大人になった今だからこそ読みたい、子どもの頃からの「積ん読本」:【第9回】児童文学のすすめ|駒井稔
記憶の中に残る「読まなかった本」の豊かさ
この連載の第1回「ちょっと長いまえがき」で、私の同級生である、リタイアした若いお爺さんに、スウィフトの『ガリバー旅行記』を勧めたことを書きました。
最近、また彼と話をしたのですが、彼はいわゆる児童文学というものに、深く魅せられていることが分かりました。『ガリバー旅行記』はもちろん、最近読んだ児童文学の名作の題名を、次々と挙げていくのです。
その誇らしげな顔を見ていると、私のお勧めは間違っていなかったなと、ちょっとホッとしました。彼は最近では、孫に絵本を買ってあげるようにもなり、絵本そのものに興味を抱くようになっているようです。
こういうお勧めができたのも、実は私にはネタ本があったからなのです。『子どもの本の森へ』という本がそれです。
古書でしか手に入らないのが残念なのですが、大変優れた内容を持った本です。ユング派の心理学者として有名な河合隼雄さんと、詩人の長田弘さんの対談集です。大人が子どもの本を読む意味を、これほど明確に語っている本を他に知りません。
出だしから少し、ご紹介しましょう。
じつに見事に児童文学の本質を突いていると思います。続けて二人はこんな話題をさらっと話します。
いかがでしょうか。児童文学とどう付き合っていくかを、この本からたくさん学べるということが、お分かりいただけたと思います。本当にお勧めの一冊です。児童文学の好きな方はすでにご存知の方も多いかもしれませんが、もっと広く読まれてほしい本です。
もともとは大人向けの作品――縮約版とは似ても似つかない内容のことも
さて、そんな児童文学の名作ですが、ひとつ大きな特徴があります。私自身が古典新訳文庫を編集しながら気づいたことなのですが、児童向けのかなりの数の作品が「縮約版」であるということです。
誤解してもらっては困るのですが、これが悪いと言っているわけではありません。私自身が、縮約されたもので児童文学に目覚めたのですし、本が大好きな少年として育ち、運よく編集者になることがきたのも、それらの本のおかげです。
しかし、作品の全体像に触れることなく長い年月を過ごした後に、編集の仕事を通じて完訳版を読んでみると、まるで印象の違うことも多く、戸惑いを隠せませんでした。
もちろん『ロビンソン・クルーソー』や『ガリバー旅行記』は、もともと子ども向けに書かれたものではありませんし、縮約や翻案は、外国でも普通に行われてきたようです。
上智大学で教鞭を執っていたピーター・ミルワードさんが書いた『童話の国イギリス――マザーグースからハリーポッターまで』という新書があります。
そのなかに、こんな一節があって、なるほどと思いました。
事情は本国でも同じようなものなのです。子どものころ愛読した『ロビンソン・クルーソー』が、じつはこんなに長大な作品だったということを知った時のミルワードさんの驚愕ぶりは、容易に想像できます。私自身もそうでしたから。
しかし、だからといって、彼のように大変なショックを受けたわけではなく、そんなことだったんだなと思っただけでした。『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』もそうですし、『仔鹿物語』に至っては、別の作品を読んでいるような気持ちにさえなったことをよく覚えています。
今回取り上げる児童文学の作品は、現代作品である『トムは真夜中の庭で』を除くすべての作品が、いずれも古典新訳文庫で新訳されたものを紹介することになります。いわゆる「手加減のない新訳」で読むことが大切だと思うからです。
しかし『ロビン・フッドの愉快な冒険』が、文庫とはいえ500ページを超えたときには、正直、驚きました。私が少年時代に読んだ本の何倍もの分量になるのですから。
カフカが読んだ『ロビンソン・クルーソー』
さて、今回はその問題の『ロビンソン・クルーソー』から始めましょう。
じつは、前回(連載第8回)取り上げた「自伝」のなかで、"自分が読んだ本"として『ロビンソン・クルーソー』を取り上げている人物が二人いました。
