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革命家はどんな本を読んでいたのか、小説家・哲学者は…【第5回】世界の読書論:毛沢東、モーム、ミラー、ヘッセ、ショーペンハウアー|駒井稔


毛沢東の読書論


前回までは3回にわたり「世界の〈編集者の〉読書論」をご紹介してきました。かわって今回は、前回の最後に予告しました通り、魅力的な「世界の読書論」をご紹介したいと思います。

まずご紹介するのは、ある革命家の読書論です。「世界の読書論」と銘打っておいて、革命家の読書論から始まるとは、と驚いたかもしれません。

しかし、これが本当に興味深いのです。革命家の名前は毛沢東。もう若い世代には、歴史上の人物として認識されているのではないかと思います。いいえ、それどころか、名前は聞いたことがあっても、どんな人物だったかを知る人はさらに少ないかもしれません。

毛沢東(1893-1976、66歳頃)

毛沢東こそ、現在の中華人民共和国の礎(いしずえ)を築いた革命家でした。しかし、晩年にいたっても権力闘争に明け暮れ、中国の現代史に文化大革命という大きな禍根を残した人物としても記憶されています。

昨年(2021年)、中国共産党は創立100周年を迎えました。天安門広場前で行われた記念式典で、毛沢東を意識したと思われる、人民服を着た習近平国家主席の姿が印象的でした。

かなり前になりますが、私は上海で、第一回中国共産党大会が開かれた記念館を訪ねたことがあります。編集者は好奇心の塊ですから、そういう場所には必ず行ってみたくなるのです。

その第一回大会には、もちろん毛沢東も出席していました。そのような歴史的に重要な場所であるのに、私がその建物に入った時には、ほかに訪れる人もなく、妙に閑散としていたのをよく覚えています。上海は大きく発展し、忙しく働く中国人たちは、もうこんな場所には興味がないのかな、と思ったことを記憶しています。

若い頃から猛烈な乱読家であった毛沢東


中国共産党、そして毛沢東について、アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーが書いた『中国の赤い星』は、我が国でもずいぶん読まれた本なので、ご存じの方もいると思います。革命家としての毛沢東をはじめ、当時の共産党の人びとを描いたルポルタージュですが、現在の中国を考える上でも、これは大切な本です。

最近のメディアでは、中国の動静が話題になることが増えましたが、この本を読んでおくべきと今さらながら思うのです。

この本のなかに、エドガー・スノーのインタヴュ―に答える形で、毛沢東が読書について語っている部分があります。中学校を辞めた毛沢東は、湖南省立図書館で、開館から閉館まで読書をしたことを語っています。

 この独学期間に多くの本を読み、世界地理や世界歴史を学びました。そこで私は初めて世界地図を見、非常な興味をもってこれを勉強しました。アダム・スミスの『国富論』、ダ―ウィンの『種の起源』、ジョン・スチュアート・ミルの倫理に関する著書を読みました。またルソーの著作、スペンサーの『論理学』、モンテスキューの書いた法に関する書物を読みました。ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、その他諸国の歴史や地理を本気に勉強するあいまに、詩やロマンス、また古代ギリシャの説話を読みふけったのです。

すでにこの頃から、手あたり次第の乱読は始まっていたようです。それにしても凄まじい読書量です。このエピソードからも分かるように、革命家・毛沢東には、じつは猛烈な読書家という一面が若い頃からあったのです。

秘書が明かした、蔵書への壮絶なこだわり


長じて革命家になると、まるで19世紀末にデカダンスと呼ばれたフランスの退廃的な文学者のような生活ぶりで、深夜まで読書に耽(ふけ)り、睡眠薬の力を借りてやっと眠るという生活であったようです。

毛沢東の秘書が書いた『毛沢東の読書生活――秘書がみた思想の源泉』は、興味深いエピソードが満載の本ですが、「訳者まえがき」によると、毛沢東の蔵書の収集と管理をしたのがこの本の作者である逢先知氏だそうですから、裏話のようなエピソードがたくさん出てきても当然です。

