼ)るといいます。

これは、図書館の資源を有効活用して、経済的に自立してもらったほうがいいのだという合理的な発想に支えられているからです。

科学産業ビジネス図書館(2011年、Photo by Beyond My Ken, CC BY-SA 4.0) https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15261412 による


もちろんビジネスだけではありません。ニューヨーク公共図書館は、社会科学や文学などの分野でも、たくさんの人材を育ててきました。

若き日の歴史家アーサー・シュレジンガーも、一九四〇年に初めて足を踏み入れて以来、その魅力の虜になった。作家サマセット・モームも好んで利用した。ノーベル賞作家トニ・モリソンや、ノーマン・メイラー、トム・ウルフといった人気作家たちも古くからの常連だ。

ちょっと驚くような面々ではないでしょうか。ビジネスや文学だけではありません。演劇、音楽・舞踏などの研究図書館として、舞台芸術図書館もあります。

舞台芸術図書館(2011年、Photo by Kosboot, CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16951085 による


その他、ハーレムにある黒人文化研究図書館、本館にある人文社会科学図書館を含め、研究図書館は4館もあるのです。しかも多文化社会ゆえの図書館の役割も、貴重なインフラとして役に立っているのです。

移民を対象とした無料英語教室や、母国とアメリカを結んだ貿易を行なう人に対する支援も充実している。さらに、地域分館は行政情報の窓口として市民が政治に参画し、より民主的な社会が実現できるようなサポートも行なっている。

日本における公共図書館のイメージは、無料で本を借りる、新聞・雑誌を読む、あるいは受験生の自習室、というものしかなかったという著者が、ニューヨーク公共図書館では、予想をはるかに超える在り方に戸惑ったのはよく分かります。

これは映画で観るとより具体的に理解できます。私は彼我の差に、誇張でなく呆然としてしまいました。

もちろん、ゾウが本を運んで行かなければならない国や地域もあるでしょう。しかし、日本は先進国です。この本を読み、映画を観ると、公共図書館の持つ可能性とあるべき姿が浮かび上がってくるのです。お勧めの一冊です。もちろん映画もお勧めです。


この本の結びで著者が述べていることは、じつは喫緊の課題だと思います。

 確かに、日本の公共図書館は市民に広く利用され、支持者も決して少なくないが、その一方で、図書館が本来持っている可能性をほとんど生かし切れていないのではないだろうか。大半は図書の貸出しに止まっており、それが「無料貸本屋」と批判される現状もある。今の日本に必要なのは、情報社会における公共図書館の役割を再定義し、図書の貸出しに止まらない様々なサービスを提供できる体制をつくっていくことではないだろうか。

この文章が書かれてから20年近く経っても、残念ながら状況に大きな変化はありません。個人的には、「知の殿堂」としての図書館という定義に、なんら意義を唱える必要はないと思いますが、なによりもニューヨーク公共図書館のような市民へのサービスがもっとあってもいいように思います。

デンマークのにぎやかな図書館は、司書が1時間相談にのる


さて、次はデンマークの図書館を訪ねてみましょう。『デンマークのにぎやかな公共図書館』とは、それこそ図書館で偶然に出会いました。素敵な本だと思ってすぐに借り出しました。

そのあとがきには、日本の図書館界では一貫して、北欧の公共図書館を評価してきたことが書かれています。その中でもデンマークを高く評価してきたそうです。

著者は図書館の専門家です。研究のために2008年8月から8カ月にわたってデンマークに滞在して、現場を取材してまとめたものが本書です。


デンマークの図書館は、当然ですが、アメリカとはまた違った面を持っています。人々は生涯を通じて図書館に通うのです。

 デンマークでは、公共図書館が人びとの日常生活の中に溶け込んでいる。乳幼児のころは保護者と公共図書館に通い、学齢期に達すると、ごく自然に学校図書館と公共図書館を使い分けることを覚える。学生は、大学図書館と公共図書館を状況に応じて利用しているし、社会人は所属する会社や組織の図書館と公共図書館を利用している。そして、組織から離れた人びとは、再び公共図書館に通うようになる。

つまり、生涯を通じて公共図書館に通うのです。ですから公共図書館、は地域の文化センターとしての役割も担っています。講演会、映画の上映会、コンサート、読書会、語学講座などに加えて、最近では健康相談や法律相談をするところも増えてきているということです。このあたりはアメリカとも事情が似ているようにも思えます。

そしてデンマークは、世界的に見ても、最も図書館ネットワークが発達した国だそうです。図書館連携というアイデアが出現したのは、20世紀初頭だそうですから、100年かけて世界に誇るシステムが完成したということになります。