一人はジョン・スチュアート・ミルです。少年時代を通じて擦り切れるほど読んだことを告白しています。
もう一人、ヘレン・ケラーも『ロビンソン・クルーソー』を挙げています。
さて、次の文章は誰のものか、想像しながら読んでみてください。
さあ、この言葉が誰のものだと思いますか。
なんとあのフランツ・カフカの『カフカ寓話集』にあるロビンソン・クルーソー考です。さすがにとても鋭い考察だと思います。
また、ドイツでは盛んにこの小説が読まれ、変形譚も多く書かれたようですが、ゲーテも読んでいたようです。『詩と真実』という自伝的な作品の最初のところで、少年時代に読んだ本に挙げています。
ルソーが、マルクスが読んだ『ロビンソン・クルーソー』
ではフランスではどうでしょう。
意外なことに、ルソーの『エミール』にも取り上げられています。
エミールの教育に絶対に不可欠な一冊が『ロビンソン・クルーソー』だというのは、ちょっとびっくりします。
ただし、『ロビンソン変形譚小史――物語の漂流』という本を読むと、ルソーのこの選択にはかなり複雑な背景があるようです。
それでは最後に、大御所にご登場願いましょう。誰あろう、カール・マルクスです。
しかも出典はあの『資本論』です。児童文学として読まれてきたもので、ここまで広範囲に取り上げられた本は、他にはないのではないでしょうか。
いかにもマルクスらしい筆致でロビンソン・クルーソーを分析しています。
ロビンソン・クルーソーは完訳がおすすめ
さて、ロビンソン・クルーソーの翻訳には多くのバージョンがあることは分かりましたが、古典新訳文庫の唐戸信嘉さんの実に読みやすい新訳は、もちろん完訳版です。私はこの本で、生涯はじめての『ロビンソン・クルーソー』完読を果たしました。
光文社新書の『文学こそ最高の教養である』でも、この作品をテーマにした訳者の唐戸信嘉さんと私の対談が収録されていますので、ぜひお読みいただきたいと思います。
私の読んだ児童向けの本には、肩にオウムを載せて召使のフライデーを連れたロビンソン・クルーソーの挿絵があったように記憶していることは、この対談でも言及しています。そして超人的なサバイバルの技術を持っている人間として描かれていました。
乗っていた難破船から回収した品々を上手に使いながら、困難を乗り越えて生活をしていく、不屈の男性の話というのが、私を含めた普通の読者の持つ、この物語のイメージではないでしょうか。
完訳版を読んだ方はご存知でしょうが、じつはロビンソンの物語は、絶海の孤島から始まるわけではありません。ロビンソンは父母の止めるのも聞かずに、1651年に故郷を飛び出して、ロンドン行きの船に乗りますが、いきなり嵐に会って難船し、何とかロンドンには着きます。最初の航海からして波乱含みだったのです。
そこで故郷に帰ればよいものを、アフリカのギニアへ向かって再び航海に出るのです。今度はトルコの海賊に捕まって奴隷にされますが、機会を見て逃亡してポルトガル船に助けられ、南アメリカのブラジルに着くのです。
ここで商売にも成功したロビンソンは、農園主たちの要望を受けて、アフリカからの黒人奴隷の密貿易を企てます。このアフリカへの航海中に、難船して孤島に流れ着き、一人で生きることを余儀なくされたのです。
暮らしたのは「絶海の孤島」ではなかった
さて、増田義郎さんが訳した中公文庫も完訳です。増田さんの専門は文化人類学ですから、その視点で書かれた巻末の解説は、詳細を極めたものになっています。ロビンソン・クルーソーが暮らした島が「絶海の孤島」ではなく、現在は南米ベネズエラ領のオリノコの大河の河口近くだと場所を推定しています。
私はこれを読んで、それまで持っていた「ロビンソンは絶海の孤島で暮らした」というイメージが間違っていたことに驚きました。
しかし、それを知っても落胆はしませんでした。小説として、ロビンソンが宗教に目覚めていく過程などは優れた文学的描写だと思いましたし、彼の孤独な心象風景の描き方は、この『ロビンソン・クルーソー』がイギリス初の近代小説だということを十分に納得させてくれるものだったからです。
この作品は、デフォーが59歳の時に書かれました。それまでは債務者監獄に入れられたり、政治家の密偵なども務めた波乱の生涯を送っています。ですから、作家としてのスタートは遅かったのです。