しかも16年もの年月を秘書として過ごしたので、立場上、毛沢東の読書に関することはよく知っていたのです。

一九四七年、延安を撤退するさい、たくさんの物品を捨てたが、地中に埋めた分はべつとして、書物はほとんど、とりわけ書きこみをした書物は、あちこち移し、千辛万苦の末、ついに北京に運びこまれた。毛沢東の蔵書のなかでも、これらはもっとも価値があるものの一部で、毛沢東思想を研究するのに貴重な資料である。

現在でも書店や図書館に行けば、いわゆる愛書家が蔵書について書いた本がたくさんありますが、毛沢東の蔵書へのこだわりは壮絶というか、尋常ではなかったことが分かります。

もちろん革命家としての読書ですから、世界文学や中国のリアリズム文学など、ほとんど読んでいない分野もあったので、毛沢東の思想には限界があったこと、それが不利をもたらしたこともあったことを、この秘書は率直に認めています。

しかし、読書への熱中ぶりはちょっと比類のないものに思えます。

 毛沢東は、読書して倦(う)むことを知らなかったひとである。昼寝を忘れるとか、食事を忘れるのは、しょっちゅうであった。われわれ幹部によびかけて、読書の習慣をつけ、仕事以外の時間は読書するようにと指示したことがあった。ひとに要求するだけでなく、自分がまず実践した。
(中略)あるとき、ナポレオンの伝記が読みたいというので、翻訳されたものを何冊か送った。一緒に読みはじめたひとがまだ一冊も終わらないうちに、毛沢東は三冊とも読みおえていた。毛沢東の睡眠時間はたいそう少なく、不眠不休で仕事をしているようにみえた。読書も同様で、利用できる余暇は、ほとんど読書に使った。

なんだか「ちょっと長いまえがき」(連載第1回)で書いた、エスカレーターでも本を読み続ける少女のような読書の仕方だと思いませんか。革命家でありながら、これだけ読書に耽溺(たんでき)する本好きというのは、ちょっと想像もつきません。

もちろん革命家は理論武装しなければいけないので、当然と言えば当然ですが、ここまで読書する人間は稀ではないでしょうか。

レーニンやトロツキーも大変な読書家だったと思いますし、そこから得た知識を使って自らの理論を発展させていったことは同じでしょう。それと比較しても、毛沢東の読書ぶりは異様な印象を受けます。しかも生涯を通じてそうだったのですから。

かつて毛沢東は「年をとっても勉強しなければならない。私が十年後に死ぬとしたら、あと九年と三五九日(太陰暦では一年は三六〇日:原注)勉強しなければならない」と言ったそうですが、本当にそのような生涯を全うしたわけです。

マルクスよりも史書を読みふける――革命家ならではの読み方


毛沢東の読書対象は、マルクスやレーニンはもちろんのこと、中国の古典に大きな時間が割かれました。最も多く読んだのが、中国の史書だそうです。

いわゆる「二十四史」といわれるもので、中国王朝の正史二十四書のことだそうです。『史記』から始まり、『漢書』『後漢書』など明王朝の滅亡までの歴史書のことです。また、『資治通鑑』(北宋の司馬光が1084年に完成した歴史書)については、よく書けていると高評価を与えていたようです。

有名な古典小説も読んでいました。『金瓶梅』(きんぺいばい:明代の長編小説)には封建社会の矛盾が詳細に暴露されている。『紅楼夢』(こうろうむ:清代乾隆帝の時代に書かれた長編の白話小説)は封建的大家族の没落と封建社会の階級闘争を描いた小説である。『西遊記』(明代の長編白話小説)とその作者については称賛していたということです。

『紅楼夢』女流画家・徐宝篆による挿絵


いかにも共産主義者という読み方ではありますが、長い長い小説を楽しんで読んだことが伝わってきます。

じつはもうひとつ、毛沢東の主治医だった人物が書いた『毛沢東の私生活』といういささかスキャンダラスな本があります。この本に書かれた毛沢東は、極めて人間らしい革命家として登場します。

