ベストセラーから個性的な書評集まで…人生を豊かにする本に出合う方法【連載最終回】ちょっと長いあとがき|駒井稔
本を探すためのオーソドックスな方法
さて、皆さん、この連載、『編集者の読書論』を楽しんでいただけましたでしょうか。
ずいぶんたくさんの本をご紹介しましたが、これは編集者の性とでもいうべきものです。とにかく面白い本があったら、お勧めしたくなるのです。
連載中に、読んでいただいた方から質問がありました。あんなにたくさんの本の存在をどうやって知ったのですか、という問いです。
もちろん、編集者はたくさんの資料を読むことも仕事ですから、一つのテーマに沿った本を探すことには長けていると思います。
書店や図書館に行くことはもちろん、関連書籍の紹介されている本などに丁寧に目を通します。当然ですが、ネットの情報も集めます。
これらすべてが今日では極めてオーソドックスな方法論であることも確かです。
一方で、若い世代の本好きと話していて、彼らがどのように本と出合うのかを説明された時、まったく新しい時代がきていることを痛感しました。
ご存じのように、今の若い世代は、新聞や雑誌をあまり読みません。新聞や週刊誌の書評欄を楽しみにしている私のような世代とはまるで違うのです。
彼らに私が何度も本の情報収集法について尋ねたのは、それこそ編集者としての興味からでした。
「あなたたちは本とどうやって出合うのか」
私の質問に対する答えは、予想をはるかに超えるものでした。
彼らのように読書の大好きな人たちの情報収集の方法は、まず書店に行くこと。そして次がなんとツイッターなのです。自分の関心のある本を紹介している人をフォローしていくことが大切なことなのだそうです。
そして実際、彼らの本の情報量はすごいです。古典から最先端の作品まで、私もいろいろなお勧め本を教えてもらって、メモを取ることもしばしばです。
それにしても書店とツイッターという組み合わせは、意外でした。そして新しい時代の到来を感じました。
私も遅ればせながらツイッターで面白そうな本を紹介している人をフォローしています。最初はなんだか心もとない気持ちだったのですが、慣れてくると確かにたくさんの情報が流れてくることに気づきました。
ベストセラーを読んで時代の流れを知る
さて、編集者として私は、ベストセラーには、できる限り目を通すようにしています。
以前は「私はベストセラーは読まない」と言うことが、読書人としての知性の証しだというような時代もありましたが、もうそんなことを言う人はあまりいないでしょう。
もちろん、書店でさっと目を通すだけで十分な本もたくさんあることは間違いありません。
しかしフィクション、ノンフィクションを問わず、ベストセラーを読んで時代の流れを知ることは大切だと思います。
もちろん、いろいろな考え方があってよいと思うのですが、少なくとも私はそう考えています。
「ベストセラー」の誕生
そもそも、「ベストセラー」なる言葉が誕生したのは、20世紀になってからであることをご存じでしょうか。
英文学者である武田勝彦の書いた『アメリカのベストセラー』という本に、その経緯が書かれています。1903年が「ベストセラー」という言葉の誕生の年だったのです。
これまでにも何度か言及しましたが、識字率が上がって、本を読むという習慣があらゆる階層に広がったのは、歴史的にみると比較的最近のことですから、それを考えると、ある意味幸福な時代が到来したといえるでしょう。
当時は年間1万部も売れればベストセラーに入ったといいますから、1852年に初版が出たストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』が英米で50万部以上売れたことは、19世紀最大のベストセラーであったことを意味します。
ただ、著者も指摘しているように、現代では「ミリオンセラー」もありますから、ベストセラーを数量的に定義することは難しいところです。
ちなみにこの本は、日本のベストセラーにも言及しています。江戸時代のベストセラーについて書かれた興味深い記述があるのです。
「千部振舞」とは、なんとも味わい深い言葉ですね。
「ベストセラー」についてのお勧め本
「ベストセラー」といえば、いくつかお勧めの本があります。まず、『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』です。
この本では、あらゆるジャンルの本が紹介されています。それこそトランプ本から起業家の回想記まで、アメリカという国を知るためには、ベストセラーとの付き合い方が有益であることが分かる内容になっています。
井上ひさしの『ベストセラーの戦後史』は、日本の戦後史をベストセラーから読み解くという試みですが、まず昭和20年の『日米會話手帳』から始まっています。
これはアメリカの占領下で突如、英会話の必要性に目覚めた日本人に、競って読まれたことで有名な本です。こういうベストセラーの取り上げ方も興味深いです。