ちなみに日本では、森鷗外が「ロビンソン・クルソオ」という興味深い文章を書いていますし、夏目漱石は『文学評論(下)』で「ダニエル・デフォーと小説の組立」という一章を割いています。もちろん『ロビンソン・クルーソー』も論じられています。
夏目漱石も絶賛――スティーブンスンの『宝島』
『ロビンソン・クルーソー』の次のお勧めは、『宝島』です。今回読み直してみて、本当に優れた、そして面白い小説だと思いました。読んでいてワクワクする気持ちを抑えきれません。村上博基さんの新訳の校正紙を思わず夢中になって読んでしまい、編集者としての作業を忘れそうになったことを思い出しました。
海賊といっても、これだけの海賊たちは日本にはいません。残念ながらスケールがまるで違います。
これは夏目漱石の「予の愛読書」というエッセイの一節です。『宝島』への直接の言及はありませんが、作家としてのスティーヴンスンには絶賛といってもいい評価を与えています。
さて、作家の辻原登さんが集英社のポケットマスターピース『スティーヴンソン』で『宝島』についてこう書いています。
その出会いはこのようなものでした。
これが『宝島』という傑作が誕生した経緯です。
辻原さんは高校生の時に本物を読んでいますが、私は50代になるまで本物を読んだことがありませんでした。そして今回読み直して、本当によくできた素晴らしい小説であることを実感しました。というよりも面白くてページをめくる手が止まらないという表現がぴったりの読書になったのです。
特に、物語の事実上の主人公ともいえる片脚の海賊シルヴァーには魅せられました。コックと称して船に乗り込むのですが、じつは悪名高き海賊の仲間だったのです。この人物の陰影のある描き方は、少年の時よりも現在の方がより理解できるのではないかと思います。ぜひぜひ、大人の読み物として、楽しむことをお勧めします。
英国王室も頼りにした海賊たち――『宝島』の歴史的背景を読み解く
併せて、海賊のことを勉強してみるのも一興です。武田いさみさんが書いた『世界史をつくった海賊』という新書によると、16世紀のイギリスにとって、当時の先進国であったスペインやポルトガルのような豊かな国家へ発展できるかが、大きな課題だったということです。ですから、他国の帆船を襲撃して高価な品を手に入れる海賊たちを、当時のエリザベス女王は集金マシーンとして頼りにしていたのです。
こういう事情があって、イギリスには海賊がたくさんいたのです。この本はそういう意味で『宝島』を読み解くヒントが満載の本です。
もう一冊『〈海賊〉の大英帝国――略奪と交易の四百年史』という本も興味深い本です。
『宝島』の作者、スティーヴンスンは、他にもすぐれた作品をたくさん書いています。古典新訳文庫でも『ジーキル博士とハイド氏』『新アラビア夜話』『臨海楼奇譚 新アラビア夜話 第二部』を読むことができます。
男性にもぜひ読んでほしい『若草物語』――忘れがちな価値観を教えてくれる
ここで「少女小説」に話を転じましょう。『若草物語』を取りあげます。
このタイトルでは、昭和の男の子はなかなか手に取ることができませんでした。原題は「Little Women」ですが、邦題はかなり凝ったものになっています。
この小説はもちろん、編集者としての仕事で読みました。そして大ファンになりました。この四姉妹を中心とした物語は、大人の文学としても十分に通用する水準だと思います。
南北戦争の時代に、四姉妹がそれぞれ個性的な人生を歩んでいく物語です。私は老若を問わず、男性にも読んで欲しいと思います。主人公の次女ジョーは、作者・オルコットがモデルになっていますが、19世紀のアメリカで、小説を書きながら自立していく女性の姿が浮かんできます。
四姉妹それぞれの人物造形も本当に見事です。隣家の少年ローリーとその祖父との四姉妹の関係も、アメリカの良さを感じさせますし、ローリーの家庭教師と長女メグとの恋愛も心和むものがあります。