上下巻に分かれた大部な本ですが、現在でも読み返す価値が十分にある本です。中国の近現代史に少しでも興味がある方にはお勧めです。

そこに『紅楼夢』についての毛沢東の発言が紹介されています。

「この『紅楼夢』なる小説は、封建社会の興亡を描いたものだ――二千年におよぶ中国史の圧縮版だね。私はふだん小説を読まないが、『紅楼夢』だけは好きだ」

そう著者に語っていたことが書かれています。また、前述した睡眠薬への依存も、この本で明かされています。

この医師はまた、毛沢東の史書への耽溺ぶりも証言しています。そして重要な指摘をしています。

毛は政治闘争の準備に入るとき、きまってマルクスよりも史書を読みふけったが、後漢時代の歴史はとりわけうまく書かれており、戦略的な術策にはこと欠かない。

ここでは毛沢東の史書に対する関心の源がどこにあるかが指摘されています。それにしても毛沢東の読書は実利的というにはあまりに徹底したもので、人間が本を読むことの究極の形を示したものだという強い印象が残ります。

最も薄くて、最も内容がある、モームの読書論


さて、話題を変えましょう。サマセット・モームという作家の小説をお読みになったことはありますか。

『月と六ペンス』がとても有名ですが、古典新訳文庫ではほかにも、短編集『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』、さらには『人間の絆』改め『人間のしがらみ』があります。

私は個人的にもモームの小説が大好きで、本当に小説がうまい作家だと、読むたびに感心しています。時としてモームは、大衆的な作家だと誤解されていることがありますが、今回取り上げる本を読めば、モームが純然たる芸術家であることが一目瞭然だと思います。

ところが、残念なことに、これからご紹介するモームの読書論は、案外知られていないのです。ですから、モームファンの私の友人に勧めたところ、「ええ、こんな本を書いていたのか。全然知らなかった。モームらしい、ドキリとするくらい本音の読書論だね」という感想が返ってきて、とてもうれしく思いました。

ユーモアにあふれた、そして痛快な内容で、個人的には数多(あまた)ある読書論のなかでも、何度読み返してもまったく飽きない内容です。書店や図書館にあるたくさんの読書論をお読みになった方にも、原点に戻るという意味では、これは最適な本だと思います。

書名は『読書案内――世界文学』。原題は「BOOKS AND YOU」。

私は編集者という仕事柄、非常にたくさんの世界文学の入門書を読んできました。そのなかにはいわゆる鈍器本(鈍器になるほど分厚い本)と呼ばれるような大部な本も何冊もあります。しかし最も薄い本が、この『読書案内』なのです。

最も薄くて最も内容のある本。モームらしい皮肉とユーモアに満ち満ちた奥の深い内容を持っています。

第一の条件は「楽しく読めるということ」


そもそも、この本はアメリカの週刊誌での連載を一冊にまとめたもので、刊行時に「はしがき」を付け加えています。最初に読んだ時の感想は「さすが、モーム。肩の力が抜けているなあ」というものでした。

ドストエフスキーだ、トルストイだ、バルザックだ、メルヴィルだ、などという作家名とその作品がズラリと並ぶと、横綱が勢ぞろいしたような印象があって、緊張しないで読むことができないように思いますが、その手の本のなかで唯一、気楽に読むことができる一冊だったからです。

日本でも、若い世代には少なくなってきたとはいえ、いまだ世界文学というと、襟を正して読まなくては、というような古典的な教養主義は生きているといってもいいと思います。ですが、「面白いよ、この作品は。寝っ転がって読んでごらん」とモームに肩を叩いてもらえるのが、この『読書案内』なのです。

ある書物をリストにとりあげるにあたり、まず第一にその書物に求めた条件は、楽しくよめるということであった。それというのも、リストにかかげた書物を、あなたにぜひともよんでいただきたいからである。(中略)文学史の上からすれば、どれほど重要であろうと、研究者は別として、今日ではだれもよむ必要のない書物がたくさんにある。

この「楽しんで読める」ということが、明治期から外国文学を輸入し、学習することで成立してきた日本の近代文学の読者が、なかなか辿り着けない境地であったことは間違いありません。