読んでいて羨ましく感じることもたくさんあります。図書館の司書に質問する人があまりに多いので、利用者が番号札を引いて待つというシステムが2008年に始まったそうですが、司書が30分から1時間もかけて、利用者の相談にのるというのは本当に素晴らしいと感じます。もちろん日本でも司書に助けられることは多いですが。

スウェーデン、ノルウェー、フィンランド……北欧の先を行く図書館に学ぶ


もう一つ、デンマークの図書館で羨ましいことがあります。ほとんどの公共図書館では飲食が許されている点です。自分の持ち込んだ飲み物やランチを取りながらの利用もできるのです。なんだかリラックスした気分になれそうな気がしませんか。

さらに、これはすごいなと思ったのは、自分の求める資料が他の図書館で見つかった場合には、デンマーク国内であれば、無料で届けてもらえることです。

私自身、最近、ある本が資料として必要になり、遠い場所にある図書館から配送してもらいましたが、かなり高額な配送料は自分持ちでしたし、なんと郵便切手で配送料を支払わなければなりませんでした。恨み言を書いているのではありませんが、図書館という公共のサービスに、もう少しお金をかけてもいいのではないかと思うのです。

 デンマークの公共図書館は、カフェを設けている所が多い。コペンハーゲン中央図書館のカフェは入り口を入ってすぐ右側にあり、二〇名ぐらいが座れる広さとなっている。普通の椅子のほかにゆったりくつろげるソファが置いていある一角もあって、コンピューターを使って長々と作業する人がいつも占拠している。

図書館の中にカフェがあるのもいいですね。軽食も取れるそうですから、こういう場所は是非ほしいと思います。


もう一つ、「公共貸与権」についても著者は触れています。公共貸与権とは、作家の作品が無料で読まれてしまうことによる損失を、補償金として作家が受け取る権利のことです。デンマークがこの制度を導入したのは1946年のことで、世界で最も早かったそうです。

ついでノルウェー、スェーデンが続きます。ちなみに日本ではこの制度はまだ導入されていません。

この本のあとに、3冊の北欧の図書館について書かれた本が、同じ出版社から刊行されています。

『読書を支えるスウェーデンの公共図書館――文化・情報へのアクセスを保障する空間』『文化を育むノルウェーの図書館――物語・ことば・知識が踊る空間』『フィンランド公共図書館――躍進の秘密』。どれもとても興味深い内容です。


さて、そろそろ図書館に出かけてみましょうか。


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第6回の読書ガイド

・『書店本時――台湾書店主43のストーリー』郭怡青著、小島あつ子・黒木夏兒訳、サウザンブックス社
・『世界の書店を旅する』ホルヘ・カリオン著、野中邦子訳、白水社
・『チャリング・クロス街84番地 増補版』ヘレーン・ハンフ著、江藤淳訳、中公文庫
・『続・チャリング・クロス街84番地――憧れのロンドンを巡る旅』ヘレーン・ハンフ著、恒松郁生訳、雄山閣
・『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』シルヴィア・ビーチ著、中山末喜訳、河出書房新社
・『オデオン通り――アドリエンヌ・モニエの書店』アドリエンヌ・モニエ 著、岩崎力訳、河出書房新社
・『移動祝祭日』ヘミングウェイ著、高見浩訳、新潮文庫
・『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』内田洋子著、方丈社
・『本の国の王様』リチャード・ブース著、東眞理子訳、創元社
・『世界の古書店』川成洋著、丸善ライブラリー
・『世界の不思議な図書館』アレックス・ジョンソン著、北川玲訳、創元社
・『未来をつくる図書館――ニューヨークからの報告』菅谷明子著、岩波新書
・『デンマークのにぎやかな図書館――平等・共有・セルフヘルプを実現する場所』吉田右子著、新評論
・『読書を支えるスウェーデンの公共図書館――文化・情報へのアクセスを保障する空間』小林ソーデルマン淳子・吉田右子・和気尚美著、新評論
・『文化を育むノルウェーの図書館――物語・ことば・知識が踊る空間』マグヌスセン矢部直美・吉田右子・和気尚美著、新評論
・『フィンランド公共図書館――躍進の秘密』吉田右子・小泉公乃・坂田ヘントネン亜希著、新評論

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【著者プロフィール】

駒井 稔(こまい・みのる)
1956 年横浜生まれ。慶應義塾大学文学部卒。'79 年光文社入社。広告部勤務を経て、'81 年「週刊宝石」創刊に参加。ニュースから連載物まで、さまざまなジャンルの記事を担当する。'97 年に翻訳編集部に異動。2004 年に編集長。2 年の準備期間を経て'06 年9 月に古典新訳文庫を創刊。10 年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。――「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房)、編著に『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)、『私が本からもらったもの――翻訳者の読書論』(書肆侃侃房)がある。現在、ひとり出版社「合同会社駒井組」代表。

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