彼らの母親の結婚観、貧しくとも愛され尊敬される男性と幸福な一生を送るべきだという一節が、心に残ります。不況が長く続く日本では、ついつい忘れがちになる価値観ですが、大切なことではないでしょうか。登場人物たちのナイーヴすぎるくらいの言動に、人間として大切なものがあることを読み返すたびに教えられます。敢えて若い男性から若いお爺さんにお勧めするゆえんです。
もはや「少女小説」ではない――ボーヴォワールも『若草物語』を熱愛
この小説を熱愛したのが、サルトルの伴侶、ボーヴォワールです。解説で、新訳をてがけた麻生久美さんも引用しているのが、『娘時代――ある女の回想』です。『若草物語』との劇的な邂逅を語っています。
ボーヴォワールは、ジョーに自分をなぞらえるのです。いかにもボーヴォワールらしい感想です。彼女がジョーに感情移入したのはよく分かる気がしますが、それにしてもこんなに大きな共感を持って読んでいたことは驚きです。
解説と一部重なりますが、引用しましょう。
また、『ルイーザ・メイ・オールコットの日記――もうひとつの若草物語』には、オルコットが残した日記が紹介されています。
『若草物語』を執筆していた1868年8月26日の日記には以下のような記述があります。
文字通り売れっ子作家になっていくオルコットですが、これが自伝的な作品であることを日記に書いているのです。
さらに『ルイザ――若草物語を生きたひと』は、非常にすぐれたオルコット伝になっています。写真もたくさん入った伝記です。
また、作家で翻訳家の井上一馬さんの『「若草物語」への旅』は、文字通りオルコットの故郷であるコンコードへの自らの旅を描いた歴史紀行文です。物語の背景を知るためにも非常に興味深い一冊だと思います。
オルコットさん、『若草物語』はもはや「少女小説」ではなく、21世紀のオジさんたちにも、とても面白く読める作品になったのです。世の中は進歩したのです。そういう意味でもすごい小説だといえますね。
『ハイジ』『あしながおじさん』『小公女』――おじさんが夢中になる魅力
古典新訳文庫には、女性作家の書いた児童文学の作品がいくつもありますが、『アルプスの少女ハイジ』『あしながおじさん』『小公女』はお勧めです。いずれも大人、とりわけおじさんが読んでも全く違和感のない優れた文体で新訳されています。
『小公女』が刊行された時、まもなく還暦を迎える男性社員が、古典新訳文庫の編集部に駆け込んできたそうです。「面白かった。本当に面白かった。『小公女』!」。それだけ大声で叫ぶように言うと、去っていったといいます。
私が児童文学をお勧めするのは、冒頭で紹介した河合隼雄さんと長田弘さんのコメントにもあったように、この男性社員のような感情が人間にはいくつになっても残っていると思うからです。
じつは昨年、私も必要があって、土屋京子さんの手加減のない見事な新訳で古典新訳文庫の『小公子』や『秘密の花園』を含むバーネット三部作を読み返しました。
『小公女』は、お嬢様である主人公セーラが、父親の事業の失敗とその死によって、どん底の生活に叩き込まれながらも、人間としての矜持を失わずに立派に生きていく物語です。
もちろん、ハッピーエンドが待っていますから、ちょっと意地悪な見方をすれば、お嬢さんがたまたま経験した辛い人生を描いたもの、ともとれるわけです。
しかし、『小公女』がもし、それだけの内容でしたら、先の男性社員はそれほど感動したでしょうか。少年時代から二度目の読書になることを意識して読み直して、私も『小公女』に最も深い共感を抱きました。ここには人間の持つ最良な部分が、惜しみなく描かれているといってもよいと思います。
そしてそれは、普遍性にまで達しているのです。児童文学というレッテルを剥がして読んでみれば、話の筋こそ少しステレオタイプかもしれませんが、高い文学性を持った作品だということがよく分かります。そしてだからこそ、児童文学としても現在も読まれ続けているのだと思います。
これは余談ですが、私が参加している日本最大の読書会「猫町倶楽部」で、「少女が主人公の作品が面白い」と発言したら、メンバーの女性から勧められたのが、リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』。今読んでいるところです。笑わないでくださいね。