サマセット・モーム(1874-1965、60歳頃)

しかしモームは「楽しく読めればいいんだよ」と、この問題をあっさりと片付けてしまいます。

20世紀文学は19世紀文学と比較して、実験的な要素が濃く、特に難解なヌーヴォーロマンなどを、「これが分からないと文学が分からない」というような圧力を感じて読んだ世代としては、もっと早くモームのこの解毒剤が欲しかったと思います。

そして唐突ですが、村上春樹さんの小説の出現は、そういう意味でも画期的だったのだと感じています。

傑作とされていても「一向におもしろくもおかしくもないものがある」


さて、続けてモームの言葉を引用しましょう。

ある書物があなたにとって大切なのは、その書物があなたにたいしてどのような意味をもつかという、ただその点だけなので、たとえあなたの意見が、他のあらゆる人びとと相容れないことがあっても、そんなことはぜんぜん問題にはならない。あなたにとっては、あなた自身の考えこそ、価値をもつのである。(中略)芸術上の問題については、これが正しい、あれは間違っている、といったことはありはしない。

さらにモームは踏み込んだ発言をしていきます。ここまで言うのはなかなか大変なことだと思います。

傑作といわれるもののなかには、一流の批評家がこぞって傑作であるとみとめ、文学史家がそのためには少なからぬスペースをさこうという書物でありながら、普通の読者が今日よんでみると、一向におもしろくもおかしくもないものがある。専門の研究者にとっては重要な書物であるだろう。だが、時代が移り、人びとの趣好がかわってきたところから、せっかくの持味を失い、そのためいまでは、努めて意志をはたらかせねばよむことができなくなっている。

これも読めない自分自身を責めがちであった私たち普通の読者には、ありがたい言葉ではないでしょうか。そして極めて重要な指摘でもあると思います。

当たり前のことを言うことが、どれだけの勇気が必要であったことか。21世紀の若い読者には、是非このモームの教えを胸に刻んで欲しいと思います。

1940年に刊行されたこの本には、しかし、時代的な限界もあります。副題には「世界文学」とあり、三部構成になっていますが、イギリス文学、ヨーロッパ文学、アメリカ文学の三部構成になっている点です。

まだラテンアメリカ文学のブームは到来していませんでしたし、アジア文学についても大きく取り上げるだけの必然性が感じられなかったのでしょう。しかし、それこそ時代的制約というもので、モームを責めてみても仕方ありません。

この本には現在のような高齢化社会を予見したような指摘もあります。

人生の盛りをすぎてから、それをこころみて、しかも満足のえられるスポーツといっては、読書をおいてそうたくさんはない。

若いお爺さんとお婆さんに聞かせたいですね。読書はスポーツだ! そういわれると気が楽になりませんか。

「飛ばして読む権利」を行使せよ


本書はデフォー『モル・フランダース』から始まり、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、フィールディング『トム・ジョーンズ』と、イギリス文学の紹介が続いていきます。

私がオッと思うのは『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボンの自叙伝を挙げていることです。これは私のお気に入りの一冊でお勧めです。モームも注目していたなんて、と最初に読んだ時にうれしくなりました。

ヨーロッパ文学では、セルバンテス『ドン・キホーテ』から始まります。モンテーニュ『エセイ』、ゲーテ『ヴィルヘルム・マイステル』、ツルゲーネフ『父と子』、そしてトルストイの『戦争と平和』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を挙げた後に、飛ばし読みのすすめを書いているのです。

『カラマーゾフの兄弟』のおわりの数章は、うむところを知らぬ読者でもなければ、とうてい完全にはよめるものではないのだから。わたくし自身のことを申せば、ドストエフスキーが、法廷の場面で、弁護士に述べさせている論告など、精読する気にはとうていなれず、ざっと目を通しただけであった。いままでにわたしくしがとりあげた書物は、すべて重要なものばかりで、十分注意をしてよむだけの価値があるとは思うが、それですら、とばして読む権利を用いたほうが、一層楽しくよめるはずである。