三島由紀夫による文学論――未知の作品に挑戦
つぎに、私が折に触れて手に取る本をご紹介しましょう。『三島由紀夫のフランス文学講座』です。
この文庫本は、本との出会いを望んでいる人にとっては、象徴的な存在になりうるのではないでしょうか。フランス文学で読むべき本の存在を知る上で、格好の入門書としても役立ちます。
この本を編んだのは、フランス文学者の鹿島茂さんです。「編者あとがき」でこんなことを書いているのが、初読の時から印象的でした。
泉下の小説家・三島由紀夫は、こんなことを言われて複雑な気持ちかもしれませんが、私も彼が戦後最高の批評家であるという言葉に同意します。
残念ながら三島の小説については、私はけっしてよい読者であるとはいえませんが、文学論に関しては、鹿島さんの意見にまったく賛成です。
続けて鹿島さんはこんな風に書いています。
三島由紀夫の透徹した理解に、研究者でも太刀打ちできないと思ったという記述には、正直、驚きを禁じ得ませんでした。
そして三島由紀夫は、フランス文学のみならず日本文学についても、私をずいぶん啓蒙してくれました。
『小説とは何か』という本は、1972年に刊行されていますから、私は高校生のときに読んだのだと思います。この本で初めて稲垣足穂という作家を知り、國枝史郎の『神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)』という作品を知りました。
さらには『遠野物語』に言及している文章に幻惑されましたし、『家畜人ヤプー』の存在を知ったのもこの本のおかげです。
三島由紀夫はある意味で別格としても、自分の関心のある詩人や作家の書いた書評集や文学論は、まだ読んだことのない本を知る上では最高の指南書になると思います。
こういう本に触発されて、未読の作品に挑戦していくことが、新しい本と出合う一番の近道であり、楽しい読書体験ができるのではないでしょうか。
自分の関心に合った、個性的な書評集――米原万里さん、須賀敦子さん
さらに、私が愛読している鮮烈なタイトルの書評集を2冊ご紹介しましょう。『打ちのめされるようなすごい本』と『塩一トンの読書』です。
前者はロシア語通訳者だった米原万里さん、後者はあの須賀敦子さんの書評集です。
誰でも本の好きな人は「打ちのめされるような」作品と出会いたいと思っているでしょう。米原万里さんが紹介している本は、膨大な量になります。ですから、ふと気の向いた時に読むことで新しい本との出会いが繰り返し訪れることになるのです。
また、須賀敦子さんの「一トンの塩を舐めるうちに、ある書物がかけがえのない友人となるのだ」というレトリックには、本の理解は生易しいことではないということがよく表現されていると思います。
そもそもタイトルにもなっている「塩一トン」という言葉は、須賀さんがイタリア人の夫と結婚した時に、夫の母親から聞いた言葉です。「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」。
つまりうれしいことや悲しいことを長い時間をかけて共に経験しなければならないのだという、含蓄のある言葉なのです。
この本にもたくさんの本が紹介されていますが、最後に紹介されているベトナム文学の傑作、バオ・ニン『戦争の悲しみ』は、この本で知ってすぐに読んだ記憶があります。
皆さんも自分の関心のある本を紹介している個性的な書評集を、ぜひ探してみることをお勧めします。
お読みいただきありがとうございました
おっと、またお勧め本の紹介になってしまいました。これはあとがきなのですから、それに相応しい文章を書かなければいけません。
本書で私が何度も強調したのは、編集者という概念が、日本では、正確に確立されていないということでした。
もちろん、優秀な編集者はたくさんいますが、その職業的な定義がひどく曖昧なところがあると思います。
よく言われる「編集者は黒子である」という抽象性から抜け出して、職業人としての編集者像を明確に提示できるようにすることが私の狙いでした。敢えていまどきの言葉でいえば、編集者は「クリエイター」なのだということを強調したかったのです。
だからこそ、この「読書論」が成立すると考え、いろいろと「編集者」から見た読書について書いてみました。よい意味でお役に立てば幸いです。
この連載も今回で最終回を迎えることになりました。読んでいただいた方々には心より感謝いたします。
連載中は様々な反響がありましたが、どれも私にはとても有益なアドバイスとなりました。本にまとまりましたら、是非お手に取っていただきたいと思っております。
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第10回の読書ガイド
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【著者プロフィール】
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