知らなかった『ロビン・フッド』の本当のエンディング
さて、それでは次に、ハワード・パイルの『ロビン・フッドの愉快な冒険』にいきましょう。『トム・ソーヤーの冒険』と並んで、小学生の私が夢中になった本です。こういうアウトローには、子どもも憧れるのです。
じつはこの物語には、非常に個人的な思い出があるのです。
私が読んでいた児童書では、ロビン・フッドは王様の家来になって伯爵になったところで終わっていました。これが幼い私の最大の不満でした。陽気な仲間たちとシャーウッドの森で自由気ままにビールを飲みながら楽しく暮らしていく方がどれだけいいか、と、子ども心にとても残念に思っていたのです。
小学生ともなれば、行きたくない学校へ行き、退屈な授業に耐えなければなりません。そんな私にとって、シャーウッドの森で暮らすロビン・フッドと仲間たちは憧れの的だったのです。
ところが、30代の終わりに週刊誌編集部にいた私は、本好きの仲間と『ロビン・フッド』の話をしていて、エンディングが残念だったという印象を語ったところ、女性の同僚から「あら、それ違いますよ。最後はシャーウッドの森に戻るのです」といわれたのです。
私はびっくりして言葉を失いました。翌日、彼女は自分の読んだ『ロビン・フッド』を持って来てくれました。私の読んでいたものは抄訳版もいいところ、エピローグがカットされていたことに気づいて愕然としたものでした。
その後、古典新訳文庫で刊行され、三辺律子さんの清新な新訳で読み直した『ロビン・フッドの愉快な冒険』は、きちんと完訳されていますから、安心して物語を楽しむことができました。そしてイギリスの伝説的な物語をこのような形にまとめあげたアメリカの作家、ハワード・パイルの小説家の腕に改めて感服しました。
長いけれどこんなに面白い作品だったのだと、深く感じ入ったのです。しかも個性的なすべてのイラストがパイルの手になるものなのです。
子どもの頃に読んだ時とは、この作品は感想がずいぶん違いました。アウトローの世界はもちろん憧れですが、小説としての構造が優れていることと、登場人物の個性的な描き方にすっかり魅了されたのです。
特に、ロビン・フッドの側近であるリトル・ジョン、ウィル・スタトレイ、鋳掛屋、ウィル・スカーレットなどなど、非常に個性的な面々が活躍するのを読むのは、本当に楽しい読書体験でした。
「シャーウッドの森で、陽気な仲間と気ままに暮らす」という夢
あまりに有名な作品ですから、物語の要約はあえてしませんが、英文学者の上野英子さんの『ロビン・フッド伝説』には児童文学に関する以下の記述があります。
子どもはそれまで労働力であり、教育の対象となったのは歴史的には比較的最近のことだということが分かります。児童文学の誕生は「子どもの教育」という概念の誕生でもあったということでしょう。ハワード・パイルは19世紀の中葉に生を享けていますから、もうかなり洗練された児童文学の世界が存在したことが分かります。
同じ上野英子さんの本に『ロビン・フッド物語』という新書がありますが、そこに引用されている『トム・ソーヤーの冒険』に関する記述に深く共感したのはお分かりいただけると思います。
これこそ『ロビン・フッドの愉快な冒険』の最大の魅力だと思います。そして大人が読んでもそれは実感できるのです。
いえ、このような閉塞感に満ちた時代にこそ、想像力の翼を広げて、ロビン・フッドの心の友になろうではありませんか。
チャタレー夫人も歩いた「ロビン・フッドの道と森」
最後にちょっと面白い話をご紹介しましょう。『森のイングランド—―ロビン・フッドからチャタレー夫人まで』という本があります。その本に紹介されているのですが、チャタレー夫人であるコニイが、車椅子の夫・クリフォドに従って森を散策する場面があります。
なんとも興味深い話ではありませんか。ロビン・フッドがいたシャーウッドの森を、チャタレー夫人が夫ともに散歩していたなんて。
読んで衝撃の連続『ピノッキオ』
さて、児童文学は、主な作品が英米のものが多いことにお気づきでしょうか。ここでひとつ、大人にお勧めのイタリア児童文学を挙げましょう。そう、『ピノッキオの冒険』です。
古典新訳文庫では、大岡玲さんの見事な文体で新訳された完訳版を、楽しみながら読むことができます。