こんな大胆な飛ばし読みの権利を主張することは、モームならではでしょう。普通はたとえ飛ばし読みをしていても、こんなに正直に言いませんし、言う必要もありません。

逆説的に聞こえるかもしれませんが、モームは誠実な作家なのです。『戦争と平和』についても飛ばし読みの権利を行使しています。

戦争の場面があまりにもしばしば出てきて、しかもその一つひとつが微に入り細に入り語られていてうんざりするくらいであり、フリーメーソンに加わったピエールの経験は、退屈なことこの上もない。しかし、そうしたところは、とばしてよめばよい。とばしてよんでも、やはりこの小説が偉大な作品であることには少しもかわりがない。

私はモームが本当に飛ばして読んだのか、少し疑問に思っています。これは作家の自己韜晦(とうかい)ではないかと思うからです。私自身はモームが退屈だと言っている箇所も編集者としてきちんと読みましたが、別に退屈ではありませんでした。

ただモームの言っていることは、とても重要なことだと思います。あまりに誠実に作品と取り組んで自分に絶望することがないようにということを、繰り返し読者に納得させようとしているからです。


文学とは芸術であり、楽しみのために存在する


アメリカ文学について語った章でも、さりげなく重要なことに触れています。

ベストセラーになったことは、その書物がぜんぜん無価値であるという証拠には少しもならない。『デイヴィッド・コパフィールド』にせよ、『ゴリオ爺さん』にせよ、『戦争と平和』にせよ、いずれも昔からベストセラーだったではないか。だが、だからといって、ベストセラーであることは、その書物が傑作であるという証拠になるわけのものでもない。

ベストセラーについては、昔から議論のあるところではありますが、これは正論だと思います。訳者によって書かれた「モームのベストセラー論」が、本書の巻末に収容されていますが、「ベストセラー」なる用語はアメリカで20世紀の初頭に出来上がったものだそうです。

もう一つ、モームはアメリカ文学の章で重要なことをさりげなく書いています。

だが、文学はどこまでも芸術である。哲学でもなければ科学でもなく、社会経済でもなければ政治でもない。芸術なのである。そして芸術は、楽しみのために存在するのである。

私たちは21世紀もようやく20年を過ぎた現在、この言葉を素直に受け取れるようになったのではないでしょうか。

『世界の十大小説』――伝記的な部分も楽しめる


さて、モームは『世界の十大小説』という個性的な文学案内を書いています。この本も読書論としての一面を持っています。いわば『読書案内』の続編といえるでしょう。

こちらは1954年に書かれています。『読書案内』と重なる作家と作品もかなりありますが、作家の伝記的な記述があり、それから作品の紹介になるという構成になっています。

伝記的な部分はさすがに作家・モームの面目躍如で、いろいろな資料から再現される作家の素顔と人生は大変面白く描かれていて、それだけで十分に楽しめる内容になっています。

例えば『ゴリオ爺さん』を書いたバルザックの大食漢ぶりを描いたところなどは圧巻です。バルザックの本を出した出版者の証言が紹介されます。

ある食事の席で、彼(バルザック)が牡蠣百箇、カツレツ十二枚、鴨一羽、しゃこ一つがい、ひらめ一尾、デザートの菓子数箇、梨十二箇を平らげるのを目撃したと言う。時がたつうちに物凄く太って、巨大な布袋腹(ほていばら)をもてあますようになったのも驚くに当らない。

本当かなと思うくらいの健啖家(けんたんか)ぶりですが、ここまで克明に記録する必要があると考えるのはモームが作家だからでしょう。というのも、フローベールの『ボヴァリー夫人』を紹介した章の書き出しは以下のようになっているからです。

 ある作家がどのような作品を書くかは、その作家の人物いかんによって決定され、したがって生涯の重立った出来事について知っておくのは、その作家を理解する上に好都合であると私は信ずるが、もしそうであるとすれば、この生涯の重立った出来事を知っておくというのは、やがて明らかになるように、フローベールの場合、とくに重要である。

こういう文学観は古いものとされた時期がありました。作家の人生と作品は別々に論じられるべきだという考えが支配的な時代があったのです。

しかし個人的にはモームの立場に共感を覚えます。巻末には登場する十人の作家が一堂に会する想像上のパーティが開かれるというお楽しみが待っています。世界文学の入門書としてお勧めの一冊です。

この『十大小説』というタイトルに触発されたであろう面白い文学の入門書がありますので、紹介しましょう。

文芸評論家の篠田一士が書いた『二十世紀の十大小説』には、プルーストの『失われた時を求めて』のような世界文学はもちろん、日本からは、島崎藤村『夜明け前』が入っています。

また、木村榮一さんの『ラテンアメリカ十大小説』もあります。ガルシア=マルケス『百年の孤独』、プイグの『蜘蛛女のキス』など、ラテンアメリカ文学研究のパイオニアである木村さんならではのガイドブックになっていますので、読んでいて楽しいこと。これもお勧めの一冊です。

さらに世界文学の案内として、あのナボコフの『ナボコフの文学講義』『ナボコフのロシア文学講義』はお勧めです。ナボコフらしいちょっと皮肉な語り口で、世界文学の名作の魅力が語られていきますので、楽しめる上に大変勉強にもなります。

私は編集者として、折に触れて読むようにしています。未読の方は是非お手に取ってみてください。


ヘンリー・ミラー『わが読書』――児童文学、冒険小説への評価


英語圏から読書論をもう一冊紹介しましょう。今、若い世代に聞いてみると名前さえ知らないことに驚きますが、ヘンリー・ミラーというアメリカの偉大な小説家がいます。

70年代に高校生だった私のような世代には、ヘンリー・ミラーの小説『北回帰線』と『南回帰線』は必読書でした。性的な描写に惹かれて密かに読んでいたのですが、その作風にも不思議な魅力がありました。

そのヘンリー・ミラーの全集に、『わが読書』という著作が入っています。

私がこの本に惹かれた理由は単純です。ヘンリー・ミラーの作品が好きだったことと、ライダー・ハガードをヘンリー・ミラーが高く評価していることでした。

ライダー・ハガードの『ソロモン王の宝窟』は、私が夢中で読んだいわば生涯最初の本の一冊でした。小学生の時にほとんど毎晩この本を読んでから寝ていた記憶があるほどです。

そしてその本は大事に今も手元に置いてあります。偕成社版の『ソロモン王の宝窟』は、私にとっては貴重な一冊なのです。

『わが読書』を手に取るまでは、彼がこういう児童文学を高く評価しているとは知りませんでした。性的なことばかり書いている作家のイメージがあったので驚いたのです。

しかも第四章のタイトルは「ライダー・ハガード」です。その中でこんな読書論を述べています。

 こう考えて来ると、ますますぼくは或る年齢に達したら少、青年期に読んだ書物を再読することが不可避の必要となることを信ずる。さもなければぼくらは自分が何者であるか、なぜ自分が生きたかを知ることなしに墓場へ行くことになるだろう。

これは最近自分自身もよく考えるようになったことです。幼い頃に縮約版で読んだ児童文学をもう一度読むことは、実は重大な意味を持っていると気づかされる文章です。

古典新訳文庫で『仔鹿物語』『ロビンフッドの冒険』『地底旅行』『ハックルベリーフィンの冒険』などの完全版を50代になって読んだことは、大きな収穫となりました。大袈裟ではなく、それは豊かさを人生にもたらしてくれることに気づいたのです。

できるだけ少なく読みたまえ!


同時にヘンリー・ミラーは読書について、こんなことも書いています。

 ここで、抑えがたい衝動に駆られて、ぼくは一つの無償の忠言を読者に献げる。こういうことだ―—できるだけ多くではなく、できるだけ少く読みたまえ! いや、読者よ、ぼくが書物の海に溺れている連中をうらやんでるなどと疑わないでください。ぼくといえども、かつて心のなかであれほど長いあいだあこがれて来た書物のすべてをかたっぱしから読破したいと心ひそかに思わぬでもない。が、それが大切なことでないことをぼくは知っている。いまでは、かつて読んだ十分の一の本さえ読む必要はなかったことを知っているのだ。