ピノッキオといえば、私も初めてのイタリア旅行で、いい年をして大きな人形を買ってきたことを思い出します。ストーリーについては、「噓を言うと鼻が伸びる」くらいの、絵本で学んだ知識しかなかった私にとって、この完訳版は衝撃的でした。
イタリアの子どもたちの絶大な支持を集めたというこの作品が刊行されたのは、1883年のことです。とにかく私にとっては、驚きの連続といってもいいくらいの作品でした。その理由は大岡玲さんの解説にも書かれています。
確かに若い世代に聞いてみると、アニメで観たという人が多いことに驚きました。私たちの世代では、私を含めて、絵本や童話でピノッキオを読んだ人も、まだかなりいた印象があります。
ピノッキオ観がまったく変わったという私の読書体験をお分かりいただけたと思います。それどころか児童文学の枠をはるかに超えた文学作品として、味読することが可能だと思います。それこそ、長田弘さんのいう「ツンドク」の人たち、つまり大人の読書にピッタリです。
ちなみに、冒頭で触れた私の友人も、『ピノッキオの冒険』を古典新訳文庫で読んで、大きな衝撃を受けていました。
さらに詳しくピノッキオについて知りたい方には、『ピノッキオとは誰でしょうか』という本がお勧めです。作者のコッローディについてはもちろん、書かれた時代背景などについても詳細な説明があり、読んでいてとても楽しい本です。
最後に熱くお勧め――傑作中の傑作『トムは真夜中の庭で』
さて最後は、現代作品から超お勧め本を一冊ご紹介しましょう。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』がそれです。
これは大人が読む本ではないかと思うくらい水準の高い、「時間」をうまく使ったファンタジー作品です。主人公のトムは文字通りの少年ですが、物語の構造は大人でないと理解できないところもあるとさえ思えます。
私はこの本の存在を、冒頭で紹介した『子どもの本の森へ』で知りました。一読して驚嘆の念を禁じ得ませんでした。これが児童文学なのかと考えこんでしまうくらいの衝撃だったのです。河合隼雄さんと長田弘さんが絶賛していたのも納得がいきました。
物語は、トムという少年が、弟がはしかにかかり叔父さんの家に預けられるところから始まります。三階建ての建物の二階に叔父さんたちは住んでいるのですが、その屋敷にある古くて立派な柱時計が、夜に、不思議なことに13時を打つのを聞いてしまいます。
トムは扉を開けて外に出てみるのですが、そこには昼間見た光景とはまったく違う美しい庭があったのです。毎日夜になるとトムはその庭を訪れるのですが、そこで、ある日、ハティという少女と知り合います。ここから物語は進んでいくのです。
長い引用になってしまいましたが、河合隼雄さんは、『こころの読書教室』という本でも、『トムは真夜中の庭で』について、「児童文学の傑作中の傑作と言われています」と内容を詳しく解説しています。
また、『洋子さんの本棚』という対談集では、作家の小川洋子さんとエッセイストの平松洋子さんが、第一章の「少女時代の本棚」で、二人とも『トムは真夜中の庭で』を最初に挙げています。
私自身も何度も読んでいますが、これは一級の文学作品だと思います。主人公が子どもであれば児童文学だと決めつけてしまうのは、本当にもったいないことです。
こういういわゆる児童文学を読み始めると、次々と読みたくなるのも不思議です。フィリパ・ピアスの他の作品はもちろんのこと、有名なミヒャエル・エンデの『モモ』などもお勧めです。
児童文学の素晴らしさについて書いていると、ついつい熱くなってしまう自分を感じます。皆さんはぜひ気負うことなく、完訳された児童文学の未読のものに挑戦していただきたいと思います。
それこそ、長田弘さんのいう「ツンドク」ですが、思わぬ発見や喜びに胸を打たれることは間違いありません。
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第9回の読書ガイド
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