あのヘンリー・ミラーがこんな真面目なことを書いている。私はちょっと驚きました。確かにこれは彼の心底からの告白ともとれる内容です。

改心したのかと心配になった方、ご安心ください。というのも本書には、いかにも彼らしい一章があるからです。「トイレでの読書」。こんな章があること自体がやはりヘンリー・ミラーだなあ、と思ってしまいますが、この本自体はとても読み応えのある読書論になっています。

ヘッセの読書論――乱読への戒め


ここで舞台をドイツに移しましょう。『ヘッセの読書術』をご紹介します。ヘッセはもちろん、日本でも知らぬ人はいないという作家ですが、この読書術というか、読書論は非常にはっきりとした主張のある本です。

「書物とのつきあい」という文章では、乱読に対してなかなか手厳しい指摘をしています。

 せかせかと休みなく読み、いたるところでつまみ食いをし、いつもただ最も刺激的なものと、精選されたものだけを得たいと望む人は、まもなく表現の様式と美しさを理解する感覚をだめにしてしまうであろう。このような読者は抜け目のない専門的な知識をもつ芸術愛好家という印象を人に与えがちだが、たいてい読んだ本の筋だけとか、くだらない、風変わりなことを記憶しているにすぎない。

最近はやたら多読を勧める本が多いという印象がありますが、ヘッセはそれを強く戒めます。三人か四人の一流の作家の作品を完璧に繰り返し読んだ人間は、次から次へと好奇心の赴くままに、たくさんの国々のあらゆる時代の作品を読んだ人間より、はるかに多くのことを学んでいるというのです。

ヘンリー・ミラーと同じ少読の勧めですね。ヘッセ自身は膨大な蔵書を持ちながらも、乱読を戒めているのです。

「保養地での読みもの」というエッセイではこんなことまで書いています。

そもそもよい本とよい趣味の敵は、本を軽蔑する人や字の読めない人ではなくて、乱読者だからである。

ヘッセ自身が大変な読書家であったことは間違いありません。本書の「世界文学文庫」という文章のなかで披瀝(ひれき)されている作品の数々は、想像を絶するほど大量なものです。

別の文章では数万冊の本を読んだことを書いています。本質的な読書をするべきだというのがヘッセの主張なのです。「教養」の文字が溢れる最近のわが国の本の洪水を見たら、ヘッセならなんと言うかは自ずと分かります。

 本当の教養は、何らかの目的のためのものではなく、完全なものを目指すすべての努力と同様に、それ自体価値のあるものなのである。(中略)《教養》すなわち、精神と情緒を完成するための努力もまた、ある限られた目標に向かう難儀な道ではなくて、私たちをよろこばせ励ましながら私たちの意識を拡大し、私たちの生きる能力と幸福になる能力を豊かにすることなのである。

このような教養の定義を、もう一度考える時期に来ているように思います。読書論が実用的なものになり過ぎ、教養の意味も知識と同じになってしまっている状況はそろそろ変わるべきでしょう。

 私たちをこのような教養に導いてくれる道のうちで、最も重要な一つの道は、世界の文学作品を地道に読むことである。すなわち、過去の時代が、多くの民族の詩人や思想家の作品という形で私たちに残しておいてくれた思想、体験、象徴、想像の産物、理想像などの膨大な宝とゆっくり慣れ親しんでゆくということである。

別に古典新訳文庫の宣伝をしたいわけではありませんが、ヘッセの主張は古典を読むことに向かいます。

真打登場、ショーペンハウアー


さてさて、真打登場といきましょうか。同じドイツの哲学者、ショーペンハウアーさんです。

『読書について』は、かなり刺激の強い内容です。訳者の鈴木芳子さんの、とても分かりやすい見事な新訳の原稿を読んでいた時に、これは厳しいなあ、とショーペンハウアーに直に叱られているような気分になったことを記憶しています。

「自分の頭で考える」という論考には以下のような主張が繰り返し登場します。

 本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。これは、一分のすきもなく完璧な体系とまではいかなくても理路整然たる全体像を展開させようとする、自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が自然に融合してひとつにまとまってゆくことはなく、むしろ頭の中にバベルの塔のような言葉の混乱をそっと引き起こすからだ。

さて、毛沢東さん、この発言をどう思いますか、と尋ねたくなりませんか。ここには多読者の陥りがちな陥穽(かんせい)が見事に描かれているといえるでしょう。確かにたくさん読めばそれでいいというわけではないのです。

 人生を読書についやし、本から知識をくみとった人は、たくさんの旅行案内書をながめて、その土地に詳しくなった人のようなものだ。

 自分の頭で考える人と、ありきたりの博覧強記の愛書家すなわち本から得た知識をこよなく愛する人との関係は、現場の目撃者と歴史研究家の関係に似ている。

こう続けて言われてしまうと、全く反論の余地がありません。いささか逆説的な論理展開にも思えますが、ここには大事な真理が語られていると思います。

自分の頭で考えることを忘れるなというショーペンハウアーの語りには、独特のニュアンスがあります。自分を含めて、いかにきちんと考えることを日常的に行っているかを、もう一度考えるよいきっかけになりそうです。

ショーペンハウアー(1788-1860、71歳頃)


それにしてもずいぶん手厳しいですね。
それではそのものずばりの「読書について」という文章を見てみましょう。

常に読書のために設けた短めの適度な時間を、もっぱらあらゆる時代、あらゆる国々の、常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品へ振り向けよう。私たちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけである。

 どんな時代にも二種類の文学がある。両者は互いにほとんど素知らぬ顔で、それぞれの道を行く。真の文学と、うわべの文学だ。

さあ、いかがでしたか。さすが真打だと思ったのではないでしょうか。

このショーペンハウアーの本は、読んでしまうと、ちょっと感覚が変わってしまうような、凄みのある本です。だからこそ読書論として読む価値があると思います。

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第5回の読書ガイド

・『中国の赤い星(上・下)』エドガー・スノー著、松岡洋子訳、ちくま学芸文庫
・『毛沢東の読書生活――秘書がみた思想の源泉』逢先知著、竹内実/浅野純一訳、サイマル出版会
・『毛沢東の私生活(上・下)』李志綏著、新庄哲夫訳、文藝春秋
・『月と六ペンス』モーム著、土屋政雄訳、光文社古典新訳文庫
・『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』モーム著、木村政則訳、光文社古典新訳文庫
・『人間のしがらみ』モーム著、河合祥一郎訳、光文社古典新訳文庫
・『読書案内――世界文学』モーム著、西川正身訳、岩波文庫
・『世界の十大小説(上・下)』モーム著、西川正身訳、岩波文庫
・『二十世紀の十大小説』篠田一士著、新潮文庫
・『ラテンアメリカ十大小説』木村榮一著、岩波新書
・『ナボコフの文学講義(上・下)』ナボコフ著、野島秀勝訳、河出文庫
・『ナボコフのロシア文学講義(上・下)』ナボコフ著、小笠原豊樹訳、河出文庫
・『北回帰線』ヘンリ・ミラー著、大久保康雄訳、新潮文庫
・『南回帰線』ヘンリー・ミラー著、河野一郎訳、講談社文芸文庫
・『わが読書(ヘンリー・ミラー全集11)』ヘンリー・ミラー著、田中西二郎訳、新潮社
・『ヘッセの読書術』ヘッセ著、岡田朝雄訳、草思社文庫
・『読書について』ショーペンハウアー著、鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫

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【著者プロフィール】

 駒井 稔(こまい・みのる)
1956 年横浜生まれ。慶應義塾大学文学部卒。'79 年光文社入社。広告部勤務を経て、'81 年「週刊宝石」創刊に参加。ニュースから連載物まで、さまざまなジャンルの記事を担当する。'97 年に翻訳編集部に異動。2004 年に編集長。2 年の準備期間を経て'06 年9 月に古典新訳文庫を創刊。10 年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。――「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房)、編著に『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)、『私が本からもらったもの――翻訳者の読書論』(書肆侃侃房)がある。現在、ひとり出版社「合同会社駒井組」代表。

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